South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
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Lake Griffin
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『アジア発酵紀行』(電子版)

 
Kindleに入れておくと、ついつい、読み続けずに読み忘れて時間がたつなんてことがある。本書など、今年1月6日にダウンロードして、おそらく読み始めているはずだが、半分ほど読んだところでつい忘れてそのままになってしまっていたのだが、つい数日前に気が付き、一気に読み上げた。本書は日本の発酵文化の起源を訪ねてユーラシア大陸の東南部各地、タイ北部、雲南省、ネパール、インドを訪ねた紀行である。

本書が取り上げる糀だが、本書を読んでいくうちに何が伝播してきたのだろうかと考えた。糀はコメなりなんなりのデンプンを含む穀類に菌をつけて発酵させ、様々な発酵食品、例えば、酒や味噌醤油の類、のスターターとするというものだ。本書では、雲南省あたりから東播した発酵文化が日本にいたり、西播したそれがインドのマニプール州やネパールに至る広がりが見られるということと、西に東に結ぶ発酵した茶葉を運ぶ少数民族を結ぶルートで結ばれているという。結ばれているとすれば、なにが結ばれているのだろうか。

昨今の紅麹問題もそうだが、微生物はどこにでもいるとはいえ、腐敗菌と発酵菌は紙ひとえというか、同じ菌の作用を人間にとって有用でないものを腐敗とよび、有用なものを発酵と言っているにすぎない。紅麹の問題は青カビが混入したということだが、現在のような工場生産の現場ですら混入(手違いか、意図的か、偶然かを問わず)という現象がおこってしまう。ということは、糀そのものが運ばれる途中に菌は次々と変わっていく可能性が高くなるのは不可避なのではないか。というか、それぞれの地方にいる菌に置き換わっていくことはやむを得ないと考えたほうが良いのではないだろうか。有用でないものがたまたま生成されれば、下手をすると摂取した人は健康を損ねたり事によったら死んでしまい、発酵文化の伝播はとだえる。あるいは、そういった経験を踏まえて技術が改良され伝承されていく。

見えないものを利活用する文化というのは、方法をまねぶだけで、はたして可能なのだろうか。同じやり方をしても菌が交代してしまえば、同じ結果を生むわけではないとおもうのだが。もちろん、日本の種麹屋のように、長い時間をかけて均一の糀を生産する技術にまで至ればよいだろうが、本書で記述されているようなケースでは菌を運ぶのではなく、目に見えない菌を利活用する文化が伝わるということではあるのだが、結果オーライの成果が各地の発酵文化といえばいいすぎだろうか。あるいは、フグ毒などを処理する調理法が生まれてきたように、自然科学的な知識ではなく、経験的に編み出された技術が目に見えないものの利活用に貢献したというべきなのだろうか。

いずれにしても、我々の体内に抱える膨大な種類と数の菌類との共生は、最近ますます重要視されるようになってきており、様々な発酵文化の再発見や見直しがなされていることをふまえれば、本書の発酵文化を訪ねて追体験することは、あらためて、菌との共生を再考できるだろう。

2024-08-17 16:33:00 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』(電子版)

 
藤原行成の「権記」、藤原実資の「小右記」、藤原道長の「御堂関白記」を読み解きながら平安貴族の日常を表現しようとする。
まず初めに平安時代の貴族たちの日記とは何か、子孫の栄達のために詳細な記録を残そうとしたもので、残された日記にはそれぞれの特徴が見られる。ただし、いずれの日記もすべての日取りが残されているわけではないこと、一方、自筆で残っているものが道長の「御堂関白記」であって、その筆致もまた記録として残されている。また、「権記」では、共通の目的に加えて個人的な夢や感情も記されている。「小右記」では、実資が長寿であったこともあって、長期間に渡る記録でもあること、さらには、儀式ごとに分類しようとする意図があったようで、実資自身もそれをこころみ、養子もそれを引き継ごうとしたために、かえって、散逸したともいえる。「権記」と「小右記」は後代の筆写本が残されているので、本人の誤記脱字であるのかそれとも筆写者の誤記脱字であるのかが不明である。こうした古記録をもとに平安貴族の考え方や疾病観などを読み取ることができることは大変興味深く読むことができた。

