今日は朝から遠出のドライブにでて、帰りも遅くなったので、夕食は浜名湖SAでのうどんになってしまった。
最近、高速のSAは施設が良くなっているけれど、どことも同じ顔をしている。ご当地の土産物、ご当地の名物料理もたくさん並べられているのだけれど、値段も事もあるし、また、移動途中と言うこともあって、利用者の財布も厳しいのか、めぼしいものはないようではある。今夜のわたしはまさにそれで、まあ、うどんでも、となった次第。だから、高速SAの批判をしようと言うものではない。
その前、富士川SAで生桜エビと塩ゆで桜エビの冷凍というのを買った。帰宅して冷凍庫に入れようとあけてびっくり。50グラムほどのものが2パックしか入っていなかった。それで税なし千円だった。近所のスーパーで購入したら、塩ゆでで50グラムが200円くらい(だったと思う)だから、結構割高な買い物となった。もちろん本場物だし。生はこちらでは手に入らない。
帰宅して、早速、「生」の方を賞味してみた。ほのかな塩味。スダチをかけて、ワサビ醤油で食べると、なかなかいけました。スーパーの価格からすると、高い様だが・・・。でも、おいしさと、満足度で、一票入れておきます。
11月1日、桜エビに関する紹介ウェッブを見つけたので、以下にリンクを用意しておく。
http://www.jf-net.ne.jp/jf-net/column/2003/02_yuikou/01_yuikou.html
http://www.jf-net.ne.jp/soyuikougyokyo/
タイ風グリーンカレー(冷蔵庫に残ったエシャロットとレモングラス、ショウガを刻み、グリーンカレーペーストとともに油で炒める。シチュー用の牛肉もあわせて炒め、タマネギ、ジャガイモ、ピーマン、オクラを入れ、さらに炒め、ココナツ・ミルクを入れ、煮込む。ナンプラーで味を調える)
タイ風アサリのスープ(単なるあり合わせ。湯を沸かし、レモングラスとショウガを入れて香りを付け、ナンプラーで味を調える。塩味が不足しているなら、好みの塩をいれる。味を調えたところで火から下ろしてさまし、食べる直前にアサリを入れて沸騰させる。アサリを堅くしないため)
インディカ米のご飯
このあたりでいつも行くのは四つのスーパーだが、それぞれにすこし特徴がある。以前松坂屋ストアは、様々な食材が整い、ドンクのパン屋(そこで焼いていて、懐かしくもあり、また、美味しかった)もあったのだが、競争相手ができてポリシーを代えたのかどうか、とにかくパン屋はなくなり、品揃えも代えたようだ。フランテという店は、ちょっと高級という線をねらっている。以前の松坂屋ストアとも違った品揃えで、パン屋もある。しかし、ここは、ライセンスの加減で酒をおいていない。また、パン屋も今ひとつ気に入らない。名鉄パレもある。面積的にはここが大きいが、品揃えがここが一番庶民的、何か変わったものを探そうと思うとないのだが、魚介類が整っている。ハロードゥーというのは離れているが、これこそ高級食材スーパーでとにかく高いが何か思いがけないものが置いてあったりする。
この四種類の店舗、実は一長一短なのだ。酒の販売に違いがあり、並べている商品にも違いがあって、目指すものを買おうと思うと、はしごをすることにもなる。何とかならないものかと思ってしまう。
鴨せいろ(神田藪をまねた「かもせいろう」、といいたいところだが、そこはそこ、愛嬌で!。まず、ダシを用意する。昆布とカツオと椎茸。できあがったダシに日本酒と濃い口醤油を入れ、味を調える。グリルで焼いた筒切りの白ネギと鴨の切り身をダシに入れ、わかさない程度に火をとおす。今夜は、韃靼そばと戸隠そばをゆでて、ざるに盛って用意した。薬味に三つ葉。スダチ。山椒。七味)
金時草のおしたし(金時草をゆがき、ごまとカツオ節粉であえ、濃い口醤油とミネラルウォーターを合わせて味を調えたもので味を付ける)
チーズとナッツのサラダ、トマトサラダ
鴨のコンフィ、メンチカツ
