ラタトイユ(人参、セロリ、タマネギを薄切りにして、ニンニク、赤唐辛子を炒めてかおり出しをしたオリーブオイルで炒める。なす、エリンギ、トマト、オクラ、カラーピーマンをくわえて、塩こしょう。無水鍋でにる。野菜の甘みとうまみが出てよし)
セルバチコのサラダ(パルメジャーノの薄切りを加えて)
豚ロース焼きと赤タマネギ(しょうが焼き用の豚ロース肉に塩胡椒し、フライパンで両面を焼く。油を入れる必要なし。あらかじめ薄切りにして大皿に広げておいた赤タマネギに広げる。塩蔵わかめをもどして添える。レモンをかけて、豚を赤タマネギとともに食する)
ほうれん草のおしたし
豆腐の納豆汁
小島 毅、2008、『足利義満 消された日本国王』、光文社(光文社新書)
本書でなるほどと思えた点は、天皇制が日本に長く根付いているとはいえ、その権威の所在について、対外的な視点で考えてみると、別の見方で見えてくるということであろうか。
本書の場合、中華帝国を中心とする朝貢システムのなかで、周辺国はどのような態度に出ていたかに注目して、そのことを利用して国内覇権も掌握しようとしたのが、足利義満で、今少しのところまできていたが、その死で野望は潰える(本書の著者は、暗殺されたというアイデアを提示する)。さて、外交関係と、国内問題は異なっているということがキーである。江戸時代の朝鮮通信使を接待する、対馬の宗家(朝鮮と日本に両属する)による国書偽造問題が、別の姿であろうか。内外に異なる国書をしまして、宗家の立場を維持しようとする。さらには、義満のように外交関係を利用して、覇権を獲得しようという戦略をとるかである。
本書の著者は中国思想史の専門家で、正閏説をとる朱子学ののべる易姓革命のシステムと天皇位の継承システムの相似性を指摘し、義満は、朱子学を理解して、その手法を利用したという。朱子学は後に幕末明治維新の際に、天皇制復古の思想的背景として利用されたものではあるが、その解釈いかんによっては、簒奪の思想もあり得たことを指摘する。
足利義満のほかには、織田信長がこの辺りのからくりをよく理解していた人物ではあろうし、また、逆に覇権を握ることなく実権を掌握しようとした、秀吉や家康、さらには、明治の元勲らも同じ穴の狢かもしれない。
それと、もう一つ、興味深く思えることは、天皇の権威がどのようなものであったか、明治維新以降の政治教育によって、過去の姿があまりよく見えないが。おそらく、天皇は、庶民にとって、いや、おそらく、武家にとってみても、さほど権威があったものとは思えないという点が、本書で描かれる義満による天皇位の簒奪の背景ということなのではないかという点である。
うちの親戚からきいたはなしでは、関東の天領の住民による明治初年の将軍(公方さま)と天皇(天皇さん)のどちらが偉いのかという実感は、おそらくは、「さま」と「さん」の違いでもわかるように、将軍の方が偉く感じられていたようである。
2008-07-29 23:49:32 |
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栄ラシック「麻布ダノイ」(イタリアン)(ヒシコ鰯のフリット、第四胃とほうれん草の煮込み、ジェノベーゼ、オリーブとウズラ肉のパッパルデッレ、タイのグリル瞬間蒸し野菜、子羊背肉の瞬間薫製。ドルチェ各種)
今日は、勤務で出勤。
ビーフカレー(牛すね肉シチュー用をオリーブオイルで炒めて焦げ目をつけ、タマネギ薄切り、人参薄切り、セロリ薄切りを加えて炒める、しんなりしたところで赤ワイン少々と水を加えて、牛が柔らかくなるまでに込む。カレールーを加えてとろみをつけて出来上がり。別にゆでたジャガイモとブロッコリーをそえて)
ねばねば(オクラをゆでて小口切り、長芋を拍子切り、納豆)
白飯
今日の午後は、京都西京区で研究会。奈良の実家からは、近鉄と京都市営地下鉄の直通運転の急行と阪急を乗り継いで約1時間45分ほどで到着。
午後2件の発表を聞いて、夕刻、嵐山に移動。京料理を食して、そのあと嵐山の鵜飼船に乗って、鵜飼を見物。これがセットになっていて、6000千円ほど。とてもお得。
先頃まで鵜匠だったという船頭さんの話によると、嵐山の鵜飼は、観光で実際に漁をしているわけではなく、鵜がとってくる魚は、鵜の食欲を満たすほどの量はなく、鮎もほとんど取れないという。空腹を満たすために、飛魚の切り身をやっているとか。一年75日ほどの営業とか。
今夜は風があまりなく、あまり涼しくなかったが、それでも、船に乗っているだけでも、気持ちがよかった。
京嵐山「錦」(ごま豆腐、稲庭うどん、刺身、鮎の塩焼き、賀茂茄子のそぼろ仕立て、玉蜀黍雑炊)
京嵐山「錦」:http://r.gnavi.co.jp/k007700/