本書も、NHKの大河ドラマ「光る君へ」の副読本のように読み始めたが、双方相まって興味深い。読了したのは本書で2冊目だが、他にもまだ数冊のこっている。

2024-08-15 15:15:17 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『紫式部と藤原道長』(電子版)


本書は、古記録をもとに紫式部と藤原道長の関係を描いたものである。時代を追ってその関係が描かれるが、最大のポイントは、「枕草子」と「源氏物語」あるいは、清少納言と紫式部の対決、といったところなのではある。とはいえ、その対決の背後にあるのは、道長の摂関政治の完結に関わったということにある。
道長の兄の道隆が一条帝の后・皇后として送り込んだ「定子」の華やかなサロンは、清少納言の「枕草子」の記述によって「定子」の死後もその華やかさが語り継がれていた。それに対抗して、道長は娘「彰子」を送り込み、「彰子」の生んだ皇太子、天皇の外孫としての権力を講師することが狙いであった。ところが、「彰子」の地味なサロンを活性化するひつようがあった。そこで、紫式部を女房(おつきの世話役)として送り込んで、「源氏物語」を執筆させ、「彰子」への一条帝の寵愛を得ようとしたものであるという点にある。

ドラマでは紫式部は「まひろ」、清少納言は「ききょう」の名が与えられているが、史実はどちらも本名も生没年も不詳であることは知っておいてよいだろう。清少納言は、父の姓の「清原」から「清」、父の職位の「少納言」からとられた女房名である。紫式部は、清少納言にならえば、おそらくは当時は「藤式部」とでも呼ばれていたであろうが、「紫」については、「源氏物語」の「紫の上」の「紫」から取られているようで、存命中に「紫」と呼ばれていたと考えられる。

これまたNHK大河ドラマ「光る君へ」の副読本として、あまり知らない平安時代について知ろうとしたものだ。

2024-08-15 15:15:17 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『イタリア発イタリア着』(朝日文庫)

 著者は学生の頃卒論のテーマでイタリア南部のトピックを選び、そのためにはイタリアに行かねばならないとナポリで1年の留学生活を送った。それをきっかけに、イタリア南部を中心に根を下ろし、やがては、北部のミラノやリグーリア州で過ごすようになった。本書は8つの章に編まれているのだが、それぞれの章には複数のセクションがあって、内容的にはそれぞれが単独の小編となっているように思う。もちろん著者の意図があって編まれているのだが、あいにく読者のセンスが悪いのか、なぜこの並びであるか、読み取れないこともあった。とはいえ、べつにそれは大きな問題ではない。小編は単独で読んでもまとまりがあるのだ。また、それぞれの章に配されているとはいえ、時系列に従っているわけでもない。したがって、小編を読者は勝手に並べ直して、著者のイタリア遍歴の流れを読み取ったような気もしている。

2024-07-18 22:23:34 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『紫式部:女房たちの宮廷生活』(電子版)

 
本書を手に取ったのはもちろん、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」を視聴しているからで、自分自身のこの時代についての浅薄な知識を補うべく読んだ。他にも何冊か併読していて(本書のほか4冊)、このやり方も私の流儀ではある。

本書が最初に読了できたのは、紫式部自身について書かれた後、当時のエリート女性たちの職場としての宮廷での生活(タイトル通り)が中心に書かれていて、その生活が「源氏物語」そのものの舞台であることをふまえて、「紫式部日記」の読み解きと合わせて描かれていたからであろう。

紫式部はベストセラー作家として、他にメディアのない時代に政権の中心にいて、フィクションの形式を取りながらも、時代を描くというジャーナリズム的な発想があったように見える。もちそんそれは、今からの勝手な読み込みに過ぎないけれど、メディア論的に見れば、男性の「日記」にならぶ女性(作家は匿名なので男性も含む)の「物語」と並べてみれば、その重要性は「源氏物語」にかぎらず、この時代のメディアとしての「物語」にハイライトを当てるべきだろう。そして、とりわけ、「源氏物語」の物語性、作者の紫式部のタレントが光っていることも当然のことだろう。

