South Is. Alps
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Square Kauri
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Lake Griffin
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岐阜「開化亭」(中華):NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」

夕べNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」:「意思あるところに道は拓ける:古田等」をみていたら、岐阜「開化亭」で食べたことを思い出した。2009年12月9日の昼飯だった。金華豚ハムと搾菜のラーメンを食べたとつぶやいている(Twitterにてhttp://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/8170cc2fa84d30e914f7f6c4c011bb8b)。たしかに、中華定番の食材と味ではあったが、すっきりとしておいしかった。

また行きたいものだ。

NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」:「意思あるところに道は拓ける:古田等」:http://www.nhk.or.jp/professional/2011/0307/index.html

2011-03-08 07:10:27 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


裁判員裁判傍聴記(2)

この記録は、裁判員裁判傍聴記(1)からのつづき。

さて、私の傍聴した事件は強制わいせつ致傷について争われたもので、事実関係についての争点はなく、被告は、この点について争わないことを、述べていた。したがって、本件については、量刑判断が争点となる。また、経緯は承知しないが、本件は、被告による累犯を別件裁判で扱うこととするようにあらかじめ判断されていて、少なくとも、傍聴した時点では、こういった裁判以前の経緯については明らかではなかった。また、裁判では、事件の性質から被害者の人権擁護のために固有名詞をあげないよう指揮がなされた。そうしたことを尊重することを前提として、犯行そのものについて、ここでこれ以上触れることはない。

さて、裁判は、犯行の動機をめぐって進行する。検察側、弁護側の調書でもいずれも、犯行前の被告の状況、犯行の動機、犯行後の反省がくどくどしく述べられる。検事側の尋問は、さほど感じなかったが、弁護側の尋問は、明らかにあらかじめ書かれた調書のシナリオから逸脱しないように、被告がいい忘れたとしたら(おそらくは、何度も打ち合わせをしたであろうが)、そのことを思い出すような一言をくわえるのだが、しかし、それは、誘導尋問と聞こえてしまう。実のところ、検事調書の方も同様のプロセスで進行していることが想像されて、いずれの調書でもどのように犯行を企図したのか、その動機にに焦点が当てられているる。

被告は、在日外国人でありながらも、高校生までその事実を告げられず、さらには、その事実を連れられたのは、その後であった。また、実父は、出生届を怠っており、被告が事件より前に国籍をつくるまでは無国籍者であった。実父は暴力的であり、家庭内暴力の存在も述べられていた。
さらに、被告の職場等において、差別があり、そのことについて、被告は苦しんでいた。また、妻は、持病を持ちそのことを理由に高校時代に特定科目への出席を自粛するように教員から示唆を受け、そのことを理由に高校を中退している。こうした被告の状況が犯行につながったとの因果関係を関係を弁護人側は提示して、有期刑の期間をできるだけ短縮するることを求めている。同時に、そのような状況であっても、在日外国人のだれもが同様の犯行をするはずもないことが繰り返して、弁護側の質問に繰り返される。そして、犯行は個人的な動機によるものであり、個人的な身勝手な行動であったことが確認され、そのことについての反省が繰り返される。

正直なところ、聞いていて、しらける部分と強く関心がひきつけられた部分がある。両者はじつは、混在している。そして、しらけさせるのは、あまりにも類型化された裁判進行というべきものだろう。
犯行動機は、累犯であったとしても、その場その場で特定の動機で犯行を犯すとは思いにくい。いくつもの動機と実行のレベルが交錯していているとおもう。人間の行動は、おそらくは、局面においては、刹那的である。後で理由付けが可能であるとしても、それは、たとえば、カミユの『異邦人』のなかで太陽を理由にした殺人、という創作を例にあげるしかないが、たぶん、動機は不可思議である。しかし、裁判過程はそのような不可思議な動機を許容しない。もちろん、被害者の側のステークホルダーとすると、「バカなことを言うな」ということなのだが、しかし、動機の多くは後付である。そして、その動機は整合的であることが求められる。
さて、弁護側もまた、そのロジックから離れることができない。整合的な動機であることを所与のものとして合意を求めなければならない。ここで、問題にしなければならないと考えるのは、裁判の過程が、裁判員制度によって、プロによる審理から、アマも加わった審理に移行したということであると思われる。つまり、裁判員裁判を通じて、アマもまたこれまでプロが構築してきた過程を踏襲せねばならないことである。
裁判員裁判になって、量刑判断にゆらぎが起きているのではないかと想像されるが、つまり、プロとアマの合意点がいたって、恣意的であることに起因するものである。裁判は、あらゆる犯行を所定の犯行動機と判例に照らして進行するが、実のところ、判例は常に、普遍的な価値においてくだされるワケもなく、じつに恣意的に時代の要請においてなされること、これが、はたして、裁判のステークホルダー(裁判所、検事、弁護側、被告、その他、様々な関係者)において、理解されているだろうか。
もともと、裁判員制度の導入の目的は、普通の人の考えを特殊な人(つまりは、エリート)が下す判断に加味するということであったはずであるが、はたして、裁判が持っている恣意性まで踏み込んで考えられていたであろうか。

