いつもの浅野屋(メンチボール定食、イベリコ豚のソテーズッキーニソーズ添え、カニのキッシュ、フライドポテト)
今夜も前回と同じ、アイアンストーンのカベルネ・フラン。
姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ、2004、『デモクラシーの冒険』、集英社新書
本書は、2003年夏に姜尚中とテッサ・モーリス=スズキが対談したものをまとめたものである。2001年9月11日のワールドトレードセンター等へのテロ、アメリカによるアフガン及びイラク侵攻をふまえ、民主主義の状況がどのように変化し、今後どのようにそうした状況に対抗していくかについて、二人は、丁々発止の議論を積み重ねている。本書は、テッサの『自由を耐え忍ぶ』とも基調を一にするもので、併読するとかれらの主張がさらによく理解できると思われる。
また、本書の巻末には注記をかねた用語集が添付されており、本書に関わるトピックに関する見取り図にもなっているので、歴史的な経緯などをフォローするには重宝であろう。
イラク国民議会の投票の当日にあたり、これまで何が起こってきたのか十分に理解をし、こうした状況、つまり、はたして何が民主主義であるのか、誰が唱える民主主義であるのか、どのように対処すべきか、こうしたことを深く心にとめて行動する必要のあることを、肝に銘ずるべきであろう。
本書は、新書という小著ながら、そうしたときのパイロット・ランプとしての意義が大きいと思われる。
| デモクラシーの冒険集英社 |
2005-01-30 21:40:31 |
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ビーフカツレツ(オーストラリア肉の赤身のもも肉を包丁の背でよく叩きのばし、塩胡椒しておく。溶き卵をくぐらせ、生パン粉をまぶして、軽いオイルであげる。添え野菜としてクレソンとセロリの軸)
クラムチャウダー(バター、小麦粉、牛乳でホワイトソースを作っておく。ジャガイモ、ニンジン、セロリ、赤ピーマン、ベーコンを同様のサイズにさいの目に切っておく。ニンニクをみじんにしておく。鍋にオリーブオイルとニンニクを入れて香りを出す。ベーコンを入れる。脂身が半透明になったところで、残る野菜を入れて、炒める。水を入れ、ブーケガルニとローリエを入れて煮る。今晩は、ここで手順を間違ったが、本当は、やりたかったのは、以下の手順。別の鍋で中国産蛤=安いを炒め、白ワインを入れて酒蒸しにし、貝が口を開いたところで、野菜の鍋に移す。ホワイトソースを溶き入れる。塩胡椒で味を調える。やってしまったことは、蛤を野菜の鍋に放り込んだこと。貝の口が開きにくく、エキスもスープにはでにくい。ベーコンで十分にコクがあるので、申し分ないのだが・・・)
昼は結婚式に招かれたので、観光ホテルでフルコースであったが、結構調子よく夕食もいただいた。これは、カロリーとアルコールの取り過ぎか・・・。
研究会のあとの飲み会で星が丘バスターミナル北の「しき」に行った。ここは、良心的な値段で、大皿料理と魚を主体にした料理で悪くないと思う。一階はカウンターと二つのテーブル席。二階は座敷がふたつ。
美味しそうでありましたので、ブーレ・バスケーズ。
ブーレ・バスケーズ(鶏もも肉骨なしを適当なサイズに切り、塩胡椒しておく。フライパンにニンニク、トウガラシ、タマネギを入れ、タマネギが透き通ってくるまで炒める。煮込みの鍋に移す。フライパンに用意した鶏肉を入れ、皮と身にかるく焦げ目をつける。煮込み鍋に移す。ローリエを入れる。この鍋にホールトマト缶をあけ、缶の半量の白ワインを入れ缶についたトマトをこそげる。フライパンにも水を注ぎ、エキスをこそげ取り、煮込み様の鍋に移す。パプリカを大さじ一杯。野菜のパプリカを半分に切り、それぞれを一センチほどの厚さに切って、煮込み鍋に入れる。パンシェッタを入れる。本当は、バスク地方の生ハムだそうだが、とりあえずでよろしかろう。塩味を調整する。30分ほど煮込んで、ご飯に添えてだす)
ヤフーやGoogleで「バスク風 鶏」をキーワードにするとレシピが出てきます。
肉みそ田楽(ごま油に赤唐辛子小口切りとしょうがみじん切りを入れて炒め、香りを出す。豚挽肉を入れ、日本酒に溶いた八丁味噌と白みそを混ぜ、煮詰める。大根の皮を厚めに剥き、切り口に十字に包丁を入れ、昆布ダシで煮る。アクを取るためにとがないままの米を一緒に煮る。里芋を別の鍋で同様に煮る。コンニャクを適当なサイズに切って、ゆでる)
