湯澤規子、2020、『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか:人糞地理学ことはじめ (ちくま新書)』、筑摩書房
著者とご縁があって本書をご恵贈いただいたのだが、じつは、その前に電子書籍で読み上げていて、お礼のメールには読後の感想を付けて送信したという経緯がある。以下は、その読後の感想をもとに少し手を加えたものだ。
本書は、人文地理学に日常を送り込むという狙いを込めて「人糞地理学」という隣接領域まで提案するという意欲的な一冊だ。内容的には、「糞」という文字が、「米」+「田」+「共」という文字から構成されることでもわかるように、江戸時代が人糞を活用した農業生産であったこと、しかし、合成肥料の導入とともに無用のものと化し、どのように「処理」するのかが重要な課題となってきたかについて、様々なトピックが触れられている。
読んでいて、いろいろ、ウンコについて自分自身を振り返ってみたり、思い出したりした。わたしは、1951年生まれで、トイレ事情からすると「ぼっとんトイレ」のバキュームカー育ちということになる。住まいは、町外れの田畑が歩いて数分のところから広がっているところだった。しかし、中2のころに徒歩範囲だがもうすこし町中に、引っ越した。その家では、浄化槽のといれだったのでバキュームカーとは縁が切れた。また、大学院に入った年に奈良の新興住宅地に引っ越しし、そちらは、住宅地ひとつが共同の浄化場施設をもっていて、水洗トイレになった。やがては、10年ほどのうちに奈良市の下水道の整備とともに、浄化場はなくなって住宅地内の公園になった。
子供の頃の家の所在地は、大阪の東郊の町外れだった。住宅のすぐ脇には畑があり、また、100メートルも行くと田んぼがひろがっていた。ここには野壺(といっていたとおもう。一辺が2−3メートルほどもあるもの)が残っていて、近所のお百姓さんが桶を使って下肥をはこんで柄杓をつかって畑にまいていたのを見たこともある(本書の記述では私のうまれた1950年代には、すでに合成肥料の時代になっていて野壺などはなくなっている時期)。ということは、おそらく、野壺は現役だったのだろう。
その証拠と言っていいのかわからないが、近所の女の子が野壺にハマり、改名したことをおぼえている。野壺にハマって糞まみれになると改名するというのが鮮明な記憶になっている。たぶん、小学校に上る前だった。農家はともかく、サラリーマンの家にとっての野壺は唾棄すべきイメージとなっていたのではないか。その一件以降というわけではないが、野壺は次々と廃棄されて畑になっていった記憶だ。私が中2でもう少し町の中に引っ越した頃、田んぼはすべて町工場に変わっていってしまった。
それから、私が赤ん坊の頃の話として母から聞いた話だが、最初に住んでいた住宅の近くを通る「国道」(簡易舗装であったような、砂埃の立つような道)には、自動車がたまに通るぐらいで、牛が肥えための桶をのせて、大阪の方から生駒の山の方に向かって通っているのを見ていた(母が国道に連れて行ったのは、自動車好きだったらしい私に自動車を見せるつもりだった)と、話してくれたのも関連した記憶といえるだろう。
考えてみると、大阪の近郊とはいえ、高度経済成長期の前半期では、地域差があったということではなかったか。もちろん、1950年代の前半あたりは、流石に下肥を農家が引き取って野菜を置いていくといったようなシステムはおそらく崩壊して、ちょうどバキュームカーによる汲み取り行政サービスとの交代期に見た時代であったと思う。