いずれにしても、わたしにとって、初めての裁判傍聴は、大変興味深かったことはいうまでもない。

2009-12-27 21:52:08 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


裁判員裁判傍聴記(1)

先日、裁判員裁判を傍聴してきたので、幾つかコメントを記録しておきたい。なお、わたしは、裁判に出席したことは、傍聴も含めてこれまでになく、非常に興味深かった。

まず、お断りであるが、ここで記すコメントは、特定の裁判について批評ことを目的としようというものではない。そのために、可能な限り、詳細な記述を避けている。また、事実関係については、私のノートによっているので、事実関係についての正確さについては、全面的な信頼をおくべきではない。あくまでも、私の理解に基づいている。また、風評被害を避けるためにも、コメントやトラックバックがあったとしても、一切回答はおこなわない。念のためであるがわたしは、傍聴マニアではない。

つぎに、わたしが裁判員裁判を傍聴することになった理由についても触れておく。傍聴をしたこと自体に、個人的な事情があったことは否定しないし、間接的なステークホルダーであるかもしれないが、ここで記すことについてはまったく、自由な立場で書いている。
また、これまでも、傍聴員裁判を傍聴したいと考えていた。それは、一般の人(私も含める)にとって、裁判過程がどのように見えるのか、それを知りたかったからである。本当のところ、裁判員にならないと、内部事情を知り得ないわけではあるが、今回のそれは、あくまでも、傍聴人としての立場で見ることは、それなりの意味があると考えた。つまり、傍聴がなんのために行われるのか、また、マスコミによる報道ではわからないことが理解できるのではないかと考えたからである。

さて、傍聴した一日の流れについて述べておこう。
9時半開廷とのことで、9時に傍聴券を配布する(可能性がある)とのことであったので、8時45分ごろに、裁判所の建物の前に行った。
9時半の開廷の少し前、係官の説明で、テレビカメラ(と思われるが)が入るとのことで、そのことで了解が求められた。しかし、その際には、裁判官のみがならび、裁判員は出廷していない。また、収録は2分間とのことであった。いったい、この撮影はどのような意味、あるいは、意義を持っているのであろうか。ニュースなどでよく見る状況説明的な映像ということなのであろうか。とすると、江戸時代以来の「お白洲」の再現で、マスコミも、いい加減にしないといけないとおもう。また、裁判員の協議の必要により、証言席での証言を録画しているので、傍聴人が、撮影される可能性があり、その撮影角度が指摘されて、留意するようにとのことであった。

傍聴席では、録音、録画は許可をえないとできないし、携帯電話は、電源を切るかマナーモードに設定するように指導があった。もちろん、休廷時間内については、その限りではなく、私も、法廷内で、メールチェックなどを行っていた。ノートをとることやPCを操作(記者のひとりは、ノートPCを広げて、入力していた)については、禁止の規定はなかった。
わたしは、ノートをとったが、結構大変であった。PCを持っていけばよかったと思ったが、この裁判は、9時半に開始されて、この間何度も休廷があったのだが、終了は17時半過ぎであり、電源問題で、これが解決できないと無理である。少なくとも、私の用意できるPCには長時間の使用はできなかったわけで、ノートをとることしかなかったわけではある。

