今日は、アカデミー賞授賞式(アメリカは時差でずれるわけだが)。助演男優賞にノミネートされている渡辺謙の出ているラスト・サムライを見てきた。プロデュースおよび主演のトム・クルーズはともかくも、なぜ今、サムライをテーマにするのかというのも気になるところではある。
トム・クルーズが惚れ込んでいたテーマだそうで、いまここで制作する必然的な理由はないのだろうが。おそらく、もしあるとすれば、ハリウッドの作品欠乏症がその大きな理由といったところか。リメーク、しかも、外国映画のリメークまでしようかという。また、原作は広く探している。制作場所も、オーストラリア・ニュージーランド。アイデアの欠乏だけではなく、相当予算カットができるようである。
しばらく前、民放の番組で、アーネスト・サトウの日記をよんだトム・クルーズが惚れ込んで、ラスト・サムライの制作を思いついたのだとか。彼は、サムライに打ち込んでいたのだそうだ。
風景が何となく違う(たとえば、ニュージーランドの羊歯が生える森の中など)とか、時代考証や風景考証がちょっと怪しい感じがするし、地理的な場所が、よく分からない。富士山が見える場所、横浜・東京と主人公の「勝元」の領国がどういう地理的な位置関係にあるのかなど、ともかく、変なところは有るけれど、それは、ともかくも、そして、サムライの哲学(あるいは、人生訓)が繰り返し語られ、滅び行くサムライの美学が描かれ、近代が、すなわち、ストーリーの中に出てくる鉄道とガリントン銃に代表されるそれが、サムライの世界を打ち崩す。作中明治天皇が大きな役割(滅び行くサムライの精神をふまえて日本を近代国家にしようという意思を表明する)を果たすのだが・・・。
この映画は、おそらく、学生世代の日本人にとっても、意外性のある、新鮮なテーマであるかもしれない。その意味で、学生世代の感想を聞いてみたいところである。
残り物(前日のシチューにカレー粉を入れる、ツブ貝と蕗の煮物、切り干し大根の煮物)
キャベツとソーセージのシチュー(ベーコン、タマネギ、ニンニク、トウガラシを傷め、ソーセージ・キャベツを炒める、白ワインとダイス・トマトのストックと水を加え、ローリエ、クミン、イタリアン・シーズニング、塩で調味)、シェルバスタと合わせる。
ヒュー・ブロディ、2004、『エデンの彼方:狩猟採集民・農耕民・人類の歴史』、草思社("The Other Side of Eden: Hunters, Farmers and the Shaping of the World ")
ヒュー・ブロディはトリニティ・カレジで人類学を学んだ後、クイーンズ大学で社会人類学を教え、現在は、南アフリカのサン研究所で「ブッシュマン」の研究をおこなっている人類学者であり映像作家。主要な作品としては、本書のほか"Maps and Dreams"があり、映像作品として"Hunter and Bomber"がある。
彼は、狩猟採集民こそが定着民であって農耕民は移動民であるという。狩猟採集民は、自然の稔りを享受するためには生活の場に生きる動植物に関する詳細な知識なくしては生存できず、生活域における環境を知り尽くす必要がある故に移動できないという。それに対して農耕民は環境に対して大きく手を加えるので、その結果として、新しい生活域に進出することが可能であるという。彼は、農業革命以降、農業地域が急速に拡大していったこと、さらには、ヨーロッパによる新世界への進出もまた、農耕民は移動民であるという自説の論拠とする。
ブロディは彼のフィールドワークをアイルランドの農民で開始した後、狩猟採集民に関心を移す。最初は、ハドソン湾西岸のイヌイットであり、続いてブリティッシュコロンビアのダネ・ザ(ビーバー・インディアンとよばれる)である。そして、現在は南アフリカでサンの研究をしているらしい。たとえば、 Botswana, the Bushmen/San, and HIV/AidsやopenDemocracyに寄せている。ついでながら、同じサイトに、アボリジニに関する論考 You have to have a story: Aboriginal memory and opportunityも寄稿している。
本書はブロディの二つの主要なフィールドのエスノグラフィーとよんでも大変興味深い。第一章の「イヌイット語を学ぶ」では、言葉を学ぶことは生活そのものを学ぶこと、文化そのものを学ぶことが示される。また、第三章の「時空を翔る」では、ダネ・ザの言語を学ぶことを断念するのだが、著者は英語を媒介としながら、かれらの神話について学び、神話の語りと現代社会に生きるかれらの生活の変容について記述する。第二章は「天地創造」と名付けられていて、聖書の創世記から、狩猟採集民と農耕民の相違点を示そうとする。彼は、ユダヤ系イギリス人で約束の地を与えられたにもかかわらず、彼の地を去らねばならなかったサバルタンのひとりである。