2024-07-17 15:41:45 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『イタリアのしっぽ(集英社文庫)』

 
あとがきを読むとタイトルの理由がわかる。子供の頃、太平洋の洋をとって「洋子」と名付けた祖父と飼い犬とともに、須磨海岸に出かけたエピソードを書いている。海岸で海の向こうに行くのだと語った祖父の思い出と年を取って途中で歩けなくなり祖父に抱えられた飼い犬のしっぽ動きにちなんで、本書のタイトルがつけられた。本書に書かれているエッセイはいずれも動物にちなんだものとなっているからこのタイトルであることは確かだが、動物に絡んだいたイタリアの知人たちのエピソードとなっていて、イタリア人のステレオタイプとして持たれがちな、明るいあっけらかんとした性格とは異なる様々なイタリア人像を描き出している。

2024-07-09 20:42:44 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ボートの三人男(中公文庫)』

 

2024-06-28 11:23:43 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『アルテミス(上下)』

以前、『火星の人』(映画では「オデッセイ」)で知ったアンディ・ウィアーの第2作、今回の舞台は月面につくられた5つの「バブル」からなるアルテミスという腎高2000人の街、ケニアが建設し観光で成り立っている。主人公はジャズことジャスミン・バシャラというサウジアラビア人で6歳で父とともにアルテミスに移住して20年になる。『火星の人』の主人公マーク・ワトニーは一人取り残された火星で生き延びていくが、月面の街で暮らすジャズもまた自分に与えられたミッションを創意工夫で限られた知識で乗り切っていく。二人の共通項は楽天的で、与えられた困難なミッションを応用知識と技術をもっていること。
 
 

2024-06-06 16:18:10 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『失われたドーナツの穴を求めて』

 
面白かったが、読み始めたときから、動物はドーナツではないか、動物の話(生物学)はいつ登場するのかと読み進めていた。ところが、なかなか動物の話は出てこなくて、最後の最後に編者の一人の奥田太郎の「ドーナツの穴は存在するのか」の文末に登場していた。以下にその段落を引用しておく。

思えば私達は、産道という穴から生まれ、墓場という穴へと死にゆく存在である。また、私達は、食道という穴から食物を入れ、胃腸という穴でそれを消化・吸収し、肛門という穴から排泄をして生きている。ドーナツの穴に私達が見せられるのは、穴なくしては存在し得ないという私達自身の存在論的要請に促されるがゆえなのかもしれない[同書 p.207]。

そこにあえて異論を唱えるものではないが、若干補足しておきたいと思うのだ。奥田は食道、胃腸、肛門という穴をならべているが、口は穴とは呼びたくなかったのだろうか。どういうわけか食道から「穴」を始めている。なんでかな?
さて、生物の発生の機序から見ると口から肛門に至る「穴」は、受精卵が細胞分裂を始めて陥入を起こして細胞が三胚葉に分かれる段階で形成される。口から肛門に至る「穴」を構成する細胞は中胚葉由来であり、生物の外部を覆う皮膚細胞等は外胚葉由来であり、その間を充填する細胞(骨格や内臓や筋肉等)は内胚葉由来である。卵子が精子によって受精してから「個体発生は系統発生を繰り返し」単細胞から細胞分裂を繰り返してあるステージで陥入をおこし三胚葉になると人体はドーナツと化すのだ。動物は外部栄養を摂取することによって生存可能になるが、体内に形成された内胚葉由来の消化管という「ドーナツの穴」=外部から、内部に栄養を吸収することなしには生存できない。
本書で追求されるドーナツの穴に関する議論の重要なポイント、ドーナツの穴は食べることができるのか、あるいは、ドーナツとドーナツの穴の関係性(たとえば、ドーナツを食べ終えるとドーナツの穴も消滅する、まるでチェシャ猫のようなニヤニヤをのこして)についての議論に、この生物の発生からみた議論を加えると良かったと思うのだ。消化管というドーナツの穴は外部であって体内にある外部からいかに異物である食物に含まれる生存に必要な栄養を、吸収するかというのが生物の生存に関わるのであって、奥田の論の5節のタイトル「ドーナツの穴はドーナツに依存している」は「ドーナツはドーナツの穴に依拠している」と書き改めてはいかがと思うのだ。つまり、「ドーナツである人体にとってドーナツの穴は必須であってドーナツの穴なくして、ドーナツなし」、あれ、結論はやっぱりいっしょだったかな?!