裁判には、進行上区切りがあって、その都度、裁判長が指揮をして、休廷時間を宣言する。昼食の1時間が最長であったが、数分から1時間まで、たくさんの休廷時間が設けられ、裁判官(員)は、控室(だろう)に引き上げた。これは、裁判員のためであったのかどうかはわからないが、しかし、裁判員制度のために裁判員の拘束時間を短縮するために、時間管理としては裁判日程は短縮されているので(つまり、一日で審議を終えるなど)、従来の裁判運営に比べると短縮されているはずである。このような頻繁な休廷をとるという時間管理がどのような影響を持つのか、定かではない。なお、この裁判の判決は翌日に出されたが、当日の法定では判決は16時と告げられたにも関わらず、19時半頃であったという(わたしは、判決には出廷しなかった)。

裁判長は、時間管理も含めて、裁判の進行を管理している。しかし、この過程はあくまでも、すでに決まった枠組みの中で行われていて、特段、裁判長の個性が現れているようには見えなかった。この点についても、やはり、裁判が普遍的な正義に基づいて行われるものではなく、状況的な正義によってなされ、裁判長も、個人の意見というよりも、組織(役所)としての、裁判所の枠組みをでるものではないことがわかる。今回の裁判は、明らかに裁判員の存在を前提に運営されていて、休廷時間内の協議(おそらく行われている)において、裁判の進行や内容についての統制(管理)が行われていることを想像させる。

裁判の進行をみると、検察側のプレゼンテーションがモニタをとおして(PCでパワーポイントを用いて)行われ、また、裁判員(官)にたいして、資料が配布されたのに対して、弁護側のそれは、パワープレゼンテーションはなく、資料配布にとどまっていた。傍聴人の立場からすると、傍聴人にも検察側の陳述の流れはよくわかり、逆に弁護側はよくわからず、聞くしかない。これが、この弁護士の戦略(あるいは選択)であるのかどうか、よく分からないのであるが、すくなくとも、検察官側は明らかに様式されたプレゼンテーションがトレーニングされている。このことは、弁護側にも準備が必要であると思われる。このままでは、検察側に有利に進行するような印象を受けた。
裁判所のPC/モニタの施設の管理について、一方が有利にならないように設置されていることを望むが、しかし、裁判全体の過程を通じて、検事側だけでなく、弁護側もまたこの手のリテラシーの向上は望まれるところであると思われる。
少なくとも、裁判員制度である以上、弁護側のプレゼンテーションの手法は、再考されてしかるべきと思われる。また、裁判員だけではなく、傍聴人もまた、重要なステークホルダーであると思われるので、情報は(詳細を必要としないが)可能な限り、わかりやすく、見やすく提示される必要があると思われる。少なくとも、傍聴していた限りでは、弁護側はステークホルダーが誰であるのかとの認識が弱いような印象を受けた。

続きは、裁判員裁判傍聴記(2)をどうぞ。

2009-12-27 21:51:48 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


高速道路の走り方

余計な話かも知らないけれど、高速道路の走り方、最近はちょっと変じゃないだろうか。
とにかくみんなが早く走ろうと追い越し車線を走行している。むしろ、走行車線の方が走行台数が少ない。
昨日今日は、そういった状況の中で、走行車線から追い越しをかけるなど、おじゃま虫な走りをしたかもしれないが、気がついたところをコメントしておきたい。
追い越し車線は、追い越しをする車線だから、追い越しをおえたら走行車線にもどるというパターンが、車速の低下を防ぎ、ひいては渋滞を防ぐのではないだろうか。プロのドライバーであるはずのトラックもまた、やらずもがなの危険な追い越しをかけようとする。そのまま、左車線に戻ればいいのだが、大名行列を従えて追い越し車線を走行するのだ。
流れより早く走ろうとすると、走行車線での追い越しをかけるしかないということになる。これは変だ。

道路交通法では、追い越し車線を継続して走行することも罰金の対象と聞いたことがある。確認していないが、このことの徹底をしても良いのではないか。

2009-12-26 20:43:09 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


風水のこと

今日は、中部人類学談話会で風水の話を、この春、中部大学に赴任した渡邊欣雄さんと同じく中部大学の澁谷鎮明さんから聞いた。聞いた内容を、書くことにするが、お二人のどちらからであるのかをかかないし、理解に誤りがあるかもしれないが、それは、私の責任ということにしたい。

