『西のはての年代記III』の上下巻。
表題はパワーだが、原題はもちろん複数形。個人の背景となる「権力」でもあり、個人の持つ「力」でもある。主人公のガヴィアは姉のサロとともに幼いときに水郷の地空奴隷狩りによって都市国家エトラの「アルカマンド」につれてこられて働いている。かれは、ひと目見たものをすぐさま覚えて暗証することができるという能力によって、アルカ家の子供達(主人一族や奴隷をふくむ)とともに学校で学んでいる。姉のサロは、その美貌と性格により、同じ学校で学ぶ主人一族の長男にギフトされる立場となっている。ここの段階でのパワーというのはまさに、権力構造そのものをさすが、主人公のガヴィアは主人一家と奴隷がともに学ぶことができる学校で学ぶことができるという学び舎で学ぶなかで、その構造的矛盾を理解できないでいる。
しかし、主人一家の子供達(嫡子や庶子)との子供なりの権力関係や主人一家と奴隷の間の根本的な矛盾に、主人公は様々な出来事の中で気がついてゆく。姉のサロは、主人の一族のお気に入りの次男の振る舞いにより死んでしまい、それをきっかけに、ガヴィアはオレック・カスプロの著作集を手に森に入る。釣りをするという技術しか持たないまま、森を徘徊するうちに飢えによってあやういところ、森の世捨て人のクーガによって一命を取り留める。彼とともに過ごして回復し、主人の妻から姉のサロに対する償いと思える金の入った巾着をクーガに預け、解放奴隷の王国を築いているバーナの都市に移動することを決意する。
ガヴィアは、自らの持っている能力、一度知ったことばを忘れることなく語ることができるという能力(ギフトあるいはパワー)をクーガのもとでは発揮することはなかったが、バーナは、ガヴィアの類まれな能力に注目し、彼に語らせる。しかし、ガヴィアは、解放奴隷であるはずのバーナの一党による奴隷狩りによってさらわれてきたイラードとメルの姉妹と知り合うが、バーナが魅入られたイラードとの関係を疑われたガヴィアはバーナのもとから離れて、故郷と思われる水郷の地を目指す。
ガヴィアは系譜の記憶を持たなかったが、やがて、親族と出会う。水郷の地におけるがヴィアの持つ記憶と語りの能力は、狩猟をして予言をするという能力とみなされることとされるが、彼は納得がいかない。おばの予言(助言)により、北に向かい2つの川を超えると解放されるとの言葉を信じ、故郷と思われた水郷の地をさって、オレック・カスプロが住まうという大学の街、メサンをを目指すことになった。クーガに預けた金の入った巾着を思い出して、取り戻すべく再びクーガの森にはいるが、クーガの朽ち果てた遺骨を発見する。そして、バーナの街が都市国家軍によって破壊されたという離脱者のことばによって、バーナの地に戻るが、そこであったのはメルであった。
ガヴィアはメルとともにメサンを目指す。そして、様々な試練を経て目さんでオレックに出会い、彼とともに暮らして、視力の衰えたオレックのもとで、その援助者としての未来が語られて長い物語が終わる。
本書のタイトルの「パワー」は、複数形である。主人と奴隷の権力関係であり、解放奴隷の救世主であるはずのバーナが持つ、権力であり、その権力による犠牲者の一人のメルとともに旅をする。また、ガヴィアのもつ能力が発揮される(パワーを持つ)場もあればそうでない場もある。様々はパワーとの出会い、一筋では理解できない様々なパワーと遭遇の物語でもある。
この物語の背後には多様性について、著者の理解が込められているように見える。父のアルフレッド・クローバーはカリフォルニア・インディアンの一部族の最後の一人となったイシを保護し、博物館に住まわせ、イシから部族の物語を聞き取って記録に留める。しかし、この一族の滅亡を止めることはできず、むしろ、失われた一族の知識あるいは記憶を書き留めようとした。その娘のル=グウィンは、本書を含む『西のはての年代記』を残す。これらは、いずれも連関しているように思えるのだが・・・・。