2024-06-02 14:17:21 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『あなたの人生の物語』(短編集)

『あなたの人生の物語』、著者・テッド・チャン

寝本で読んでいたので時間がかかった上に、書き込みを忘れた。テッド・チャンの短編小説集。くわえて、途中で同名タイトルの映画(ビデオ)をみて、そちらの方を先にアップしてしまっていた。それぞれの短編ごとにコメントを書いているのでそのままに書き込むことにする。

1作目「バビロンの塔」はバビロンのバベルの塔の物語のようだが、空間が円環する物語。

2作目「理解」は昏倒してビタミンKを投与された結果脳が活性化されて超天才になった男、同様の治療経験によって脳が活性化された男との対決に臨むが・・・。

3作目「ゼロで割る」は数学者のカップルの物語ハーバード大学の数学者のレネーは「1=2」というこれまでの整数論ではありえない証明をなし得たという。パートナーのカールはそうした極限の思考に陥ったレネーの自殺未遂に立ち会ったこともあるが、この会話が彼女との接点の最後だと思う。

さて、第4作目が映画「メッセージ」の原作となった「あなたの人生の物語」だ。原作なので映画とは違うことは映画製作上あるいは脚本の展開上の変更だからそれはそれでいい。とはいえ、気になるので気がついたところをまずは記しておこう。

主人公ルイーズ・バンクスと事件の後結婚する相手の名前は小説ではゲーリー・ドネリーだが、映画ではイアン・ドネリーとなっている。
娘の死は25歳の折の登山中の事故のようだが映画では年齢は良くわからないがおそらく10代でがん治療のための脱毛と思しき症状で病床に横たわっていたので娘の死因は異なっている。
小説では宇宙からの飛来物は世界で112、米国には9機飛来しているとしているが、映画では12カ国に飛来となっている。
飛来物の形状は小説ではルッキンググラス(鏡、姿見?)と表現されていて、映画で表現されている巨大な卵型の形状とは色彩や形状とは大きく違う。さらに、小説ではこのルッキンググラスはテントで覆われ、物語はこの中で展開するが、映画では宇宙船の中に入っていく。
宇宙人、小説と映画とも宇宙人に名称はなく「それ」と表現される(小説、映画ともにヘプタポットとも書かれる。由来は、古典的タコ型宇宙人だが、7本足なのでヘプタ、ポットは足の意)。さらに、個体識別のための個人名が不明なので小説ではフラッパーとラズベリーと名付けるのだが、映画ではアボットとコステロとよんでいた。
ともあれ、ルッキンググラス越しのコミュニケーションでは文字による手法とすることになって、人間側もヘプタポット側もコンピュータと表示装置(モニター)を使っている。映画の方はルッキンググラスに吹き付けるようにして文字を描いていたが・・・。

液晶でもない、もちろん鏡でもないルッキングフラスを挟んで言語学者のルイーズは相手言語の理解を試みる。音声による会話を通じた言語分析では不十分と感じたルイーズは文字による対話を通して言語分析を行う方針に転じる。そして、音声言語についてヘプタポットA,表語文字とみなしたものをヘプタポッドBと名付ける。しかし、表語文字(ロゴグラム、logogran)ではなくすぐに、ヘプタポットの文字は表義文字(セマグラム、semagram)であるとみなす(表意文字(イデオグラム、ideogram)ではなく、表義文字としたのはどういうことか)。人類の言語では、数学における数式や音楽における楽譜がこれに当たるという(これは、従来表意文字とされてきたものであるはずだ)。表語文字を複数組み合わせて、誰が何をする(主語、目的語、動詞)を一文字で表現することができると考えた。
音声言語の場合は、時間に拘束される。始まりがあり、終りがある。それに対して図示言語(表義文字)は同時的もしくは共時的あるいはゲシュタルト的に表現が可能。統語(文法)はどう考えればいいのだろうか。