風水については、日本での最近の流行は風水占いだが。もともとは、個人の運気を占うといったものではなかった。たとえば、都を定めるときや城郭や町を築くとき、風水思想が重要な基盤となった。もともと風水は中国で始まるが、風水との用語はいわば、俗な表現で、地理といったらしい。地(大地)の理(ことわり)、というところである。
気は地の高まり(山や丘)に満ち(いや、満ちているから高まっている)、その山麓に人々は住まいしてその運気をうけて、未来について思いをはせたわけである。その運気がみだりに流れ出さないように、林や土手などを築き、都市計画をすることになった。墓地の配置や個々の家屋のレイアウトなども当然そのことを明確に意識して、計画されたことだろう。現在の風水は、そうした点に当てているわけだし、そのことが、かえって、風水が怪しげなものであるというマイナスのイメージを生んでいることだろう。
しかし、京都奈良を始めとする、日本のいにしえの都は、また、江戸は明らかに風水を意識して建設されている。また、風水は中国を中心とした東アジアに広く見られるものであるが、中国、韓国、台湾、ベトナム、日本、それぞれに固有の展開がみられる。また、大地の様子を読み取る「学」は、何も東アジアだけの専売特許ではない。世界各地にはそれぞれに、固有の「大地の学」とも言うべき思想が存在したのである。
今日の発表を聞いて、いちだんと興味が湧いた。いったい、何が共通の兆しとして各地の「大地の学」が考慮しているのだろうか。地の高まりだけなのだろうか、また、どのような方法でその兆しに働き掛けようとするのだろうか。大変興味深い。
昨今、経済の問題が喫緊の課題として日本国家に、いや、世界に立ち現れているが、「景気」とはよくいったものである。まさに、風水の問題なのである。何をどのように読み取り、どのように処置するのか。果たして、経済行為だけが、「景気」を左右するのだろうか?


2009-11-28 22:31:12 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


温暖化問題について

昨日、『正しく知る温暖化』について、書評を書いたのだが、この「読書と夕食」ブログでは、何冊も関連する書籍などについて書いているので、一覧の形で記録しておこうと思う。
評者の立場は、温暖化は惑星としての地球における非常にマクロな気候変動であって、昨今の温暖化の社会問題化をうさんくさく感じている、というものである。おそらくグローバルな資本主義が関与する経済問題と感じている。

2009年2月21日:『正しく知る地球温暖化:誤った地球温暖化論に惑わされないために』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/6c9777662d03134be3c6a1599cc4e414
2009年1月30日:『「地球温暖化」論に騙されるな!』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/152687fae3b5b54a468e6689d8b214b1
2008年10月2日:『科学者の9割は地球温暖化CO2犯人説はウソだと知っている』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/c8178e61f30206d4fa08e4e4cff22981
2008年9月14日:『人類が消えた世界』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/0440ea79caaf4a2595ee6e6b7b25c088
2008年6月30日:『日本沈没 第2部(上)(下)』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/032b30ed0252a56d1431fc8fcd8dcf9e
2008年6月16日:『深海のYrr』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/550606660fafc702b6b03ad2a3ca5c26
2007年7月31日:DVD『不都合な真実』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/6efd833f5049fd36e1c1877d0169eb91
2006年12月23日:『深層水「湧昇」、海を耕す!』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/af3da60c3bb9e3a80154c53c751de26d
2006年12月3日:『環境問題の杞憂』http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/c0ec0e2ac07537955323dc708e51ab85
2006年3月31日:『スノーボール・アース:生命大進化をもたらした全地球凍結』:http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/70bb7aef0f25b890840366dfd202f8b2

