今日は星ヶ丘の三越映画劇場にジョディー・フォスターの映画「幸せの1ページ」を見に行った。
この映画は、昨年8月1日のオーストラリアへの機中で見たのだが、記載漏れ。日記にはその部分が残っていたので、以下に書いておく。
原題:Nim's Island (2008): http://www.imdb.com/title/tt0410377/
Nim はお父さんと二人で南太平洋の孤島に住んでいる。お父さんは自然科学者、National Geographyに投稿している。最小限の技術を使い、文明からの最小限の支援を受けつつ、自然にちかい生活を続けている二人である。こうした二人に、危機が訪れる。お父さんは新種のプランクトンの発見のために海に乗り出し、Nimは、島に残る事を選ぶ。突然の嵐、衛星電話をもっている二人の間で、連絡が取れなくなる。Nimはあこがれのフィクションの主人公、アレックス・ローバーが実在の人物と思っている。著者の名前と登場人物はおなじなのだ。Nim はメールを投げる。助けにきて!実は、男の名にみえるアレックスは、アレクサンドリアという女性なのだ。しかも、彼女はアゴラフォビア(広場恐怖症)。家から一歩もでてはいけない。しかし、彼女の前にフィクションの主人公のアレックスが現れて、彼女を無理やり外の世界に連れ出す。彼女は決断して、サンフランシスコから、Nimのすむ南太平洋に向かうのだ。
もちろん、ハッピーエンドが期待されるように、映画は、シナリオ通り進む。母のいないNim、妻のいないお父さん、アゴラフォビアを克服するアレクサンドリア、それぞれが、これまで欠損していた存在を埋めるかたちで大団円。映画は、こうでなくちゃ。アレックスことジョディー・フォスターの魅力は、これまでにない演技で、シリアスなジョディではない一面を知ることができる。
三越映画劇場で映画を見て、特売場の北海道物産展で塩水うにと毛ガニを買ってきた。
ウニのバスタ(塩ウニは塩水に浸かっているので、真水にしばらくつけておく。昆布だしをとって、白ワインを加えて用意しておく。カッペリーニをアルデンテに茹でて、ボールにとり、出汁、ウニ、ディル、EVオリーブオイルを合わせて大皿に盛り、こしょうをかけて供する)
カニのサラダ(サラダほうれん草、ブロッコリーのスプラウト、カニのむき身をドレッシングに合わせる)
伊勢のてこね寿司の冷凍パックをいただいた。これがおいしいのだ。薄切りの冷凍カツオ、タレ、すし酢のパック。冷凍カツオをタレにつけて30分で食べごろになる。炊きたてご飯にすし酢のパックをあけて冷やす。すめしに、大葉の千切り、三つ葉、つかったカツオをのせ、きんごまをかけて食す。
ひじきの煮物(乾燥ひじきを水で戻して、ごま油で炒める。人参千切り、手羽元、焼きちくわ、乾燥なばな、水を加える。薄口醤油、ショッツル、赤唐辛子で味付け)
小川 洋子、2003、『博士の愛した数式』、新潮社 (新潮文庫)
映画化され、先日もテレビ放送されたようだが、どちらも見逃している。先日たまたま本屋で立ち読みして、読んでみた。映画のウェブページがあるし、第一回本屋大賞受賞ということで、ストーリーなどは、あちこちにあるので、それには触れないことにする。
しかし一言。主人公の「博士」は、事故にあった年の1975年までの記憶はあるが、その後は、記憶が80分でリセットされてしまうので、80分を超えて記憶する必要のあることはメモに書いてジャケットに貼付けている。短期記憶障害は新たな人間関係を持続することは大変だ。「博士」は、それをメモとして書くという外部記憶に置き換えておくのだ。長期記憶されている行動様式と外部記憶が彼の行動を決める。限られた行動パターンの中でうまく人間関係を維持できた家政婦とその小学生の息子の物語。限られた時間と関係の中で特別な意味を持つのが、数学である。
いつものように、寝本にしたのだが、ちょっとまずかった。というのも、ストーリーも然り乍ら、数論や整数論のトピックが出てくるので、ついつい、素数を頭の中で思い浮かべてみたり、完全数や友愛数の計算方法を考えてみたり、あるいは、1から10(派生して1から100など)の総和を計算する一般式を考えてみたりして、目が冴えてしまった。