ヘプタポットとのコンタクトに関する物語は現在で、ルイーズ自身の視点で展開される。ルイーズはヘプタボット言語を習熟していくなかで次第に未来へのスコープがが拡大していく。作品の中では現在進行型の物語と、娘との未来の物語が交互に描かれる。翻訳の妙ではあるが文体の違いが興味深い。日本語では、未来は確定しているので「・・・でしょう」という語尾が使われる。ところが、小説はあくまでも現在のルイーズの視点で描かれる物語であるので、交互に現れる現在と未来のセクションはいずれも、現在形で表現される。それを翻訳では「・・・でしょう」という語尾で時間の違いが表現されていることがわかる。映画の映像表現としては、未来の映像として視聴者に見せる(あるいは、そのようなイメージを与える)ことになってしまうのでこれは、文字による表現と映像による表現の相違としても興味深い。
物語は娘の誕生のきっかけとなったゲーリーとの会話「こどもはつくりたいかい?」から始まり、愛がかわされ2年間の短い結婚生活のあとゲーリーとルイーズは別れ、ルイーズは一人で娘を育てる。冒頭の会話にたいするに対するルイーズの答え「いいわ」で物語は閉じられ、娘はふたりによってつくられ彼女の短い人生はルイーズによって物語られたのだ。

5作目は「七十二文字」
「七十二文字」について、全く基礎知識がなかったので読み終わってもよく筋が読めなかったのだが、作品中にある七十二文字がユダヤ教の七十二の神の名前であるとか、また、作品中に登場する「カバラ主義者」であるとか、また、「名辞」(原作ではnameなのだが、たしかに「名前」と訳されていると更に混乱したことだろう)を羊皮紙(とは限らないが、紙に書いて、オートマトン(自動人形)の首にあるスロットに押し込むと「名辞」(この場合はコマンドといったほうが良いか)に示されたように動作するとか(これは、ユダヤ教の神話上のゴーレム=泥人形)いったことがわかりはじめると腑に落ちてくる。ゴーレムは、ロボットやフランケンシュタインといったSF小説のキャラクターのオリジナルでもある。さらには本作品では、人類の再生産についての問題解決のために卵子に七十二文字を書き込むというストーリーも登場する。スチームパンクSFのように理解しながら(現代の科学技術とは異なる発展を遂げた代替科学技術の物語)読み進めていたが、ユダヤ教やゴーレム、カバラもくわわった物語となっていた。
この作品は名辞についての話になっていて、名辞という言葉は聞いたことはあったがあまり深く考えてはいなくかったが、アリストテレス論理学を名辞論理学というのだそうだ。Googleで検索するとこの名辞論理学を現代風の記号論理学に置き換えるという内容のページが多く見られる。とりあえず、色々とクリッピングしておく。

6作目は「人類科学の進化」
超人類が誕生して論文集は陳腐化している。超人類はDNT(Digital Neural Transfer)によって意思疎通しているが、旧人類はそれが理解できない。人類科学に関する論文集の編集者からに文章という体裁を撮っている。

