ハンバーグ(餅麩を砕いて牛乳で湿らせておく。全卵一個、合い挽きミンチを加える。あらかじめきつね色に炒めておいたタマネギみじん切りを加え、塩胡椒、ナツメグ、チリパウダーを加えてよく練る。粘りがでたところで、フライパンにオリーブオイルをしいて加熱、大きめの小判型にまとめて焼く。つけ野菜として、電子レンジでで加熱したジャガイモ&バター。ジャガイモは皮付きのままよく洗ってラップにくるんで量に応じた時間で加熱する)
キャベツとニンジンのサラダ(キャベツ千切り、ニンジン千切り、ミニグリーンアスパラを塩ゆで、水にさらして水をしぼる。ホワイトビネガー、グレープシードオイル、塩胡椒、ミックスハーブのドレッシングで和える)
原 武史、2008、『滝山コミューン一九七四』、講談社
わたしは、著者よりも11歳年長だ。しかし、団塊世代や全共闘世代からは、数年下だ。これだけ短い間の年齢差だが、大きな違いがあるようだ。ちょうど私が大学生の頃に、かれは、本書で記述される小学校時代を過ごしていたことになる。彼の小学校時代の教員は、全共闘世代が若手、戦前戦中派が中堅と言ったところであろうか。
本書のテーマは、同世代の友人たちが既に忘れ去ったかの集団教育についての違和感を持ち続けた著者の日本社会に対する警鐘といえば、言い過ぎであろうか。戦前であれば、天皇の赤子、ほしがりません勝つまではの思想教育、そして、一転、戦後は、戦前と同じ教員が民主教育をにない、東西冷戦構造の中で左翼系であれば、ソ連型の集団教育を実践し、はたまた、逆の立場であれば、愛国教育に走るという、日本社会の持つ本質的な宿痾とも結うべき集団主義への不快感であろうか。
現在も学校教育の持つ、その本質は変化していないのではないかという危惧はつきまとう。教育はもちろん強制力を伴うのだが、個人の持つ個別の能力を発揮させるための方法は、制度的な学校教育はむしろとってこなかったのではないか。少なくとも、社会性の育成と称して、学級を構成させるという原点から脱却ができない以上、それは、困難であろう。
本書としても、解決策を出した訳ではない。著者自身、中学校から私学に移って、闘争を回避した(もちろん、それは健全な判断であったろう)し、また、同じ学校システムのルートを使って大学に入ることはなく、別の私学システムにうつって、自らの実践としては、行動として体制に対してネガティブな反応をしてきたのだから。
私の場合、東京ではなく大阪の郊外の地付きの小学校中学校時代を過ごしたので、本書で報告されるような、恐ろしい経験は記憶にない。バズ学習というのが中学校時代のキーワードとして記憶にあるのだが、これは、うまく運用できていたのかどうか、定かではないが、討論と相互支援のシステムであったような記憶がある。ここでは、あくまでも小集団の中で完結していて、本書で述べられるような、全校を支配するような展開はなかった。もっとも、教師の個人の資質や環境の影響もあったのであろうが。
しかし、一方、バズ学習の指導者であった教員は、いわゆる当時の「不良」のやり玉であったし、クラスはひどく荒れていて、教員で生徒の暴力を回避できたものは、しっかりと主張する一部教員だけであった。「不良」たちのターゲットは、教員であって、いじめはなかったし、あまり、生徒間のトラブルはなかったように記憶する。そして、学校間の抗争が、えらく、頻繁に行われていた。
ちょっとした時間差でおこったこれらのことが、じつは、世界情勢を反映したものだとは、当時の小中学生としては一向に理解できなかったし、教員たちの理解もそうではなかったであろう。そして、いまもまた、あいかわらず・・・。
2009-06-29 22:02:28 |
読書 |
| Trackback ( 0 )
たまたま、「◆ Mangiare Felice ◆ 食べて飲んで幸せ」にあったレシピに引かれて、作ってみた。ただし、卵を忘れた!