奈良の実家に帰ってきた。周りに木が多いせいか、名古屋よりも涼しい。
ゴーヤーチャンプルー(ゴーヤーを薄切りして塩もみして、塩分を取ってから使う。豚薄切り、エノキダケ、木綿豆腐、とき卵)
キュウリとわかめの酢の物
鳥砂肝の煮付け(生姜と山椒、日本酒と濃い口しょうゆで)
枝豆の塩ゆで
豚ロース肉、しょうが焼き(フライパンにごま油をしいて、豚ロース肉を焼き、モヤシとニラ、えのき茸を加えて炒める。おろし生姜、薄口醤油、日本酒、唐辛子粉を加えて蒸し煮にする)
ゴボウ天、ショウガ醤油で
湯葉、山葵醤油で
豆腐とえのき茸のみそ汁
今日は誕生日、57歳。若い頃からすると、このような年齢まで生き延びるとは到底思えなかったのではあるが、しかし、しょうがない。おかげさまで、両親も90歳を超えて健在で、奈良で暮らしている、とてもありがたい。
お祝いに家内からワインを二本、飲み比べしてみた。
Vorne-Romanee 1996 Domaine Paul Misset, Nuits-Saint-Georges, Cote-D'or
Chateau d'Armainlhac 1998 Gran Cru Classe, Pauillac, Baronne Phillipe de Rothschilds
最近このクラスの銘柄飲んだ事がない。おいしかった。いつもは千円ワインだけれど。
で、
牛ランプ肉のステーキ(あらかじめランプ肉に塩胡椒しておく。フライパンに、オリーブオイルをしき、ニンニクの薄切り、赤唐辛子を入れて香りだし。無塩バターを入れて溶かし、ステーキ肉を入れる。片面を十分に焼いてかえす。泡がでてきたらこれをかけながら肉を焼く。あまり火が通らないうちに仕上げ。ニンニクの唐揚げを添えて。また、添え野菜として、茹でたインゲン豆とオクラをそえて)
サラダほうれん草とブロッコリースプラウト、ミニトマトのサラダ
田中 利幸、2008、『空の戦争史』、講談社(現代新書 1945)
もうすぐ、広島長崎の日が訪れる。本書を読んで、改めて、その日の人類史における意味を考える必要があるだろう。淡々とした事実の書き連ねが、次第に、読者を、著者の思いに引き寄せるであろう。
本書は、航空機の誕生以前からの空の乗り物と戦争との関係について、描いている。平面の戦いが立体的な戦いへと戦争が変質したのは、気球による上空からの偵察に始まり、爆弾の投下および空中戦へと変化し、乗り物も、気球から、飛行船、そして、航空機へと変化してきた。
そもそも空中から地上への爆弾の投下は、航空機の空中での姿勢や投下高度、気象(風雨)などによって、目的への正確な投下となるかどうかが決まるという、非常に不確定な要素が存在する。爆弾に推力をあたえて、独自に目標を設定することが可能になれば、多少は、リスクが減るとは言うものの、現代の巡航ミサイルでさえも、正確に目標に到達するかどうかは、なかなか大変なようだ。誤爆というのは、果たして、正確な意味で誤りであるのかどうか。
本書で繰り返し描かれるのは、あり得ない「精密爆撃」戦術と敵を殲滅させるための無差別爆撃が、実は裏腹な関係にあるということである。つまりは、ピンポイントに目標に到達させることは困難であって、様々な事情で、つまり、気象や搭乗員の都合などで、精密さは恣意的にゆがめられるし、そもそも、精密爆撃とは何だろうか。
戦闘員同士が戦い合う戦場への攻撃ではなく、背後の補給基地や補給路、さらには、武器生産拠点などの存在する敵国に爆撃をすれば、そもそも精密ではない爆撃は否応なく、非戦闘員を巻き込む無差別爆撃に転化する。さらに、そうした爆撃が、敵の闘争心を萎えさせるといった予測が、無差別爆撃戦略を補強する。
原爆もまた、そうした延長線に存在する。本書の優れたところは、原爆の被災国である日本の被害者意識を超越した線に、読者を誘うことであろうか。つまり、まずは、原爆は特別なものではなく、無差別爆撃戦略に包摂され、そして、無差別爆撃戦略は、爆弾を投下する者に対して、直接的な実感を与えることがない故に、また、同時に、無差別爆撃戦略が戦争の終結を早める結果に結びつくという言説が、爆撃のボタンを押した者に加害者であるという意識のいっぺんも呼び起こすことがない。同時に、指揮官もまた、崇高な目的のために爆撃を命じたという意識を呼び起こす。
被害者の側もまた、そうした状況を顧みることなく、被害者であることをいい募りがちとなる。こうした、双方が全く異なるあい混じり合うことのない論点のままでは、何もすすむことはない。著者は、「広島平和記念資料館」の展示も、十分ではないという。「自己の被害者体験から他者の被害者体験へと倫理的想像力を働かせ、他者の痛みを自分自身の問題としてとらえることによって記憶の共有が生まれ、また同時に、そのことによって自己の加害者体験、あるいは加害者になる可能性への自己批判力が生まれる。その結果、自分の体験が平和構築に向けての力強い想像力を生み出す源になる」と述べる。