7作目は「地獄とは神の不在なり」
両足が不自由に生まれたニールはその障害を気にしないセイラと平和な家庭を築いていたが、天使の降臨によってセイラを失う。一方、母親の胎内で降臨の影響を受けて足をなくして生を受けたジェシカは、神の試練あるいは恩寵として自身の障害を踏まえて布教活動を行っていたが、新たな降臨によって健全な両足を授けられてしまい、自身のアイデンティティに混乱を生じる。この両者が、天使の降臨がしばしば起きるという地域におもむく。ニールは天国に行ったセイラに再び出会うために。ジェシカは自身のアイデンティティの確認のために。新たな降臨に伴う雷撃によってニールは地獄に落ちてセイラとは二度とは会えないことになり、ジェシカは両眼を失い新たな聖痕をえたことになる。ジェシカに憧れ彼女とともにこの地にきて新たな降臨に立ち会って両者の聖痕を見届けたイーサンは、新たに神の恩寵についての布教活動を始める。
天災に出くわして身体の何処かを損傷した場合とか、不治の病(新生物によるものは生存確率が高くなっているが)にかかった場合、なぜ自分がそのような目に合うのか、なにか理由を考えたくなるものであることはあるだろう。東北大震災の際には石原都知事は「天罰」を唱えたが、誰が何に天罰を与えたのか、多くの人がそれに該当したのか、彼の説明では今ひとつよくわからなかった。ひょっとして、天変地異の知らせを受けて改元すると行ったことを連想したのかもしれない。この作品のひねったところは、こうした試練に続けて出会ったニールとジェシカのケースについて扱ったことだろう。また、こうした聖痕が自身のアイデンティティにどのように関わるかについて触れたことだ。

8作目は「顔の美醜について」
ペンブルトン大学で「カリー」の導入を巡って学生や教員などのコメントが並ぶ。「カリー」とは、脳内で反応するニューロンを特定しコントロールするニューロスタットと呼ばれる装置を用いてルッキズムすなわち容貌差別を制御するシステムをさす。主人公のタメラ・ライアンズはこのシステムをはずし、どのように容貌が見えかたが変わるか試す。結局は彼女はふたたび使い始めるのだが、要点は彼女を取り巻く人間関係がその装置を共有するかがポイントであることを知ったからだ。
この作品を読んで、作者が創作したのかと考えた相貌失認症どいう病態が実際に存在することを初めて知った、また、そのほか、人間のコミュニケーションに撮って重要な顔の徴候が認知できない失認症が実際に存在することを知った。前作品ともかかわるが、本来自身の相貌をアイデンティティとして認識できるかどうかがポイントなのであって、そこに他者との比較が生まれることによって問題が生じるということなのだろう。

この短編集の末尾には著者による各作品についてのコメントが書き込まれている。

 

2024-05-24 21:45:09 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『グレイラットの殺人』(ハヤカワミステリ文庫)

 
M.W.クレイヴン、2023、『グレイラットの殺人』、ハヤカワミステリ文庫

ポー&ティリーのシリーズ、第4作となる本作品。これまでの作品とおなじく、はじめのうちは関連がわからずやがてポー&ティリーが筋を見出したところでどんでん返し、その後も二転三転を繰り返すといったところは同じで、ペッドで寝る前に読むにはいささか、寝不足を招きかねない作品であった。これまでの作品と同じく、最後の10数ページはベッドではなく、起きているときに最後まで読み通した。

グレイラットというのは陶器製の小さな置物で、2つの事件現場に置かれていた事によっているのだが、背景となっていたのがアフガニスタン紛争におけるアメリカ軍によるイギリス軍の兵員輸送車への誤爆が絡んでいた。はじめのうちは、危険地帯に侵入してアルカイダのテロを受けたとされ、その事実関係が二転三転して事件の真相が深刻化していく。さらには、アフガニスタンなどの骨董品の売買、全滅したイギリス軍の分隊のメンバーの一人が臨時に配属されて、全滅のメンバーになってしまったことなどが次々と明らかにされる。

舞台となっているのはこれまでの作品と同じく、カンブリア地方である。その国際会議施設における世界的な重要メンバーの会議の開催という厳戒態勢の中、次々と事件が起きる。

読み終えて「解説」を読んでいたら、次作以降の案内(2023年には「The Botanist」、2024年春には「TheMercy Chair」が発表されるという)とともに別のシリーズがすでに出版されているそうだが、それが、リー・チャイルド原作の「ジャック・リーチャー」を意識したものだと記されていた。偶然に過ぎないが、ちょうど今日、TVドラマシリーズの「リーチャー:正義のアウトロー」(Amazon Prime、シーズン1〜2)を見終わったところだった。このドラマについては別に記すが、本作のシリーズを読み続けていたから「リーチャー」を視聴しようとおもったのだろうか?

