先日、裁判員裁判を傍聴してきたので、幾つかコメントを記録しておきたい。なお、わたしは、裁判に出席したことは、傍聴も含めてこれまでになく、非常に興味深かった。
まず、お断りであるが、ここで記すコメントは、特定の裁判について批評ことを目的としようというものではない。そのために、可能な限り、詳細な記述を避けている。また、事実関係については、私のノートによっているので、事実関係についての正確さについては、全面的な信頼をおくべきではない。あくまでも、私の理解に基づいている。また、風評被害を避けるためにも、コメントやトラックバックがあったとしても、一切回答はおこなわない。念のためであるがわたしは、傍聴マニアではない。
つぎに、わたしが裁判員裁判を傍聴することになった理由についても触れておく。傍聴をしたこと自体に、個人的な事情があったことは否定しないし、間接的なステークホルダーであるかもしれないが、ここで記すことについてはまったく、自由な立場で書いている。
また、これまでも、傍聴員裁判を傍聴したいと考えていた。それは、一般の人(私も含める)にとって、裁判過程がどのように見えるのか、それを知りたかったからである。本当のところ、裁判員にならないと、内部事情を知り得ないわけではあるが、今回のそれは、あくまでも、傍聴人としての立場で見ることは、それなりの意味があると考えた。つまり、傍聴がなんのために行われるのか、また、マスコミによる報道ではわからないことが理解できるのではないかと考えたからである。
さて、傍聴した一日の流れについて述べておこう。
9時半開廷とのことで、9時に傍聴券を配布する(可能性がある)とのことであったので、8時45分ごろに、裁判所の建物の前に行った。
9時半の開廷の少し前、係官の説明で、テレビカメラ(と思われるが)が入るとのことで、そのことで了解が求められた。しかし、その際には、裁判官のみがならび、裁判員は出廷していない。また、収録は2分間とのことであった。いったい、この撮影はどのような意味、あるいは、意義を持っているのであろうか。ニュースなどでよく見る状況説明的な映像ということなのであろうか。とすると、江戸時代以来の「お白洲」の再現で、マスコミも、いい加減にしないといけないとおもう。また、裁判員の協議の必要により、証言席での証言を録画しているので、傍聴人が、撮影される可能性があり、その撮影角度が指摘されて、留意するようにとのことであった。
傍聴席では、録音、録画は許可をえないとできないし、携帯電話は、電源を切るかマナーモードに設定するように指導があった。もちろん、休廷時間内については、その限りではなく、私も、法廷内で、メールチェックなどを行っていた。ノートをとることやPCを操作(記者のひとりは、ノートPCを広げて、入力していた)については、禁止の規定はなかった。
わたしは、ノートをとったが、結構大変であった。PCを持っていけばよかったと思ったが、この裁判は、9時半に開始されて、この間何度も休廷があったのだが、終了は17時半過ぎであり、電源問題で、これが解決できないと無理である。少なくとも、私の用意できるPCには長時間の使用はできなかったわけで、ノートをとることしかなかったわけではある。
裁判には、進行上区切りがあって、その都度、裁判長が指揮をして、休廷時間を宣言する。昼食の1時間が最長であったが、数分から1時間まで、たくさんの休廷時間が設けられ、裁判官(員)は、控室(だろう)に引き上げた。これは、裁判員のためであったのかどうかはわからないが、しかし、裁判員制度のために裁判員の拘束時間を短縮するために、時間管理としては裁判日程は短縮されているので(つまり、一日で審議を終えるなど)、従来の裁判運営に比べると短縮されているはずである。このような頻繁な休廷をとるという時間管理がどのような影響を持つのか、定かではない。なお、この裁判の判決は翌日に出されたが、当日の法定では判決は16時と告げられたにも関わらず、19時半頃であったという(わたしは、判決には出廷しなかった)。
裁判長は、時間管理も含めて、裁判の進行を管理している。しかし、この過程はあくまでも、すでに決まった枠組みの中で行われていて、特段、裁判長の個性が現れているようには見えなかった。この点についても、やはり、裁判が普遍的な正義に基づいて行われるものではなく、状況的な正義によってなされ、裁判長も、個人の意見というよりも、組織(役所)としての、裁判所の枠組みをでるものではないことがわかる。今回の裁判は、明らかに裁判員の存在を前提に運営されていて、休廷時間内の協議(おそらく行われている)において、裁判の進行や内容についての統制(管理)が行われていることを想像させる。
裁判の進行をみると、検察側のプレゼンテーションがモニタをとおして(PCでパワーポイントを用いて)行われ、また、裁判員(官)にたいして、資料が配布されたのに対して、弁護側のそれは、パワープレゼンテーションはなく、資料配布にとどまっていた。傍聴人の立場からすると、傍聴人にも検察側の陳述の流れはよくわかり、逆に弁護側はよくわからず、聞くしかない。これが、この弁護士の戦略(あるいは選択)であるのかどうか、よく分からないのであるが、すくなくとも、検察官側は明らかに様式されたプレゼンテーションがトレーニングされている。このことは、弁護側にも準備が必要であると思われる。このままでは、検察側に有利に進行するような印象を受けた。
裁判所のPC/モニタの施設の管理について、一方が有利にならないように設置されていることを望むが、しかし、裁判全体の過程を通じて、検事側だけでなく、弁護側もまたこの手のリテラシーの向上は望まれるところであると思われる。
少なくとも、裁判員制度である以上、弁護側のプレゼンテーションの手法は、再考されてしかるべきと思われる。また、裁判員だけではなく、傍聴人もまた、重要なステークホルダーであると思われるので、情報は(詳細を必要としないが)可能な限り、わかりやすく、見やすく提示される必要があると思われる。少なくとも、傍聴していた限りでは、弁護側はステークホルダーが誰であるのかとの認識が弱いような印象を受けた。