昨年末両親の13回忌の法事をした。次は、17回忌のはずだが、それまでに「墓仕舞い」をして法事ではなく会食ぐらいにしたいと現時点では考えている。代々の祭事の継承ができなくなった以上、前の世代のことを次の世代がとりおこない、それで終わるしかないと思って時間がたってしまった。
朝鮮戦争の時の特需で特別ボーナスを得た父は、ちょうど私と入れ替わりに世を去った祖父とそれまでに亡くなっていた祖母の墓を建てようとしたらしい。祖父は愛知県の実家を出て以来いわば転勤族だったから、実家の墓に葬るわけにはいかず、あらたに墓を建てようとしたということのようだ。浄土真宗だったので東大谷の墓苑に一角を手に入れて墓をたてた。
わたしは、両親の死によってそれを承継することになったのだが、私自身離婚と先妻との子どもとの疎遠にくわえて、現在の妻とは子どもがない。順番としては私が墓に入ることになるだろうが、墓に入りたいとも思わないし、だれかがその墓を承継して行くとも思えない。
結論としては「墓仕舞い」の他、考えることができない。せめて、私自身のあとを残すとすれば、大谷祖廟の集合墓に加えてもらう他ないだろう。それは、もちろん、そのことは私のリビングウィルにくわえてあとに残ったものが考えることだろう。
本書は、日本の葬送の歴史を振り返り、地域による違いや先住民(アイヌや琉球)、外国人の事情も含めて現状の詳細が書かれている。特段方向性が示されているわけではないが、現状としては選択肢として葬送の現状の中から選ぶというこになるということなのだろう。
私の経験の中では祖父母や両親の眠る東大谷の墓地、大谷祖廟、祖母の実家の両墓制の墓地、沖縄のそれなど様々な葬送の形を実見し、知識としても持っている。とはいえ、自分自身の死後の望ましい姿を想像できるほど想像力たくましくはない。死後の私にとって自分の意思は働かせようがないと思うので「好きにしろ(どうせ、なるようにしかならないから!)」としか言いようがないと思うのだが。
第1章 私たちにとって「墓」とは何か ──
墓制史が教える日本人の死生観 — 縄文時代から歴史的に墓制の変化を紹介する。
第2章 滅びる土葬、増える土葬 ──土葬の現在 —
仏教伝来以来火葬が多かったとはいえ、諸般の事情(法律で禁じられていないにも関わらず、衛生の問題や埋墓の位置など)により次第に減りつつあるものの、モスレムなど宗教上の理由により土葬が必要となる現状もある。
第3章 捨てる墓、 詣る墓 ──消えゆく「両墓制」 —
土葬の場合埋墓と参り墓を分けていたが次第に一つの墓にまとまりつつあり、両墓制の伝統は失われつつある。
第4章 権力と墓 ──生き様を映し出す鏡として —
権力者の墓は大きいかというと時代によって異なる。会社墓などもある。
第5章 独自の意匠をもつ〝北〟と〝南〟の墓 ──奄美、沖縄、アイヌの弔い —
日本の多様性を示すものではあるが、次第に失われつつある。
第6章 生きた証としての墓、証を残さない墓 ── 骨仏 からコンポスト葬まで —
墓をもたない単身で都市に移住した住民の墓制として、骨仏やマンション形式の墓、更にはコンポスト葬まで多様な墓(作らないことも含めて)が生まれている。