2024-03-25 22:11:25 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『キューレータの殺人』(ハヤカワ文庫)

M.W.クレイヴンの「ポー&ティリー・シリーズ」第3作。
このシリーズはいずれの作品もどんでん返しの連続で面白いのだが、寝本にしている者としてはいささか悩ましい。ほんの少しの部分で新しい展開が出てくるので、本を閉じがたい。実に困った寝本なのだ。もちろん、それを好き好んで選んでシリーズ3冊目まで来たのではあるが。
本作では、ほぼ半分あたりのところで、一件落着のような情報が示される。それが、「Blue whale challenge」である。これは、ネット社会の必然とも言える現象で、つまり、ネットの情報の真偽の判断が困難である(その気になれば、明らかにできるがネットの本質を理解できていなければ、直近の情報を真実と思ってしまいがちといえる)。また、この問題は、不特定多数を対象としているので、確率的に一定の割合のユーザが反応すれば成立してしまい、そういった不確定性が犯罪の首謀者、チャレンジをしかけた人物を隠蔽することになる。主人公のポーとティリーが行き当たったのはこのチャレンジのバリエーションによって彼らが操作していた事件が引き起こされうるということであった。
ところが、突然ポーのもとにメロディー・リーなる左遷されたFBIエージェントから電話がかかる。彼女はワシントンDCでの事件の理解についてについてじょうそうぶと対立して左遷されていた。きっかけになったのはポーの出生に関わる事件であった。彼女が告げるには、ポーが見出した「チャレンジ」類似の事件ではあるがそこには意図的な殺人(あるいはターゲット)が存在する可能性があるのではないか、つまりは、共通の事件で、別の背景があるのではないかということであった。
例によって、本作も旧作と同様にどんでん返しが待っている。しかも、とりあえずは、読者にとって情報が与えられていないどんでん返しと言っておくが、しかし、よく考えてみるといくつかの伏線が置かれていることはわかる。しかし、その飛躍が刺激的に過ぎるのではある。
 

2024-02-26 22:04:58 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『絶滅する「墓」:日本の知られざる弔い』(電子書籍)

昨年末両親の13回忌の法事をした。次は、17回忌のはずだが、それまでに「墓仕舞い」をして法事ではなく会食ぐらいにしたいと現時点では考えている。代々の祭事の継承ができなくなった以上、前の世代のことを次の世代がとりおこない、それで終わるしかないと思って時間がたってしまった。
朝鮮戦争の時の特需で特別ボーナスを得た父は、ちょうど私と入れ替わりに世を去った祖父とそれまでに亡くなっていた祖母の墓を建てようとしたらしい。祖父は愛知県の実家を出て以来いわば転勤族だったから、実家の墓に葬るわけにはいかず、あらたに墓を建てようとしたということのようだ。浄土真宗だったので東大谷の墓苑に一角を手に入れて墓をたてた。
わたしは、両親の死によってそれを承継することになったのだが、私自身離婚と先妻との子どもとの疎遠にくわえて、現在の妻とは子どもがない。順番としては私が墓に入ることになるだろうが、墓に入りたいとも思わないし、だれかがその墓を承継して行くとも思えない。
結論としては「墓仕舞い」の他、考えることができない。せめて、私自身のあとを残すとすれば、大谷祖廟の集合墓に加えてもらう他ないだろう。それは、もちろん、そのことは私のリビングウィルにくわえてあとに残ったものが考えることだろう。
本書は、日本の葬送の歴史を振り返り、地域による違いや先住民(アイヌや琉球)、外国人の事情も含めて現状の詳細が書かれている。特段方向性が示されているわけではないが、現状としては選択肢として葬送の現状の中から選ぶというこになるということなのだろう。
私の経験の中では祖父母や両親の眠る東大谷の墓地、大谷祖廟、祖母の実家の両墓制の墓地、沖縄のそれなど様々な葬送の形を実見し、知識としても持っている。とはいえ、自分自身の死後の望ましい姿を想像できるほど想像力たくましくはない。死後の私にとって自分の意思は働かせようがないと思うので「好きにしろ(どうせ、なるようにしかならないから!)」としか言いようがないと思うのだが。