2009-02-22 13:01:07 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


エリカ号長江さんの思い出

エリカ号の長江さんの逝去の記事が新聞に出ていた。

十数年前、覚王山の飲み屋で知り合い、エリカ号やその後始められた地球冒険塾のことなどのお話を聞かせていただいたことがある。当時、長江さんが経営していた伏見の堀川端のレストランバーになんどか足を運んだことがあり、その一角に展示コーナーがあって、ご自身に説明をしていただいたことがある。その後、閉店となり、連絡が途絶えた。
2004年頃だっただろうか、突然ご連絡をいただき、お会いしたことがある。その折、心臓手術で奇跡的によみがえり元気になったが、10年の余命であると告げられていると語られた。お元気そうで、病気のことなど、うかがわなければ全くそのようには見えない様子であった。
また、伏見のお店の閉店のいきさつについて、詐欺にあって手放すことになったとうかがった。ご来訪の趣旨は、愛知万博開催にあたって、地球冒険塾に参加する若者とともにエリカII号をつかって、ミクロネシアをまわりたいとのことであった。わたしは、30年も前にミクロネシアの小島で暮らしたことがあって、そのことを長江さんとお話ししたことがあったので、プロジェクトに参加しないかとのお誘いであった。
あいにく、当時は、業務が多忙で、お話を聞くだけに終わり、結局は、それっきりとなってしまった。今になって思えば、残念なことではあった。たしかに、そのころ、ミクロネシアへの里心が芽生えていたこともあった、帰りの航路だけでも、あるいは、一週間だけでも同行したいという長江さんのプロジェクトに首をつっこんでいる自分自身のイメージが浮かんでいたのだが。
ウェブをみると、「地球冒険塾」のサイトがある。しかし、最終更新が2006年のようだ。ミクロネシアを巡るプロジェクトが終わった後、そのままになっているようだ。どなたかが、長江さんの遺志を継ぎ、プロジェクトが続くことを祈る。

長江さんのご冥福を祈る。きっと、あの世でもヨットに乗っているだろうなあ。

中日新聞:長江裕明さん死去 「エリカ号」家族で世界一周:http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009021702000237.html

地球冒険塾:http://www.louest.co.jp/erika/index.html

2009-02-20 07:59:43 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


ブログへのトラックバック

昨日、この「読書と夕食」の記事にトラックバックをいただいたようで、ちょっとコメント。おなじサイトから別の方からもかつてトラックバックをいただいていたので、ついでのそちらの方へも。いずれも、「MediaSabor」である。

2008年5月6日:東京観光考――情報発信力アップで、世界中のマニアが注目するエンターテイメント都市に:http://mediasabor.jp/2008/05/post_379.html
この記事がトラックバックしたのは、「クール・ジャパン 世界が買いたがる日本」で、トラックバック先のブログの趣旨は、「東京の情報発信力を観光に生かそう」という事であろうか。こころは、東京の観光集客は都道府県別でダントツで、この要因は、東京の魅力の多様性と情報発信力であろうと言う。これについては、その通りだと思う。
ちょっと気になった事をコメントにしておく。基礎としている資料は、国土交通省の出している「宿泊旅行統計調査」である。なんで京都が上位にこないのかと思ってみてみると、たぶん宿泊先の数の問題(キャパシティ)が影響していることが見て取れる。訪問者数でカウントする事は困難だから、この数字を使うしかないのだが、この調査結果をよく見ると、別の姿も見えてくる。
表の後ろの方に、外国人宿泊者数の内訳で「観光目的の宿泊者が50%以上」というカテゴリー(わかりにくいが、観光目的の旅行者の数としておこう)をみると、もう少し違った姿が見えてくる。東京は、1位には違いないが、下位との差がぐっと小さくなる。例えば、東京210万、北海道167万、千葉106万、大阪92万、京都81万となる。千葉は、これは、多分TDLに違いなく、おそらく、京阪奈が一体となってあちこちの社寺を回る観光客が多そうとおもえば、数字の違いは、大きくはない。それよりもむしろ、「観光目的の宿泊者が50%未満」で東京がダントツ509万というのは、まさに、東京訪問の目的は、ビジネスである、ということが見て取れよう。
だから、MediaSaborからのブログに対しては、観光には情報発信力が必要というのはその通りだが、同時に、「ビジネスには情報発信力が必要」というのも付け加える事を提案しておこう。