餅菜のごま和え
白菜と塩豚の焼き物(豚三枚肉のブロックに前夜に塩をかけラップをかけておく。塩加減を間違えて本当に塩辛くなってしまった。失敗!皆さん、手加減にご注意。白菜を根本に包丁を入れて手で裂くようにして小分けする。温めたフライパンにオリーブオイルをしき、白菜と塩豚を焼く。焦げ目が付くくらい、白菜がしんなりなるくらいがよい。黒こしょう、粒マスタードなどにつけてたべる)
アスパラガスのパスタのペペロンチーニ
今晩のメニューは失敗ばかりであった。塩豚は塩がききすぎ、そんなに塩を使ったつもりがないのだけれど・・・。さらに、パスタをゆでるのに塩を入れるのを忘れ、ゆであがりの食感が悪かった。ま、こういうときもあるか。
悔しかったので、塩豚の作り方を探してみた。以下のURLがしっかりと書いている。今度は、失敗しないようにしなくちゃ。
http://blog.snaanam.net/snaanam/blog/suke/article/atc00000004
(26日夜は、gooBlogのメインテナンスだったので、27日に記録したが、投稿日時は26日に変更してある。)
パンフライポークのルッコラーゼ(豚ロースのステーキ肉に両面胡椒をかけておく。フライパンにオリーブオイルを入れて、両面こんがりと焼く。ルッコラーゼペースト=後述をのせ、バーナーで焦げ目をつける。ミックスサラダ菜などを皿にのせ、できあがった肉をのせて供す)
ルッコラーゼペースト(おばあちゃんの畑から、季節の変わり目で処分したルッコラを大量に手に入れたので作ってみた。ルッコラをよく水洗いし、適当に切り、よく水切りする。フードプロセッサーに松の実、ルッコラ、パルメジアーノ・チーズ、ペコリノ・チーズ、塩胡椒、オリーブオイルを入れ、ペースト状になるまでプロセスする)
ブロッコリーとズッキーニのパスタ(湯を沸かし塩を入れて、リンギーネをゆでるのと同時にブロッコリーを小分けにしたものを入れ、残り2分半のところにズッキーニを五ミリほどの厚さで半月切りしたものをいれともにゆでる。茹で上がったところで、ざるに空けてオリーブオイルをかけ、胡椒で味を調える)
日経土曜版にのっていた豚ネギ汁のバリエーション。
豚ネギ汁(白ネギを2-3センチほどの筒切りにし、フライパンで焼いて焦げ目をつける。鍋に水を張り昆布でだしをとり、わかす。わいたところで、ネギを入れ、豚三枚肉薄切りを入れ、豆腐を入れる。合わせ味噌を溶き、仕上げに、小口切りのネギを散らす。七味を散らして食す)
先週末のキノコの混ぜご飯が冷凍庫に残っていたので、また、納豆が残っていたので・・・。
2005年1月23日には、自分の車のロボットぶりについて書いた。また、2003年9月23日には映画の「i Robot」に関連して、最近のクルマについて批判的である旨書いている。ここでは、クルマについて、考えていることについて書いてみようと思う。
わたしは、20年来オーストラリアで四輪駆動車、大半はランドクルーザーを利用してきた。仕事の関係で訪問した折、ほぼ毎年のことであるが、四輪駆動車の必要があるような地域で利用してきた。その際、トヨタ車の優秀さを自分自身でも、また、現地の人々からも、十分に知ることができた。元々、オーストラリアはイギリスの植民地であったから、ランドローバーの世界であった。太平洋戦争後、アメリカの影響を強く受けたが中央砂漠や熱帯の交通事情が厳しい地域において、ジープよりもランドローバーが普及していたようである。それが、おそらく1970年前後から、次第にランドクルーザーがランドローバーを席巻していったと思われる。
その理由は、現地のメカニック(イギリス出身のオーストラリア人)から聞いたことであるが、最初、ランドローバーが優れていると思ったが、故障しない点とたとえ故障したとしても、その修理の容易さにおいてランドクルーザーが圧倒的に優れていると思ったという。その後、現地では、四輪駆動車のことを固有名詞としての「Toyota」ではなく、普通名詞としての「toyota」としてとらえるようになったという。
