侵略者シングによって支配されるようになった「地球」にやってきたフォーク。とはいえ、それは、あとになって知られることで、シング侵略の歴史はすでに1000年以上に及び、異星人の戦略者であるのか、それとも、優しき支配者であるのか、その歴史も含めて謎に満ちている。フォークと名付けられた彼は記憶を失い地球の人々によって保護されたものの、保護された社会から認めらるわけもなく、自分とは何かを求めて西へと向かう。
やがて、シングの町エス・トックにたどり着く。そこで、シングによってフォークとしての記憶を消去する代わりとして、かつての母星のウェレルからやってきた宇宙船の宇宙航行士としての「ブレット・ラマレン」としての記憶を回復する記憶操作を受けることを提案される。フォークは過去の記憶をなくしたのか、それとも、なくされたのか。過去に何があったのかをめぐる物語となっている。
本書を読むにつれて、ル・グィンの父人類学者のアルフレッド・クローバーのもとに連れてこられ、最後の生き残りとしてカリフォルニア州立大学バークレー校の博物館で余生を過ごした、ヤキ・インディアンの「イシ」のことが思い出されてならなかった。ル・グィンは、イシにあったこともないし、イシの評伝を記した母のイシドラもまた、同様であったが、この作品にはその影があるように思えるのは考えすぎか。それは、記憶と自己との関係である。
地球の先住民の「ソブの館」の人々のもとに現れ、彼らの生活を覚えていったフォーク(という名前のイシ)ととらえるのか、それとも、自己の記憶を求めてシングの町のエス・トックにたどり着いたフォークとしてとらえるのだろうか。そして、フォークとブレット・ラマレンの二つの自我をもつ彼であるがゆえに、シングの罠(宇宙航行士としての知識を復活させようとする)から、脱して故郷への宇宙船を奪取することに成功するのだが、いわば、二重の人格がそれぞれ、「心話」(テレパシー)の能力をつかいわけて、シングをコントロールするのだ。
たったひとりの生き残りの「イシ」は「文明社会」にあらわれて、かれの「文化」を語り残す事になったのだが、この物語の構造複雑に入り込んでいる。フォークたちは、人類が宇宙に拡散していったあとのウェレルという母星から、人類の故郷の地球にやってくるが、そこは異星からの侵略者シングによって支配されていた。侵略者シングはウェレルへの道を知るためにフォークことブレット・ラマレンを操作しようとして失敗し、結果としてフォークは、見知らぬ旅人として地球の土着の人々のところにたどり着く。つまり、フォークは異邦人でもあり、同時に、系譜を共有する人でもあるという矛盾に満ちた存在でもある。イシはいわば、文明によって忘れ去られた世界からやってきた異邦人であると同時に、文明が忘れ去った本源からやってきた人でもあるとでも言うべき存在なのだ。本書はそうした読み方も呼ぶような気がするのだが、穿ち過ぎだろうか。