小松菜と合挽きミンチとジャンボブナシメジのリガットーニ
ハリッサチキン、クミンキャベツ
カツオのカルパッチョ、トマトとモッツァレラとバジルのサラダ
合挽きミンチボールと水菜とシイタケのスープ仕立て
ハモのグリル
『「色の不思議」と不思議な社会:2020年代の「色覚」原論』
本書について先立ち、個人的な振り返りから始めたいと思う。
わたしは、45年以上にわたる大学での講義経験があるが、毎年の成績評価のときにはいつも悩みを抱えていた。たとえば、成績を素点でつけるとしよう。連続的な素点の何処かで、合格と不合格の線引をしなければならない。分布をみるというのもまた線引の一助となる学生の得点は理想的には正規分布するはずとみなすことだ。
とはいえ、問題は、合否という二分法でふたつの集団に分けなければならない。これが、悩ましいのである。過去10年ほどは、素点を偏差値に変換して標準化しようとしたが、それでも、どこかで線引して合格と不合格を決めなくてはならないことにはかわりはない。くわえて、大学ではSABC が合格、Dが不合格という具合に、同じ合格でも成績ごと線引をしなければならない。かつては、科目の受講生全員をA評価(当時はS評価はなかった)に付けていた太っ腹の同僚もいるにはいたが、最近ではそうした偏りは許されず、成績分布が分散するように求められる。ますます厄介なことだ。
さらに、思い出してみると自分自身が生徒であったころまで遡って考えてみるとこんな事があった。中学高校のときには素点で成績が明らかにされ、通知簿に記載されていた。さらに、中学1−2年には廊下に張り出され、順位付けも明らかにされたこともあった。中学3年以降そんなことにはならなかったが、学期の中間と期末には、通知簿には素点が記入され、基準点の30点以下だと「欠点」(通知簿に赤点で素点で表記される)が書きこまれた。
私は、英語と数学が苦手で、中間試験には赤点ゲットの常連で、期末試験の際になんとか黒字が記載されるべく、少なくとも中間試験と期末試験の平均で「欠点」を超えるように期末試験を「ほどほど」に頑張ることをモットーとしていた。手抜きではあるが、すくなくとも、赤点をゲットするよりましと考えていたからにちがいない。これもまた、正規分布の世界での生存戦略といえるだろう。すなわち、上位5%でも下位5%でもなく中間的なゾーンで埋没すること、これこそが平凡に生きる道とも言えるだろう。
正規分布以外に、世の中にはべき乗分布をするものも存在する。進化の途上で起きた網膜上の色覚を司る遺伝子のバラエティ、これは表現型としてべき乗分布をしている。べき乗分布するものであれ、閾値で分類しようとすると問題が生じる。というか、一般にはこうした連続性が存在することは理解しにくく、人間の最もシンプルな理解の方法は二分法であるからだ。白でなければ黒、善でなければ悪、合でなければ不可、というわけである。ところが、こうした二分法による認識は、単に分類の世界にとどまっていればよいのだが、価値観と絡むと厄介なことになる。
本書の目的は、色覚異常の「異常」をどのように捉えるのが望ましいかという点についてその詳細を明らかにすることにある。「文筆家」である著者は、生物学者、疫学者、認知心理学者などなど、色彩および色彩の認識に関わる様々な領域の専門家を尋ねて本書をまとめた。動機となったのは、著者自身が小学生のおり「赤緑色盲」と判別されたこと、それにもかかわらず生活上何ら疼痛を感じることもなかったこと、その理由を探るという点にあった。
我々の色彩の認識は物体の色彩を直接認識することではなく、照明体からの光をうけた物体の反射光を網膜で情報として受容して、その信号が脳に送られるという複数の間接的な認識過程を経由した情報を脳が判断するのだ。さらに、他者とのコミュニケーションでは、其々の言語の色彩語の表現として相互の認知情報の共有をおこなうという、さらにもう一つの間接的な認識を経ることになる。色彩を巡っては物理的な現象を網膜という受容器官で情報をうけとり、電気信号として脳に送られ、脳が判別するという過程と認識したものの言語化という複雑な過程すべてが色覚にかかわるということをまず前提として理解する必要があるだろう。さらに、認知心理学と視覚研究者の下條信輔の「色覚は健全な錯覚である(Color vision is a healthy illusion)」(p. 180)という記述も記憶すべきだろう。くわえて、石原表のような、印刷されたもので反射光を判別するものとコンピュータのモニタ(反射光ではなく、発色している)を利用して判別するものとでは当然反応が異なることも知っておく必要があるだろう。
人類をふくむ霊長類は3色覚をもっているとされるが(この出発点からして大きな問題点がある)、もともと、爬虫類、恐竜、鳥類は3色覚を持っていた。進化の過程で哺乳類は、夜行性の生活様式への適応のなかで2色覚になってしまった。だから、我々の身近にいるイヌやネコは2色覚なのでかれらと霊長類は異なる色彩世界に生きていることになる。霊長類は樹上生活の中で、あらたに1色覚を獲得して3色覚となったのだという。