わたしが、オーストラリアではじめてふれることになったtoyotaは70年代中期タイプのそれであった。何度も部品が交換され、ドアなど外装も交換され、再塗装されたものであった。このマシンをわたすとき、このメカニックは、「メカニカルな部分は何も問題がない、タイアのような消耗品はしらんが」といった。実はこのマシンは、複数のtoyotaから再生されたもののようである。わたしは、このクルマをつかったほぼ一月の間、それこそ道なき道を走り回った。全く問題なかった。何度かパンクしてタイヤを交換したが、実にタフなクルマであった。
さて、現地のメカニック曰く、最近のtoyotaは扱いにくいというのである。彼らがあげたのは、前後輪のコイル式のバネのことである。元々のランドクルーザーは前後輪ともにリーフバネで、バネがおれたとしても木の枝を差し込めば修理の可能な場所までしばらくの走行が可能であったという。また、電気系統にしても、実にシンプルな構成であったが、現在はコンピュータ制御となり、現地では単に交換するだけになってしまったという。我々がやれることがないではないではないかというのである。もちろん、故障が少ないことについては、今も、かれらが評価するとしてもである。
数年前、あるセミナーでオーストラリア・トヨタの社員と話したことがある。その時わたしが話したのは、クルマには二種類があってもいいのではないかという点であった。その一つは、トヨタをはじめ日本車ならずとも世界中の自動車会社が目指す、コンピュータ制御された実に快適なクルマである。クルマは、二地点の間をなんのトラブルもなくなんのストレスもなく走り抜けるもので、必要があれば、ボタンひとつで目的地へとユーザを送り届けるようなクルマであろう。愛知万博では、そうした未来像のひとつが展示されると聞く。
それに対して、もう一つは、究極的には人間の力で動かすクルマである。もちろん、故障がないことはベストではあるが、非常にハードボイルドな環境の中で、乗員にも過酷な状況(エアコンがない、シートも快適とは言えないなど)を強いるものの、事、移動に関してはスムーズに移動が可能であり、万が一故障したとしても、ごく簡単な工具で修理ができ、また、パーツ交換が容易で、いちいちディーラーやサービス工場の手を煩わせることなく、他社の部品や汎用的な部品を利用できるようなクルマである。
わたしは、20年前のランドクルーザーが念頭にある。その様なクルマがないものか。トヨタはパリ・ダカにあっても、無改造車部門において優秀な成績を収めている。その路線をもっと、前進させることはできないであろうか。
日本では、たくさんの四輪駆動車が町中も走り回っている。わたしには、これらのクルマ達がかわいそうでならない。かれらの本領は、実に過酷な環境の中で乗員を安全に目的地に届けることであって、なんのアクシデントもない町の中で走ることではないはずだ。
本来、障害物がラジエターに損傷を与えない様に作られたブルガードもしくはカンガルーガードが、交通事故で歩行者を跳ね上げたとき、きわめて危険な凶器になりうると聞く。町の中でのクルマは、いかにうまくクラッシュして歩行者や乗員にとって危険でないボディを持つかが課題であって、砂漠の中で障害物によってラジエターを傷つけられることによって乗員の生命に危険を生じさせないためのブルガードは町の中ではなんの価値もないものなのである。さらに言えば、もちろん、日本の中のほとんどの地域では、四輪駆動車は必要がない。単なるファッションなのである。
以前、イタリアのメーカーが開発し日本向けの特製のペイント「泥はね」(スプレーすると、あたかも泥をはねたかのような模様がボディに描ける)が発売されたという「ジョーク」を聞いたことがある。これは、なまじ、本当かと思わせるところが、なかなかのジョークであった。
わたしは、オーストラリアでランドクルーザーを使って何度も川渡りをした。また、ユーカリの林の中を道を作りながら走った。ものすごいディープサンドの海岸や川辺を走った。とんでもないぬかるみも走った。ラリーではなく、必要があって走った。そうした中で、toyotaは安全に私たちを運んでくれた。多少の不安があっても、このクルマであれば大丈夫と思えた。
これから技術革新が進みコンピュータの固まりのようになったクルマは同様の信頼感を与えてくれるのだろうか。多少、不安な気持ちである。また、過酷な状況でクルマを運転することは実に楽しかった。自分自身のクラッチワークやハンドリングでクルマが動いているという実感を感じる事ができた。猛烈に重いハンドルやペダルと格闘したとしても。ロボットと化したクルマは、私たちに運転する喜びを与えてくれるのだろうか。