http://lagattina.exblog.jp/11842129/
ジャガイモのガレット(タマネギを薄切りしてバター、塩とともにじっくり炒める。パンチェッタを炒めておく。パセリを刻んでおく。ジャガイモを皮付きのままラップにくるんで電子レンジ。皮をむいて、つぶし、先の材料を混ぜ合わせる。このときに卵を入れなければならなかった。塩胡椒、ナツメグをくわえて、よく混ぜる。耐熱皿にのせてオーブンで30分ほどグリルする)
メカジキのムニエル(メカジキの切り身を塩胡椒し、小麦粉を軽くまぶして、オリーブオイルで焼く)
トマトとベビースピナッチのサラダ
前夜、城端の町外れにあるオーベルジュに泊まった。一晩3組しか泊めないとか、田んぼに囲まれ、森に囲まれる城端の町を見渡す、なかなかの景観である。また、木造の建物(おそらくは、現地の古くからの建築様式をいかしたもの)もすてきなのだが、ミシミシどんどんと響く。食事は、夕食も朝食も悪くなかったとおもう。ご飯、釜で炊いたものでなかなかであるし、また、地産地消をめざすという食材も悪くない。しかし、フレンチとは言うものの、この程度だと、町では洋食屋さんでも出すかもしれない。もっとひねってもいいのかもしれない。そして、この路線は、全国ありがちである。ここだけのアピールが何か、景観や食素材だけではなく、もう少し歴史や文化と接点があってもよいのではないか。とすると、ヌーベルであれなんであれのフレンチではなく、むしろ、焦点は地元の料理ということになるのではいかとおもうのだが。
今朝は、宿をチェックアウトしてまずは,城端の町を巡った。その前に、宿のご主人のお話を聞いた。この宿は間もなく、5年目に入るとのことで、自分の在所に新しくたてたもの。子供の頃からの自分お部屋からの眺めが、田んぼと森だったという。日曜というのに朝早くから田にでている農家の方がいて、可能な限り無農薬を目指したいので、雑草は手作業でとっているのだそうだ。また、この集落では、ここの農家ではなく、集団営農を行っているとのこと。これによって、農薬をつかわない農業が可能になったという。しかし、同時に、産物をどのように商品化することも課題とするとのことである。オーベルジュもひとつの試みではあるが、農家の生産品を生かした起業が望まれるところであろう。
チェックアウトのあと、城端の町を巡った。小京都のふれこみで、建物はひとつひとつ、なかなかの味わいとは思うが、どうして、あのように大規模な道路計画を行ったのであろう。おそらくは、曲がりくねった細い道筋がかつて町を覆っていtであろう。現に、メインストリートを外れるとそのような街路がある。しかし、メインストリートを通したおかげで、何かむしろ、殺風景な景観をもたらしたのではないか。この町を訪れた旅人は、再び帰ってきたいと思うのだろうか。また、どこでもありがちな、「よさこい」ブームに乗っていいのだろうか。曳山の味わいをどのように伝えていくのか、やはり、一工夫も二工夫も必要なのだろう。
次に、利賀村のそば村にいった。うーん、利賀村は芸術祭を誘致し、ある意味では、村おこしの先駆者であろう。しかし、このそば村は、あまりにも既成概念にとらわれてはいないか。山村=そばなのだし、世界のそば産地とネットワークを組む。これも悪くはないけれど、驚くような味になっているのだろうか。
北上して、砺波平野の散居の景観の中をめぐった。そのなかで「となみ散居村ミュージアム」にたどり着いた。ここは、散居という景観のネットワークの拠点として、従来の博物館のものを置き、そこでしかみられないというものを、散居という景観にそぐう形で、情報を提供するという発想で企画されたものであろう。しかし、それでも、従来の視点、つまりは、ものを持ち寄ってくる新しい建物ができていて、収集された民具が所狭しと並べられる。たまたま、最近にオープンになったようで、周辺の老人たちが招かれたようだ。彼らの展示品に対する、思いの語りが面白かった。こうした形がもっと生かされないものか。
また、散居の住宅が新旧と移築復元されていて、これはこれで面白い。ただ、やはり、もう少し具体的に見せるための情報提供の仕組みを提供することが必要だろう。たとえば、ハンディGPSをつかったオリエンテーリングを通じて散居の暮らしが環境保護に合致しているといったダイナミックな情報提供の仕組みを考えてもよかろうと思う。あいにく、行政にありがちな箱ものをつくって、これで終わりとはならないようにしてほしいものだ。