あらたに加わった色覚は緑の森のなかで、赤く熟した果実を見つけることに貢献したはずだが、霊長類の遺伝的多様性ではすべての個体がそうした色覚を有してはおらず、種によって一定の割合の色覚「異常」の個体が存在するという。もちろんそうした個体は生存上不利益をこうむり、淘汰されていくはずだが、一定数の「異常」が存在できているということは適応上、色覚「異常」は遺伝的に中立であることを意味して良いだろう。本書で紹介されているように、単に色彩だけで判別しているのではなく、匂いや仲間個体の行動から、何らかのインデックスを見出して識別している可能性があるということになる。だから、色覚「異常」が生存に関わることはない。つまり、生存上不利益を被らないはずの色覚「異常」が現代社会における、就職差別や偏見に結びつくことの不合理について理解を深めることの重要性が本書で繰り返し指摘される。
色覚検査にもちいる石原表は小学校の健康診断で受けたことを記憶する。とはいえ、職業的に色覚に付いての認識の違いが障害となるケースは数少ないだろう。パイロットはそうした職業のひとつだが、本書によれば、空軍のパイロットと民間航空のパイロットでは異なる基準であるという。とすれば、学校で検査して予めスクリーンにかけてしまうというのはいかがであろう。色覚だけがパイロットという職業の適性ではないだろう。私は子供の頃パイロットになりたいと思ったことがあるが、ならなかったのは色覚検査で引っかかってアドバイスを受けたり(わたしは、色覚「異常」とは伝えられなかった)、色覚について考えての結論ではない。あとで、なりたいものが現れたからだ。はたして、小学校の頃にスクリーンをかけてしまうことは果たして必要なのだろうか。
また、正常か異常かといった2分法が適応可能であるのかどうか。この点については、自閉症や発達障害についてもべき乗分布しており、一定の閾値で正常/異常(該当/非該当)と区分するすることは困難な事象であるという。また、性染色体、外性器、性自認、さらには、当該社会の性に関する文化(ジェンダー)や歴史的な変化(経緯)によって、男女の性差・性別といった二分法では解決できないジェンダーの問題にも共通するものといえるだろう。
われわれは、これまで様々な分野で閾値による判別をしてきたことは事実である。とはいえ、本書の指摘する色覚のみならず、様々な領域で、多様性の重要性が重視される現在において、連続的な現象を区分する必要(あるいは要請)はどの程度あるのだろう。むしろ、連続している、弁別することの困難さについての理解を深めることが重要だと思われる。
個人的に講義で使ったことのあるネタのひとつとして興味のあった記述を取り上げてみよう。色覚についての多様性について探求するなかでとりあげられた、バーリン&ケイのbasic color termsやサピア&ウォーフの言語相対主義とも直結する課題、色彩カテゴリー(指示された色彩カードをどの言語でカテゴライズするか)に関連する記述が興味深かった。
どの言葉を使うかは同じ言語話者であったとしても個人差が出てくるので同一の名称を当てられた色彩をグループとしてまとめると、30年前と比べて日本語話者の中で基本語として青色から水色が析出されてきた(新たなカテゴリーと指定誕生したようだという。The modern Japanese color lexiconがその研究である)という。言語からのアプローチだと、バーリン&ケイのように基本色彩語彙の定義で論争が出てしまうが、色彩認識の側から、少なくともインフォーマントが同一の色彩語(形容詞付きの色彩語や複数の色彩語の組み合わせを用いないという条件)を用いてカテゴライズした色彩をひとまとめとみなすというほうがゆらぎが少ないように思える。先の研究では、白、赤、黄、緑、青、茶、紫の7色が(57/57、57人のインフォーマントのうち全員が合致するということ)、オレンジ、(56/57)、水、ピンク(55/57)、黒(53/57)、灰(52/57)(以上が90%以上のインフォーマントの回答が一致)だという。
Russian blues reveal effects of language on color discriminationの論文でははロシア語話者と英語話者の3枚の「青」(ただし、2色は同一で1色を異なるものとし、ロシア語の「明るい青」と「暗い青」(両者は、ロシア語で2つの異なる色彩語がある)を異なる1色として加えると、ロシア語話者は弁別できるが、英語話者は弁別できず、これは、サピア&ウォーフの言語によって、思考が規定されるという言語相対主義の例証となるという。
本書は色覚を巡ってたようなアプローチから明らかにしていて、とくに、小学校の教師は本書を紐解き問題点はどこにあるのかしっかり理解して教育に従事スべきだろう。また、大学でも、とくに教員養成課程をもつ大学においては、色覚を巡る問題が多様性の理解に関わり、差別や偏見とも結びつく重要な教育課題であることを認識スべきだろう。
『お雇い外人の見た近代日本』
阪急六甲 Village(ビストロ)
阪急六甲ちかくのVillageというビストロで楽しんだ。住宅地にある小さな店で、相客なしだった。
新大阪から乗るつもりだったが、自宅に帰るKSとバスで移動して新神戸から帰って来た。
鶏もも肉と小松菜のパスタ
カツオのカルパッチョ、星桜えびと茄子のトマトソースパスタ
豚ロースとほうれん草の腐乳いため、乾絲さらだ
鶏もも肉の苦味塩焼き+万願寺とうがらしとグリーンアスパラガスのグリル、焼き茄子の胡麻和え
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