太平洋戦争においては、日本は原爆の被災国であり、無差別爆撃の被害者であった訳ではあるが、同時に、中国や東南アジアにおいて、様々な爆撃(攻撃)をおこない、多数の犠牲者を生み出した加害者でもあるのである。この同時性への気づきが大切なのだ。以前、シベリヤに抑留された香月泰男についての著書について書評したときに述べたが、被害者であり同時に加害者でもある。あるいは、被害者になりうると同時に、加害者にもなりうるということへの気づきが、きわめて重要であると思う。
読書と夕食:シベリア鎮魂歌:香月泰男の世界:http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/9134c197983ade07776b0ad7e8e5f108
2008-07-22 23:52:34 |
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野菜の蒸し煮(ブロッコリー、ズッキーニ、トマト、エリンギ、オクラ、グリーンアスパラを好みに切って、フライパンにニンニク、赤唐辛子、アンチョビーペーストを入れてオリーブオイルで香りを出したところに加えて、よく混ぜて、オリーブオイルをなじませる。塩胡椒を加えてふたをして蒸し煮にする)
数日前のビーフシチュー、暖め直し。
前日、高山のキルノンチュエでくれた球状のズッキーニを料理しようということで、トライアル。
ズッキーニの肉詰め(タマネギ薄切り、人参とセロリを細かくきる。豚肩ロース肉を拍子木状に切る。フライパンに、ニンニク荒みじん切りと赤唐辛子の小口切りをオリーブオイルでいためる。塩こしょうとミックスハーブで味付け。あらかた火が通ったところで、肉詰め用を残して、残りをオーブンの天板に広げて、赤ピーマン薄切り、ジャガイモ、人参などをのせて広げる。肉詰め肉用をシナモン、ナツメグ、チリーパウダを加えて、味を濃くする。ズッキーニのへたを、ふたになるように、大きめに切り、中をスプーンでくりぬく。肉を入れる。グリーエールチーズをさいころに切ってのせ、ふたをする。天板にのせる。焼き上がったところで、サラの中央に肉の入ったズッキーニ、周りに、天板で焼いた野菜や肉をあしらう。本当は、250度で1時間だったかもしれないが、ちょっと短かったので、ジャガイモが、まだ固かった)
今日は、ドライブ。
東海北陸縦貫道は全通した事もあって、渋滞。行きも郡上八幡から10数キロ。帰りも、ひだ大和から10数キロの渋滞。おまけに、一宮JTと一宮ICの間で事故とあって、岐阜各務原でおりて、名古屋高速に乗り継ぐまで下を走った。いやいや、ちょっと、まずいルートではあった。遠くとも中央高速から松本経由の方がよかったかも。どうかな?
昼食は荘川村の蕎麦街道。「蕎麦正」と「式部の庵」をはしごをした。それぞれ、悪くはないが、今ひとつ。「蕎麦正」は蕎麦は細身でなかなかなのだが、香りが薄い。また、出汁も醤油がとんがっていて、ふくらみがない。「式部の庵」の十割蕎麦三種もりをためしたが、細打ちが香りがよいものの、ぶつぶつちぎれていて、素人臭い。太うちは、ごりごりすぎて、一部火が通っていないような感じ。出汁は、まあそんなものかではある。
これはこれで、悪くはないが、それでも、いまいちかな。
その後、久しぶりに「キュルノンチュエ」でソーセージ各種とベーコンを買う。お店では、この店の商品と高山の「トランブルー」というパン屋さんのフランスパンを添えて食べさせるようになっていた。
そこで、「トランブルー」をチェック。以前、友人から、この店(だろうとおもう)の噂を聞いていた。あいにく、バゲットはなかったが、バタールなどを買ってくる。
そして、今晩は、冷蔵庫にあった江南の畑のトマト、バジル、ルッコラでサラダを作り、バタールを焼き、「キュルノンチュエ」の各種ソーセージを食べ比べ。久しぶりにおいしかった。
ソオスィソン・フュメ・セック:腸詰め
ソオスィソン・ア・ラ・サンドゥル:灰かぶり
ソオスィソン・セック・フルール・ブランシュ:白カビ
チョリソ・セック:チョリソー
フェゲティーノ:レバーの腸詰め
キュルノンチュエ:http://www.westsho.jp/kiyomi/curnontue.html
トランブルー:http://www.trainbleu.com/
蕎麦正:http://www4.ocn.ne.jp/~misima/sobasyou.htm
式部の庵:http://www.allhida.jp/cgi-bin/site-db/show.cgi?d_id=000972&s_mode=