富山県下をめぐって帰ってきた。そのことは別に記すとして、東海北陸縦貫道の清見インターに近づいたところで、郡上八幡を先頭とする渋滞が表示されていたので、まずは、キュルノンチュエによって、ポアトリーヌヒュメなどを買いに横道にそれた。清見の道の駅で時間を過ごそうと思ったが、営業終了時間が早くて店が開いていない。結局、渋滞のさなかにつっこんだ。渋滞8キロという表示で、通過するのに小一時間を要した。原因ははっきりしている。道路管制の失敗だ。郡上八幡付近でボトルネックがあると解っているのに、途中開通させた道路を片側2車線のフル利用させている。これでは、この区間の通過速度が上がって、ボトルネックに通過車両がアルレルことが解っている。へたに途中区間を4車線にする必要はないとおもう。
ともあれ、20時過ぎに帰宅。清見の道の駅をでたのが、17時40分ほどであったので、渋滞を通過したにしては、それなりのものであったか。
パスタカルボナーラ(あらかじめ、パルメジャーノをおろし、黄身、牛乳、塩胡椒を加えて溶いておく。ポアトリーヌヒュメを一口にきって、フライパンで炒める。アルデンテに茹でたリンギーネを湯切りしてフライパンに加えてからめる。ざっと絡んだところで用意の牛乳ミックスをくわえる。もろもろに固まらない前に、まとめて大皿にもって供する)
プチトマト(渥美半島の同僚からの頂き物、先週にいただいていたのだが、使い切っていなかった。甘く、おいしい)
枝豆(江南の畑でとれた野菜が留守中届いていた。今夜は、まずは枝豆。枝豆を塩ももし手荒い、塩ゆでする。できるだけ、アルデンテな感じを残したい。ざるにあけたあと、塩をふる)
ミステリーツアーと称して、富山県南砺市にきた。東海北陸縦貫道は郡上八幡手前から渋滞8キロ。40分ほどかけてぬけて、五箇山インターででて、昼食は平村の「拾遍舎」でそばを食べる。そのあと、添付の写真の相倉(あいのくら)集落の合掌造りのむらをみて、五箇山トンネルを抜けて、城端にはいる。
この「薪の音」はウェブで「オーベルジュ」をキーワードに調べて見つけたのだが、フレンチと地産地消、地元の米と言ったキーワードにひかれて、ここを選んだ。旧・城端の市街地のはずれの水田の中にあるこのオーベルジュは、静かで、小さな看板があるだけで見落としそうな場所である。なんとなく、確信が持てなくて車で近くを右往左往したのだが、主人らが表に出てくれたようで、ようやくたどり着いた。
夕食は、以下のようなメニュー。
アミューズブーシュ(辛みの効いたトマトスープ、アボカド、鮎のあぶりもの)(梅和え大門素麺と甘エビ)
海の幸のサラダ仕立て(白身魚、トンブリのソース、夏野菜のテリーヌ、オリーブペースト)
加賀太きゅうりのコンソメ風味(フォアグラ、加賀太きゅうり、黒トリュフ、ショウガ風味のコンソメソース)
(トウモロコシの冷製ポタージュ)
太刀魚の天火焼き(太刀魚、ホタテ、蟹のムース、ほうれん草のソース)
(2種のグレープフルーツのソルベ)
牛サーロインのグリル(焼きなすと牛サーロインのグリル、くるみ風味の朴葉焼き)
デザート(マンゴーのババロアとココナツアイス、パッションフルーツソース。フォンダンショコラとバニラアイス)
梨木 香歩、2001、『西の魔女が死んだ』、新潮社 (新潮文庫)
思春期前期の少女の成長を祖母との交流の中に描く。学校に行きたくないと宣言した主人公のまいは、母と相談して、祖母のもとに送られる。祖母はイギリス人だが日本人の祖父と結婚して祖父が亡くなってからも日本の自然に囲まれて一人で生活している。彼女は自らを魔女という。本当に魔女かどうかは解らないが、魔女としての心得を孫娘のまいに語る。
やがて、単身赴任していた父のもとに仕事を辞めた母とともに合流することになって、直前に起きた出来事で祖母との感情の行き違いをそのままにしたまま、祖母のもとを離れるのだが、二年後、祖母が亡くなったという知らせ。母とともにまいはかけつけるが、彼女は「西の魔女」こと祖母の魂が身体を離れるに際して残したメッセージをみつける。そして、「東の魔女」であるまいは、さらに成長をするのだ。
自由に生きると同時に他人との関係をうまく築く、『西の魔女が死んだ』に添えられるもう一編の「わたりの一日」は、その後のまいの成長をつげている。
本書をよんで、子供の頃おきた出来事、様々なことが思い出されてきた。おとなも子供も(といって、あまり子供すぎても解りにくいが)、ぜひぜひ読むべし。
2009-06-27 09:44:05 |
読書 |
| Trackback ( 0 )
同僚お一人をご招待!