第1章   私たちにとって「墓」とは何か ──
墓制史が教える日本人の死生観 — 縄文時代から歴史的に墓制の変化を紹介する。
第2章   滅びる土葬、増える土葬 ──土葬の現在 — 
仏教伝来以来火葬が多かったとはいえ、諸般の事情(法律で禁じられていないにも関わらず、衛生の問題や埋墓の位置など)により次第に減りつつあるものの、モスレムなど宗教上の理由により土葬が必要となる現状もある。
第3章   捨てる墓、 詣る墓 ──消えゆく「両墓制」 — 
土葬の場合埋墓と参り墓を分けていたが次第に一つの墓にまとまりつつあり、両墓制の伝統は失われつつある。
第4章   権力と墓 ──生き様を映し出す鏡として —
権力者の墓は大きいかというと時代によって異なる。会社墓などもある。
第5章   独自の意匠をもつ〝北〟と〝南〟の墓 ──奄美、沖縄、アイヌの弔い —
日本の多様性を示すものではあるが、次第に失われつつある。
第6章   生きた証としての墓、証を残さない墓 ── 骨仏 からコンポスト葬まで — 
墓をもたない単身で都市に移住した住民の墓制として、骨仏やマンション形式の墓、更にはコンポスト葬まで多様な墓(作らないことも含めて)が生まれている。

 

2024-02-21 14:47:31 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『地下生菌識別図鑑』(電子版)

生態系のなかの微生物そのものおよびその生態的地位について興味を持って(素人的に)ざっくりした情報を集めているが、本書も一つ。地下生菌とはキノコの仲間で、よく知っている地上に姿をあらわし傘を開いて胞子を飛ばして世代交代するキノコとは生態が異なる菌類のことをいう。
オーストラリアの知人にオーストラリアで自生するトリュフを見つけて(イヌをつかって探る)ビジネスにしようとしている男がいるが、日本でもトリュフがありそうだということが、本書でも明らかになる。ただし、発見したものが食用になるんおかどうか、本書では触れられていないので、おいそれとは口にはできないのだけれど・・・。
日本では松露という地下生菌が古くから知られていて、トリュフもその仲間であるとは知ってはいたが、オーストラリアで知人からその話をきいても、日本にもあるとは思ってはいなかった。


 

2024-02-17 19:24:08 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船 (ハヤカワ文庫JA)(電子版)』

 
日経新聞夕刊の2023年を回顧した書評(12月13日付)で小谷真理が1位に上げていて読んでみることにした。小谷が「ボーイ・ミーツ・ガールのSFロマンス。一見ライトノベル風の体裁と見えるが、実は、量子宇宙論にまつわる、真に骨太なSF」と書いていて、それにつられて早速購入したものの、「ラノベ」の乗りかと思えてしまい、なかなか読み進めることがなかった。

作者の作品は、実は読むのは2冊目であることに途中で気がついた。このブログの下書きの「2015-06-22」の項に作者の『カラマーゾフの妹』があった。読み終えたから「下書き保存」したはずだが、何も書いた形跡がなく、宙に浮いていた。どのような感想を持ったのか、まったく記憶にないので、少し残念なのだが、しょうがないだろう。

パラレルワールドものだが、2つの世界の交錯ぶりが興味深く読めた。主人公の夏紀と登志夫が、ほのかに思いを寄せる幼馴染のようでもあり、実は2つの世界の焦点であるという設定がよかった。それが故に、夏紀は分身を守るために(じつは、自分を守ることにも通じる)自分の属する世界の消滅を選んだのだ。また、設定として、コンピュータ技術や宇宙開発が2つの世界で微妙に大きく異なるというポイントも興味深く読むことができた。どのような、きっかけで、異なる未来につながるかもしれないという、リアリティを感じることができた。

作者も「あとがき」に書いているが、もちろん、Google Mapsをつかって、舞台となった土浦の地名などを検索しながらみたし、「ツェッペリン飛行船」についても、Google検索しながら読んだ。最近の読書は、たとえ、フィクションであっても、現実の地名や史実が登場するほうが楽しく思える。


2024-01-22 22:05:48 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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