追加:20090520
博士の愛した完全数と、秦氏の愛したメルセンヌ数(日本史・世界史) / ヒロさん日記:http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1831927
博士の愛した数式:http://f26.aaa.livedoor.jp/~akechan/DOCTOR/doctor.htm
2009-02-27 09:23:00 |
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今日は久しぶりに池下「浅野屋」へ。1月24日以来なので、ちょうどひと月ぶり。今年二回目である。
カキフライ定食
メンチフライ定食
チーズとクルミのサラダ
イベリコソーセージ
トマト鍋(比内鶏のスープの素、比内鶏のがらに醤油味で味を付けたものに水をくわえて、ベーススープトする。トマトのへたを取って、十字に刻みを入れて皮のままスープでゆでる。やがて皮が剥けてくるのでそれをとる。キャベツ、ほうれん草の根元を最初から煮る。味付けに、塩、ローリエ、セージ、粒黒こしょう、粒コリアンダー、赤唐辛子。別に讃岐うどんを茹でておく。豚ロース肉薄切り、もやし、えのき茸、豆腐を適宜加える。仕上げにうどんを加えて食す。トマトをとり鉢にとって崩しながら、これとスープにつけるようにして、具を食べるとよい。洋風鍋というべきではあるが、とても味が深くなっておいしい)
タコのラグーソースのパスタ(タマネギ、人参、セロリをみじん切り。ニンニクと赤唐辛子をEVオリーブオイルで炒める。しっとりして水分が出てきたところで赤ワイン、ダイストトマト缶を加える。煮詰める。塩こしょう、ローリエ。別にゆでたグリーンアスパラとインゲンを皿に添える。カッペリーニをアルデンテにゆでて皿に盛り、ラグーソースを盛る。よくからめて食する)
名駅のタンドレスとポンパドールのバゲット、チーズ各種を以下のメニューとともに。
ヒラメのカルパッチョ(ヒラメの刺身。刺身のつまの大根をわきにそえ、大葉を千切り、つまにちらす。ヒラメの切り身をさらに広げて、塩胡椒。バジルとイタリアンパセリのみじん切り、プチトマトを小さく切って散らす。EVオリーブオイルをかけまわし、バルサミコ酢を少々散らす)
ブルシェッタ(バジルとイタリアンパセリのみじん切り、ツナフレーク、プチトマト四分して、塩胡椒、EVオリーブオイルを加えてよく混ぜる。セロリの軸を添える)
小林 英夫、2008、『〈満洲〉の歴史』、講談社 (講談社現代新書)
ずいぶん前に『満鉄調査部』を読んだことがあって、それ以来、久しぶりに満州国について学ぶことになった。新書ながら、その歴史がよくわかったように思う。
また、新たに理解したこともあった。つまりは、戦後日本の高度成長は、日中戦争から太平洋戦争に至る過程における、満州国の建国から崩壊までの間のコピー、あるいは、太平洋戦争遂行のための国家総動員態勢の非軍事バージョンというべきか。それを担った官僚として満州国の経済体制を担った岸信介や椎名悦三郎は、戦後、政治家として日本の高度成長にいたる政治経済体制を担う。こうした歴史の相似形がめについた。
中国大陸にとって、清帝国の揺籃の地である満州は歴史的に辺境であり続け、歴史を通じてモンゴルや女真などの遊牧あるいは狩猟採集の民が行き交っていた。それが、清帝国の誕生とともに、漢民族(漢字文化を担う農耕民)がこの地の開発に主たる役割を担うことになる。清帝国の崩壊後、中華民国の軍閥が割拠するなか、日露戦争の後、張作霖/学良父子らと並んで関東軍が軍閥のように機能して、満州国を成立させる。この地を直接統治することなく、傀儡政権を樹立して、大日本帝国は人材を送り込み、日本化を目指す。
本書は、戦後、1990年代に至るまで満州国に関わった人々の動きもふくめて満州の歴史を記すのであるが、気になったのは、日本の満州国経営における同化主義の顛末、そのことについての評価がどうであるか、と言う点である。近代国家という当時から現代に至るシステムのグローバリゼーションをになった満州建国と植民地支配ではあったが、そのことをどのように評価したのだろうか。その後、どのように日本の外交に影響したのだろうか。著者の前著『日中戦争』にも記されていることではあるが、やはり、日本はかわっていないということが、気になった。