中華粥(米を洗わないでたっぷりの水で煮る。貝柱フレーク、塩少々、ごま油、香菜の根っことともに。強火で焦がさないように。水分が減ってくると、水を追加。薬味として、ショウガの千切り、ザーサイの千切り、香菜を用意。小さな鉢に黄身を入れて、粥をくわえ、薬味をのせて好みで混ぜて食する)
豚肉とレタスの炒め物(ごま油にショウガ千切り、赤唐辛子小口切りを加えて炒め、豚裁ち落としをくわえ、炒める。一口に切ったレタスを加えて炒める。塩こしょうで味を整える。レタスがしんなりしたら大皿にもって出来上がり)
牛肉の豆鼓炒め(あらかじめきぬさやをざっと茹でておく。ブナしめじをほぐしておく。豆鼓、ショウガ千切り、紹興酒、濃い口醤油に牛肉断ち落しを加えてよくもんで味を染ませておく。炒める前に片栗粉をまぶしてざっと混ぜる。ごま油をたっぷり目にフライパンに入れて、牛肉を炒める。あらかた火が通ったところでブナしめじを加えてしんなりさせる。仕上げ近くにきぬさやを加えて混ぜ合わせる。大皿にもって出来上がり)
梨木 香歩、2004、『家守綺譚』、新潮社 (新潮文庫)
明治のころ(らしい)の京都は疏水かいわいに亡くなった友人の旧宅に住まうことになった作家の不思議な霊体験にまつわる短編連作である。短編のタイトルには植物の名前がつけられている。霊として現れる友人や庭のサルスベリや居着いてしまった野犬のゴロー、隣家の主婦、山の和尚さん、はたまた、狸や狐、小鬼などの登場人物も違和感なく、ついつい、引き込まれてしまう。しばらくは、この著者の作品を読んでみようか。
この著者の作品を読むのは初めてで、しばらく前に書店で手にとって購入したもののしばらく忘れていた。読み始めると、一気に(といって、寝本なので数日はかかっているが)読んでしまった。一夜などはついつい、寝そびれるほどであった。
2009-06-26 00:18:56 |
読書 |
| Trackback ( 0 )
湯山 玲子、2009、『女ひとり寿司』、幻冬舎 (幻冬舎文庫)
友人に読むようすすめられた。本書の解説によると上野千鶴子のいわく、「グルメ談義と見せかけた最強のフェミ本」。
確かに、寿司屋は著者のいうように、客層にはほかの店種と異なる類型があるようだ。ましてや、本書のターゲットの「高級寿司」ともなると、接待や同伴、ステータスを意識した客、グルメなど観察の種には事欠かない。くわえて、著者の「女ひとり」というのは、寿司屋にとっても珍しい客層であり、他の客からしても目を引く対象であることは確実である。
わたしは、解説者の述べるほど「最強のフェミ本」とは思わなかった。むしろ、寿司屋の客の連れである女性という類型とのバトル(といって、著者が感じる女性客からのまなざしについての著者による解釈なのだが)が興味深かった「女の敵は女である」という、これまた、ありがちな感想を持ってしまったのだが、そうした状況に追い込まれていることそのものが、現代日本社会のジェンダーバイアスというべきであろう。それを指して「フェミ本」ということである、ということであるか。本書は寿司の名店の味についてのコメントも然り乍ら、同席するほかの客たち(当然、座るべきはカウンターである)の観察(現代日本社会の縮図となっている)についてのコメントも辛辣で楽しめた。