2005-01-23 21:56:48 |
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昨年クルマを「エディックス」に乗り換えた。このクルマ、しゃらくさいことに、音声認識の機構を持っている。ハンドルについているスイッチを入れながら「暑い」とか「寒い」とかさけぶと、エアコンが設定温度を変える。大声を出すというのがご愛敬だし、何ほどのこともないので、営業担当者に教わって、一度試しただけである。また、ダッシュボードに携帯とのコネクタがついていて、ハンズフリーになる。電話がかかってくるとカーナビに番号が表示され、これまたハンドルについているスイッチを押すと通話ができる。エンジンまわりのマイコンだけではなく、クルマは情報機器にどんどん近くなってきている。
1990年代末に「Aibo」が発売された頃、子供だましな遊び道具だと思ったが、ソニーはコミュニケーションとエンタテイメントのための戦略的な分野として注目しているようである。しばらくすると、
「お掃除ロボット」なるのも発売されてきた。これは、スイッチを入れると(もしくは定時に)掃除を開始し、部屋をくまなく回った後、所定の位置に戻り充電モードに戻るという。話もしないし何のエンタテイメントもないかもしれないが、家事にとって意味のある領域をになっていくのだろう。現在では必要を感じないが、少子高齢化がすすみ、人口減少が社会のインフラを左右し始めると、ロボットの存在は大きなものとなるだろう。ホンダやトヨタも、真剣にロボットの開発を行っているようである。どちらも歌ったり踊ったりといった「Aibo」と似たり寄ったりだが、歩行の可能な人型ロボットの存在は、これからは、注目だろう。エンタテイメント系から寄り実用的なものになっていいくはずである。ホンダの「Asimo」や「トヨタのパートナー・ロボット」は、どのような変身を遂げるのだろう。
本書「プルートウ」は手塚治虫の鉄腕アトムの「地上最大のロボット」を翻案し滝沢直樹が新しく描いていこうとする近未来のロボットと人間の葛藤と共存のストーリーである。2003年4月7日というのが、手塚の描いた「アトム」の誕生日である。我々は、アトムの誕生したあとの世界に生きているわけである。現実は、先ほど書いたように、アトムとはほど遠いレベルのロボットであるが、それでも、おそらくは、技術革新は急速に進んでいくであろう。
昨年、公開されたフォックス映画の「i Robot」(この映画については2004年9月23日にこのブログでふれた)も、手塚のアトムとほぼ同時代のアシモフが描いた本を原作としている。また、本書も2003年後半から「ビッグコミックオリジナル」での連載が始まった。
本書の主人公ロボット刑事のゲジヒトは夢を見ることもできるし、ロボットの妻をもつっている。本来ロボットにはあってはならないとされる殺人を犯した「ブラウ」。謎の爆発をとげた「モンブラン」と「ノース2号」。ゲジヒトも含めこれらのロボットは、世界のもっとも優れたロボットたちだが本書は、かれらをねらう謎の影との戦いが描かれる。本書は、連載をまとめた第一巻で、その最後に「アトム」が登場している。
2005-01-23 12:32:34 |
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今夜は癒やしの「浅野屋」でした。メンチボール定食とイベリコ豚ソテーの定食、鴨肉のサラダ、トマトサラダを食べました。
イベリコ豚のソテーにかけられていたのは、ズッキーニのジャムで、ズッキーニのほかに、干しぶどう、リンゴがともに煮られていて、甘くコクのあるジャム。噛みごたえのある味のあるイベリコ豚とは絶妙のコンビネーションでした。今度再現してみます。
以前に出してもらったアイアンストーンのカベルネ・フランがなかなか良かったので、おねだりして、探してもらって、今夜はいただいた。ネットにでていたのでURLをあげておく。
http://www.annie.ne.jp/~benry/wine/aian.html
がんもどきの煮物(ダシ昆布、日本酒でダシをとったところに、フライパンで焦げ目をつけた鶏手羽肉を入れる。薄口醤油と塩で味を調える。がんもどきを入れる。里芋を入れる。落としぶたでしばらく火をとおす。仕上げにインゲンを入れる)
小松菜のごま和え
きのごご飯(米を洗ったところで、酒と日本酒を入れる。おおむね、3カップで日本酒・薄口醤油大さじ4。水を好みの量を入れる。舞茸となめtけを入れる。鶏細切れ肉を入れる。混ぜ合わせる。通常の炊飯時間で仕上げる)
テッサ・モーリス-スズキ、2004、『自由を耐え忍ぶ』、岩波書店
オーストラリアの日本経済史・思想史研究者のテッサ・モーリス-スズキの『世界』への掲載論文(2004年1月~8月)を収録した本書は、9.11以降の世界の政治状況をふまえ、「人間社会の不確実性と未来予測不可能性」(199頁)のなかで我々が取るべき道、すなわち、アイロニカルな表現ではあるが「自由と民主主義を耐え忍ぶ」ことについて示唆しようとする。9.11以降展開されたアフガン侵攻は、「不屈の自由作戦(Operation Enduring Freedom)」と名付けられたが、本書のタイトルはこれをふまえている。どのような自由を、また、どのように自由を耐え忍ぶのか、テッサが示唆するものは、ブッシュのそれでないことは明白である。
本書は8章からなっている。それぞれ、タイトルをあげておく。「劣化する民主主義」、「暴走する市場」、「自由とパノプティコン」、「知の囲い込み」、「風変わりな資産」、「戦争の民営化」、「自由の再生」、「民主主義の再考」である。
いずれの章も大変興味深く、是非読み通すことを進めるが、ここでは、本書の第6章「戦争の民営化」について触れておく。評者の無知をさらけ出すようで恥ずかしいのだが、世上を風靡する「民営化」の用語が意味するものの広がりに大きな恐怖を覚えた。「民営化」は巨大化する行政組織とその運営資金を効率的・効果的に運用するための施策と理解していたが、この章で触れられる産軍複合体の現状を知れば、民営化の動きと対象領域を慎重にすべきではないかと思ってしまう。産軍複合体は、アメリカ国防総省に癒着するボーイングやノースロップ・グラマンといった兵器製造産業だけかと思っていたらそれだけではない。本書であげられているヴィネル社などは兵士の訓練を請け負っており、またブラックウォーター社は「特殊工作」を営業領域にするという。さらに、捕虜収容施設の運営やロジスティクス面でも民営化が起きているという多くの事例が挙げられている。
ジュネーブ条約が保証する非戦闘員に対する保護は、そもそも、全面戦争における無差別攻撃やゲリラ戦によって、その境界が曖昧となったが、軍がその業務の一部を民営化することにより、こうした民営事業にも関わらない市民と従業員という新たな要素が「戦争」という情況に入り込むことになる。また、対テロリスト戦争を布告するブッシュ政権が敵視する「アルカイダ」がビン・ラディーンの経済力によって作り上げられた私兵集団で世界の不満分子たちが傭兵として参加する一方、ペンタゴンが民営化をはたしているあまたの民間軍事企業もまた、同様の国家外の暴力機構に他ならないであろう。
本書は、この6章以降、権力に関わらない市民がどのようにして、こうした世界状況に対抗するかについてその処方箋の一端を明らかにするが、とりわけ、終章のの終端部を直接引用しておきたい。
「・・・複合性と流動性のグローバルな相互連関は、この世界を不安定なものと化した。全ての不安定なシステムがそうであるように、制度内での突然のゆらぎ(たとえそれが微少なものであったとしても)は急進性を獲得し、そのシステムの全ての領域に根元的で巨大で予測不可能な変化を与える。・・・(中略)・・・それ故、逆説的には、人々の政治的関与にはまだ可能性が残されている。もし個人や少人数の集団が、世界をより危険で暴力に満ちたものに変化させることができるとするならば、同じく個々人や小さな集団の行動は、言葉本来の意味での平和、相互理解、安全といったものを世界で実現する可能性を孕むはずである」(199~200頁)。そして、ラビ・ラヒルの言葉を引用する。
「もし私が私のために行動しないのなら、誰が私のために行動するのか?もし私が私のためだけに行動するのなら、わたしは何者か?そしていま行動しないなら、いつするのか?」(200頁)
2005-01-21 18:27:05 |
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