2009-02-22 23:11:55 |
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山田 篤美、2008、『黄金郷(エルドラド)伝説:スペインとイギリスの探険帝国主義 』、中央公論新社(中公新書)
1492年のコロンブスのいわゆる「新大陸発見」を素直にめでたいと考えている方は、珍しいのではないか(そう思いたい)。この後の「新大陸」の悲劇は、今も続く。新大陸ばかりではなく、ヨーロッパによって発見された諸大陸、諸国は大概ひどい目にあっていて、その癒しはどのぐらい必要なのか。
本書は、ベネズエラを中心にした南米大陸東北部の植民地分割の有様について、探検やそれに伴う地図作製、また、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、アンリ・シャリエールの『パピヨン』、コナン・ドイル『失われた世界』などの文学(あるいは、エッセー)も含めて、西欧社会の世界支配/分割の様子を描いている。新大陸への探検ロマンは、決してロマンではなく植民地支配に直結していたし、そのことを隠蔽することになった文学は、あるいは、読者の心沸き立たせる探検記は誠に罪深いといわねばならない。
豚ロース肉とキャベツ、ほうれん草の蒸し煮(キャベツ、ほうれん草、えのき茸、絹揚げを好みに切って、土鍋に塩、花椒、赤唐辛子小口切り、豆鼓とあわせておく。紹興酒とナンプラーを振りかけ、土鍋で蒸し煮にする。蝦子麺を別に茹でて、めいめいのボウルにいれて、先の野菜とからめて食する)
棒餃子(スーパーで作り置きの棒餃子。黒酢、濃い口醤油、豆板醤で食す)
2009-02-22 13:01:07 |
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根崎 光男、2008、『「環境」都市の真実:江戸の空になぜ鶴は飛んでいたのか』、講談社 (講談社プラスアルファ新書)
本書の「おわりに」のなかで、著者は執筆動機として「とりもなおさず江戸の町を環境的に理想化した本の氾濫と、それらによるゆがんだ江戸の「環境都市」像の広がりを危惧しているからであり、ありのままの江戸の環境事情を描きたい」ということであったと記している。たしかに、江戸時代ブームもあって、環境都市のイメージが強いが、考えてみると、それもこれも、現代の環境に対するイメージが投影しているのであって、たとえば、反故紙のリサイクルや屎尿の周辺農村での肥料としての利用は、現在問題視される「資源利用ののちは廃棄」という一方向ではなく、リサイクルして利用する方法が現在、強い関心を呼んでいることと関係があるだろう。だから、江戸の町を「環境都市」と理解することは、現在の環境観や環境政策と関連しているということであろう。
本書に描かれるように、鶴をはじめとする野鳥が江戸の空を舞っていたことは、歴代将軍の鷹狩りのための野鳥の保護であり、生類憐れみ綱吉の時代にしても、ほかの野鳥が保護されている一方、トンビやカラスが捕獲されているなど、「生類憐れみ」という仏教思想に基づく環境観でのみ理解することができない。しかし、逆の見方からすれば、環境保護に関する厳しい法令があれば、環境は維持できるとも見える。もっとも、綱吉時代には「生類憐れみ」のために鷹狩りは行われなかったが、帰って野鳥に関する関心が低下し、江戸の都市化の拡大と相まって、次代の吉宗の次代には、野鳥が激減していて、鷹狩りを復活するために改めて、野鳥保護をうちだしていたという。こうしたことは、厳しい法令といっても、なかなか一筋縄ではいかないということではあるが。
本書を読んでいて、興味を持ったのは、江戸の町の公衆便所の状況である。屎尿は売買される商品であって、下肥商人は辻辻に屎尿桶をおいて、屎尿を回収して肥料としようとするが、町方では、屎尿桶が通行の妨げとなり悪臭のもとであるとできるだけ設置をさけようとした一方、立ち小便が通常であって辻辻には尿の川ができていて、そのことについては、悪臭のもととは考えられていなかったという。こうした屎尿に関する不浄観が大変興味深かった。
| 「環境」都市の真実――江戸の空になぜ鶴は飛んでいたのか (講談社プラスアルファ新書)根崎 光男講談社このアイテムの詳細を見る |
2009-02-22 12:31:59 |
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ブロッコリーとブリのオレキエッテ(ブロッコリーを小房にわけ、軸の皮を切って細かく刻み、葉もきざんで塩ゆでする。ブリの切り身をニンニクみじん切りと赤唐辛子小口切り、EVオリーブオイルで焼いてほぐす。ブロッコリーを湯切りして加えて炒める。白ワインと胡椒を加えて煮込む。オレキエッテをアルデンテに茹でて、その上にブロッコリーのソースをかけて供する)
牡蠣のオリーブオイル煮(牡蠣をひたひたのEVオリーブオイル、ニンニクみじん切り、赤唐辛子、塩少々、こしょう少々とともにゆっくり加熱する。沸騰させてはならない。牡蠣の煮汁が出てオリーブオイルが濁ってきたら仕上がり、オイルもともに食する)
セルバチコのサラダ(セルバチコ、プチトマト、パルメジャーノ)
赤祖父 俊一、2008、『正しく知る地球温暖化:誤った地球温暖化論に惑わされないために』、誠文堂新光社
本書は、最近の温暖化論議について感情的なあるいは、先入観に導かれた議論ではなく、客観的なデータを用いて議論をするべきと警鐘を鳴らす。問題は、IPCCの政策提言にある。すなわち温暖化の原因となるのは二酸化炭素の増加であり、二酸化炭素の排出を制限する必要がある。そのことは気候変動モデルによるスーパー・コンピュータによるシミュレーションによって明らかである、とするのである。
しかし、本書は、それに対して、温暖化が起きている状況を否定しようとするのではなく、現在の温暖化は、人間の二酸化炭素排出による温暖化による気候変動ではなく、もっとマクロな気候変動によるものであることを、仮説を立てて議論をすべきであるとする。
現在は、1800年代の小氷期からの立ち直りで継続して過去200年にわたって温暖化が続いている時期であること、そして、現在の温暖期や小氷期を含み、完新世における氷河サイクルの最後の氷河が終わって小さな波を繰り返しながらマクロには温暖化が進行しているのが現在であって、やがては、小氷期やあるいは次の氷河期が遅かれ早かれやってくる。これとても、どのようなメカニズムによってそうした寒暖の長期のサイクルがうまれるのかまだまだ明らかでない。それを、200年前ほどにおわった小氷期もモデルに入れることなく過去30年ほどのデータに基づいてコンピュータ・シミュレーションがおこなわれて、温暖化が過激に演出されてしまっている。さらにそれをマスメディアが騒ぎ立て、また、政府間協議によって排出規制あるいは排出権取引と言ったグローバル経済の枠組みの中で解決しようとしている。
こうした状況は自然科学の研究モデルからも逸脱しており、このことを本書は警告する。本書には、たくさんのデータを示すグラフが提示されていて、わかりやすく現在の温暖化のもつ地球的意味を理解することができる。おそらくは、温暖化は制御することがおそらく無理な惑星システム規模の現象であり、それよりも、現代文明を維持基盤である炭素燃料(石炭、石油)に依存したエネルギーシステムが問題なのであり、化石燃料を燃やして二酸化炭素を増やすことが問題なのではなく、資源が枯渇してしまうことが問題である。そして、それは、当然バイオ燃料のような代替燃料に置き換えたところで、問題は解決しない。さらには、グローバル経済の進展で、生産コストの削減のためには、生産拠点を発展途上国に移管しようとするのだが、二酸化炭素排出規制の陳腐なことは、こうしたアウトソーシング自体、排出規制につながらず、生産規模全体の縮小やライフスタイルを変化させる以外には手はないのではないか。
2009-02-21 10:54:00 |
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