じつは、書評子は、著者が本書中で大学時代の個人的な出会い経験として紹介する甲南大学の卒業生なのだが、たしかに、友人の中に、いたいた。「女の子を退屈させない、ギャグ満載の話芸」をもち「自然とぼけ役と突っ込み役が決ま」る先輩後輩同級生!あいにく、当方はその手の芸は心得なかったが、しかし、一言付け加えると、同窓の連中には、好みはともかくとしても、結構その手の人材は多かったような気がする。むしろ、大阪人の類型のひとつなのではないか。だいたい、大阪人が2-3人もよれば、阿吽の呼吸で役回りを心得、レベルはともかく、会話は「吉本流」になるのは、当たり前のことなのだから。ガキの頃から、この呼吸がわからないとたいてい、仲間から相手にしてもらえない。というか、一方的に食い物にされるので、否応なく学ばなければならない護身術なんではある。
2009-06-25 23:19:53 |
読書 |
| Trackback ( 0 )
今夜はいっさい火を使わなかった。
鱧湯引きのキュウリソースと鯛の昆布じめ(キュウリをおろし、水分をしぼって、EVオリーブオイル、白ワインビネガー、塩胡椒、コリアンダーを加えてあえておく。大皿に火たたく広げ、鱧の湯引きを並べる。塩胡椒、EVオリーブオイルをかける。鯛の昆布じめを大葉を広げてのせる。塩胡椒をちらし、バルサミコを少々。飾りに、ミディトマトを四分して飾りで大皿に並べた)
ほうれん草ベビーリーフのサラダ(塩胡椒、ミックスハーブにバルサミコ酢、EVオリーブオイルでドレッシングを作る)
メゾンカイザーのバゲット・モンジュ
季節外れと思える鍋料理だが、先日の千里中央「梅の花」の再現、チェック!
豆乳しゃぶしゃぶ(昆布出汁に豆乳を加えてベースとした。用意した野菜は水菜とセリ。あと、絹ごし豆腐と豚しゃぶしゃぶ肉2種、バラ肉とロース肉。煮立ったところで、豚肉と野菜、豆腐を加えて、さっとあげて、塩ポン酢+赤唐辛子粉少々で食する。仕上げに、残り野菜を取り出し、冷凍庫にあったご飯を電子レンジで解凍して加えてほぐす。引き立ての黒こしょうとEVオリーブオイルをかけて食する)
一口かつ(豚ロース肉の一口カツ用の肉。塩胡椒、ミックスハーブをかけておく。溶き卵を通して、パン粉をつけ、180度でからりと揚げる)
添え野菜(ニンジン千切り、キャベツ千切りを塩ゆでして水分をしぼっておく。赤タマネギを半分に切って、薄切りして混ぜる。スパイスを入れた酢、グレープシードオイル、塩胡椒で味を整える)
もづくとジュンサイの酢の物(既製品だったのだが、消毒薬臭く、失敗)
赤タマネギは奈良の実家の庭先の畑でできたもの。先日送ってきた。
先日、生ワサビ一本ほか、ワサビを刻み込んだ、味噌やのり、わさび漬け、ワサビの軸の酢漬けなどをもらった。今日はそれを食べるということで。
刺身(おろしたての生ワサビで)
キュウリと山芋(ワサビ入りの味噌やのりで)
小松菜のおしたし
あおさと豆腐のみそ汁
日中、久しぶりに読書三昧。
夕方から買い物にでて、夕刻いつもの「浅野屋」へ。
海老フライ定食
ミンチボール定食
イベリコソーセージ
フライドポテト