第四章は「言葉を奪われて」というタイトルで、カナダの寄宿舎問題や各国の言語政策が批判される。第五章は「農民の神、狩猟採集民の神」と題されていて、神話の問題とキリスト教の世界観との関連が言及される。第六章は「狩猟採集民と人類の歴史」では、人間観や異人観さらには、チョムスキーの言語理論やレヴィ=ストロースの構造主義が批判され、彼の人類学観が披瀝される。
彼の筆致は、狩猟採集民に入れ込みすぎているとの批判も出来ようが、少なくとも、一般書としては蒙を開くものといえよう。加えて、断片的ではあるが、映像作家でもある彼の背景をあわせて、エスノグラフィーとしても良質である。寝本にしてみてもいいのではないか。
2004-02-24 23:59:22 |
読書 |
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青蕗とツブ貝の煮浸し(蕗の皮と筋を取り、さっと湯がき、冷水に入れる。だし汁でツブ貝をさっと煮ておいた汁にいれ、煮浸しにする)、切り干し大根に煮付け、キンキのみそ漬け、小松菜のごま和え、わかめと豆腐のみそ汁
母が前日から高熱を出しているというので、実家に見舞いに出かけ、病院にもつきそった。どうも、インフルエンザのようだという事で。
京都駅の近鉄・新幹線の乗り換え口のところに、千日前「蓬莱」が店を出しており、懐かしい思いで、つい、買ってしまった。
蓬莱の「おみやげセット」(豚まん、シュウマイ、餃子)、千枚漬け。
「ロード・オブ・ザ・リング:王の帰還」(シリーズの第三作にして、最終作)を見てきた(原作の「指輪物語」は残念ながらよんだことがないのだが・・・)。とにかく、コンピュータ・グラフィクスなくしては、このシリーズなしといったところであろう。わがアライアンス・プロジェクトはの初期データは、ホビットのバギンズ一族の家系図を元にしたものを使っているので、まんざら無縁でもない。
さて、この映画は友情の物語とか人間の心(欲望)について、描かれているというのだが、その一方、やはり、ハリウッド映画的な西欧中心主義が目につくところである。もちろん、原作そのものが、ヨーロッパの様々な伝説にヒントをえてトルーキンが作り上げた、「サーガ」であるから、西欧中心主義であることはやむを得ないのではあるが。ヨーロッパ世界と思える、「ミッド・ランド」の王として帰還するアラルゴンが中心に描かれる最終作はとりわけその印象が強い。
ホビットは小人であるし、冥界の王のサウロンとその眷属たちの醜さといってない。また、悪と善との境界線を行き来する重要な人物であるゴレム=スメアゴルもそのとおり。美しく描かれるのは、ミッド・ランドのエリートたちといってしまえば身も蓋もないかもしれないが。
なぜ、我々がここにいるのかという「大きな物語」がこのようにコンピュータ・グラフィクスを用いて映画で描かれるというのは、誠に現代なのだが、「大きな物語」もまた、ロール・プレイ・ゲームになってしまうというのも、どんなものか。あくまでも「大きな物語」を矮小化することになり、そして再び、新たな物語を探して旅が始まるというわけではある。
名駅・江南(ラーメン、餃子、麻婆ナス)、ロード・オブ・ザ・リング(完結編)
猟師さんから届いたという鹿肉のお裾分けをいただいたので、あれこれ迷った末、ホームページを参考にして、以下のようにした。
1:塩胡椒してしばらくおき、
2:セロリ、にんじん、タマネギ、赤ワイン、ローリエ、ニンニクを合わせたものにつけ込む(今回は1時間つけた)
3:その後、肉を取り出し、90分オーブンで焼く
4:残った付け汁を煮詰め、野菜をあげた後、クランベリーの赤ワインづけを入さらぶ煮詰める(今回はドライクランベリーを赤ワインに1時間付けおいたもの)
5:付け野菜として、ロケットとブロッコリーのもやし、フルーツトマトのサラダ
6:肉をスライスして、クランベリーソースを添えて供す
一口カツ(生パン粉を使う。小麦の衣はつけない。卵のみ。オリーブオイルを揚げ油に用いる)、キャベツとにんじんの温サラダ、納豆汁、白飯
家内の手料理(煮込みハンバーグ、焼き野菜のマリネ、ポテトスープ)
新居におよばれ。ししゃもの南蛮漬け、トリささみと春菊の和え物、生春巻き、だアイコンとすじ肉の煮物。ワインを2本持って行き(三越のエノテカで吟味の上買ったボルドーとコート・ド・?。後者がなかなか良かった)、旦那が持ち帰った一本と彼女のところにあった一本の計4本、ビール数えきれず。夜中の1時まで。最初4人、二人が遅れて・・・。