2008年2月26日:新生オーストラリアの船出を象徴する先住民への謝罪:http://mediasabor.jp/2008/02/post_328.html
トラックバックを付けてくれたのは、「DVD『裸足の1500マイル』」であった。ブログで触れられているのは、オーストラリアに誕生した新政権のラッド首相が先住民のアボリジニに対して「ごめんなさい」演説を行ったという記事の紹介である。前政権のハワード前首相が、アボリジニに対する厳しい施策をおこない、また、「ごめんなさい」をしなかった事と対照的である。「ごめんなさい」はラッド首相の公約でもあった。
ただ、我々としては、もう少し、「ごめんなさい」のあとを見守る必要があるということを指摘しておきたい。新政権は、現時点では、前政権の施策を大きく変えていない。まだ準備中という事であろうが、どのような、先住民施策を行うのか見守る必要があろう。フォローアップ記事も書いてほしいものだ。

2008-05-07 07:38:38 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


羊肉の料理

「ぐーすか・ぶーすか」さんにTBをいただきました。そういえば、羊肉の料理は少ないですね。ラムシャンクぐらいか。スーパーにあまり売っていないと言うこともありますけれど・・・。しかし、羊肉のおいしさは知っています。是非、次は、チャレンジします。

2005-03-12 23:45:31 | コメント | コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )


オーストラリアのコーヒー

kichenblogさんから11月20日のブログへトラックバックをいただきました。ついでに、思い出したオーストラリアのコーヒー関連の話題を書くことにします。
コーヒーを出す店はほとんど例外なくエスプレッソマシンを持っているようです。見たところよく飲まれているのが「カプチーノ」です。当地のカプチーノはエスプレッソにミルクを入れてスチームし、泡を当てた後、ココアパウダーをかけます。店によっては、白い泡にきれいな模様を描いてくれます。私は「ロングブラック」(エスプレッソが湯増しになったもの)を好むのですが、そのほかには、この前書いたように「ショートブラック」(エスプレッソ)や「フラットホワイト」(ミルクコーヒー、泡の立っていないカプチーノか?)が昔からあるメニューですが、最近は、「ラテ」(カフェ・ラテ)や「オレ」(カフェ・オレだが、最近はほとんどの人が「ラテ」といっているようだ)もメニューにあります。また、カロリーを気にする人は「スキム・ラテ」というのもよく注文するようです。スキム・ミルクが入っているということでしょうか。

オーストラリアのカフェ攻略法と題する記事がAllAboutに見つけましたので、以下にURLを書いておきます。
http://allabout.co.jp/travel/travelaustralia/closeup/CU20020413/index.htm

2004-12-08 14:27:01 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


コメントをいただきました

yamagen123さん、ありがとうございました。
名古屋に移り住んで17年目ですが、わたしも出身は大阪です。
おそらく、コメントをいただいた方とは世代が違うと思いますが、わたしは、学生時代、「眼眠」(文字が違うかもしれませんね)の餃子を帰宅途中で食べたものです。その当時は、うまかった。今がまずいという判断点はなく、たんなる追想です。
もちろん、外食の餃子も美味しいところは、美味しいのですが、自作も意外に簡単です。いろいろと試すことができます。お客の多いときなど、お客に水餃子の皮を作ってもらって、あんを何種類か用意するなどと言うこともできますね。
yamagen123さんの餃子についてのコメントです。

2004-09-17 22:54:41 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


こまい

ノリが東北で知った味として「こまい」をあげているが、わたしは、「こまい」を女子大小路あたりのとあるスナックで知った。まだ、名古屋に赴任して間もない頃、職場の先輩に連れて行っていただいたのだが、その女将が山形だか岩手だかの出身で、かならず「こまい」を出してくれた。大勢で行ったときには、在庫を食べ尽くした記憶がある。叩いてあぶってほぐして、酒の肴にぴったりであった。
残念ながらそのスナックは10年ほど前に店を閉じたようだ。店の名前も忘れてしまった。
ついでの連想で、名古屋に赴任して17年目になるのだが、これまで、結構ひいきにしていた店が、今はなくなっている。女子大小路のこのスナックもそうだが、錦のスナック、証券取引所まえの「ババル」、末盛交差点近くの「サーリン」・・・。

2004-08-22 10:40:57 | コメント | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )