ローマの詩人、ウェルギリウスの『アエイーネス』に発想を得た作品。トロイアから逃れたアエイーネスがローマの建国の前史に関わったというが、本作のタイトルとなっているラウィーニアという女性については詩人ウェルギリウスの言及は少ないという。ラティウムの王女のラウィーニアは兄弟を失い、否が応でも王国の後継者としての役割が期待され、あまた求婚者が現れるなか、お告げによってアエイーネスと結ばれる。男優位の社会の中での彼女の主体的な選択の模索が未来につながるという物語となっている。
そのきっかけになったのが、ラティウム王家の神託の森でラウィーニアがウェルギリウスの死ぬ間際の霊魂に出会ったことにあった。ということは、ローマ詩人のウェルギリウスが死の間際に過去にさかのぼり、自ら作品に登場させた人物に、ローマ建国の未来あるいは自らの作品の内容を知らせたという伏線があるということだ。この作品はタイムトラベル物でもあるのだ。
著者のル・グウィンは、もともと欧米の教養人たちの共通の知識であった『アエイーネス』を始めとする古典が失われていくという状況も題材をここに見出した理由があったという。関連して思い出すのだが、オーストラリアの友人たちとの会話の中で、聖書やシェークスピアなど、彼らが知っている知識との落差に驚いたことがある。もちろん、ストーリーとしては知らないわけではないが、それを英語を使って話しをするとなると、厄介なことになる。語学の点では、タイトルや内容について、英語で話すことができるか、聞き取ることができるかということについて、これは、もちろんやむを得ないということではあるかと思う。しかし、ひるがえって、日本人同士の会話の中でこうした共通する教養といったものが成立するのか、ということが気になったことを思い出した。はたして、日本人としての共有する(あるいは、共有すべき)基礎知識的な教養というのは、いったいなんだろう。