本書を読んでいくつも気にかかることがあった。個人的なこともあり、また、もう少し大きな問題もある。
個人的なことといえば、父のことである。父は10数年前に病没したのだが、入院中にせん妄状態になり、「天皇陛下に申し訳ない」と言い出した。かれは、旧職業軍人で、終戦時には連隊長で、日本に生還したのはかれの部隊の5%ほどであったという。戦後すぐは主だった部下の家族のもとを訪ねてその戦死の様子を伝えていたという。私がそのことを知ったのは、最晩年のことで、かれは戦争体験のことはごくわずかしか語らなかった。
しかし、そのかれが、死の間際に申し訳ないといったのは、陛下から預かった部下や武器を失ったことであった。せん妄状態とはいえ、晩年でもそのようなことは語ったことがなかったので、ある種のショックを受けた。幸せな戦後を家族とともに送ったはずだったのに、穏やかでない死を迎えたと思えた。もちろん、戦中戦後まもなくであれば、かれの行動や言動は、おそらく共感を持たれたのではないかと想像するのだが。
本書と関連することで言えば、祖父は本書に登場する近角常観に接し、職業軍人であった父はおそらく時期的には弟の常音の教えを受けたようだ。常音は私が生まれた頃に亡くなったのだが、両親は戦後も、常音の縁者(信者と言ってもいいだろう)会を重ねていたようだ。私自身。子供の頃に何度も、東大谷の親鸞御廟の社務所での会合に参加する両親とともにでかけ、妹とその間境内で遊んでいた記憶がある。また、自宅にも少なくとも私の小学生の頃までは、常音の縁者だった両親の友人たちが訪れていた。
うる覚えではあるが、父は最後の戦場(終戦を知らずに?1945年9月まで、フィリピンの山中をさまよっていた)に赴くおり、常音を訪ねて心がけを聞いたという。親鸞の教えを近代日本に蘇らせるべく葛藤し宗教改革を目指した、清沢満之や暁烏敏、近角常観の系譜の一端に、父もそして、父と1944年に結婚した母もまた、「近角宗」の教えに感化されていたのである。その後も、両親は浄土真宗大谷派の寺院の檀家の一員として、様々な会合に出向いていた。
本書は、近代日本の宗教改革を目指した清沢らの背景には親鸞自身の持つ思想があり、くわえてそのかれらの理解が「日本主義」と親和性を持っていたがゆえに、かれらの宗教改革が帝国日本のファシズムに加担することになったとする。本書を読むとたしかに、その流れがよく理解できたのだが、とはいえ、真宗教団自身はどうだったのか、ということが気にかかるところだ。
むしろ、真宗教団は彼らの解釈を利用して体制迎合して戦場に真宗信徒を送り出すことの加担したと言えるのではないだろうか。戦場に教誨師を部隊とともにおくり、天皇のために死ぬことについての宗教的な心証を信者に与えようとしたようだ。真宗は、少なくとも中世から近世にかけて一向一揆は明らかに反体制的であったはずであったが、しかし、徳川幕藩体制に入ると、体制側に組み込まれる。差別戒名のことや宗門改めの名目をもったキリスト教弾圧に体制側として加担していたことは確かと言えるだろう。
親鸞は「弟子一人ももたず」と述べていたように、かれは、思想家として「絶対他力」を唱えるものの、かといってそれを他者に教えることはしなかったのではなかったか。教えるという行為は「自力」と親和性があると理解したからだろう。親鸞自身の教えからすると、真宗は教団を作らなかったはずだ。しかし、その後、蓮如以降、一向宗として体制と対立して独自の宗教王国を作ろうとするという思考は、逆に体制への組み込まれやすさを生み出すことになったのではないだろうか。明治維新以降の真宗の宗教改革は畢竟、蓮如の踏襲であって、親鸞へのそれではなかったのではないだろうか、と思えてしまう。
とすると、本書が今後の課題として抱えるのは、真宗教団というややもすると体制へと迎合しようとするながれが、清沢らの改革派をとりこみ、かれらの「日本主義」的理解を利用しようとした流れを批判的に検討することなのではなかとおもえるのだが、どうだろうか。