夕方、会議があって、疲れたので、外食。いつもの浅野屋さんは頼りになります。
多田眞作、2004、『理系のためのMacで始める研究生活:レポート作成から学会発表まで』、講談社ブルーバックス
昔からこの手の「ハウツー本」が好きである。これまで、目につく限り(すべてではないにしても)買っているのではないか。これは、学生や大学院時代、まだ、パソコン以前の頃、「京大式カード」やら「KJ法」にはまった経験、これ以来、癖になっている。こうした情報あさりは、決して無駄ではないと思うけれど、最終的なところは、どの程度定着するかと言うことではないかと思うと、次から次へとあさってみても、しょうがない。しかし・・・。
コンピュータがパワフルになり、かつ、ある種の「ユービキタス」な状況になって、「ハウツー」というのは結局のところ、自分の選択あるいは好みの問題で、これが優れていると言うことではないのではないかと思う。
本書は、できるだけ「フリーウェア」や「シェアウェア」によって、グラフィックな処理のできるマックを構築しようと言う。わたしも実のところ、過去10年以上のマックフリークで、LCシリーズや古いPBシリーズを愛用してきているのだが、最近、特に感じるのは、ウィンドウズとの互換性である。マイクロソフトの陰謀といってしまえば実もふたもないが、それにしても、特定のソフト以外は、それぞれが、独自性を発揮していて、互換性のことが気になる。
もちろん、先に述べたように、わたしがマックを使い続けているのは心地いいからなのだが、実のところ、ウィンドウズとの互換性が維持できなければ、ウィンドウズユーザとの間での互換性が維持できず、データのやりとりに問題を抱える。この点、最近、アップル社の方がずいぶん歩み寄った気がする。あるいは、マイクロソフトが歩み寄ったのか。たとえば、ウィンドウズ・オフィスは、マック版を開発してもらったわけだし・・・。今のところ、贅沢を言わなければ、それでよいが、なかなか難しい。
今の悩みは、来年度、マックのノートを購入しようかどうかだ。無駄なことのようにも思えるが・・・、どうだろうか。
2004-10-28 09:11:31 |
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カワハギの煮付け(日本酒を鍋に入れ、わかして火を入れてアルコール分を燃やし、醤油で味を付ける。ショウガ、トウガラシを入れる。ささがきゴボウ=ゴボウを筒切りにして包丁で叩くのがよいが、代用。本当は昆布をダシにするが入れるのを忘れた。カワハギのみを入れて、落としぶたをし、10分ほど煮付ける)
菜花のごまと和辛子和え
昨夜のイモ煮ののこり(煮物の常かもしれないけれど、十分に込めなかった分、二日目の方が味がしみて美味しい)
今日は、夕方に会議で買い物を終えて帰宅したのが19時半近かったが、8時15分には食べ始めることができた。
瀧浪貞子、2004、『女性天皇』集英社新書
飛鳥から奈良にかけての時代、天皇家では数多くの女帝を戴いた。その理由について、皇位継承法を読み解くことによって明らかにしようとした。この時代は、皇位継承法が嫡子相続へと定着していこうとする時代であったという。そのてん、江戸時代の女帝に関しては、著者の意図するところとは違うとして、本書ではふれられていない。また、著者も書くが、ジェンダー論の立場から女帝の時代を読み解こうとする試みは、あまりにも現代的な視点に傾きすぎている。その時代の女帝観が明らかにされることが望ましいであろう。
記紀神話の時代については資料として扱わず、その後の応神・仁徳の時代から、奈良にかけての皇位継承法は兄弟継承であった。仁徳の息子たち履中・反正・允恭、それを引き継ぐ允恭の息子たちの安康・雄略、継体の息子たち安閑・宣化・欽明、さらには、欽明の息子たち敏達・用明・崇峻。これらは、いずれも、異母兄弟も含め父から引き継いだ皇位を兄弟で相承してゆく。また、皇位は皇族たちの合意の元に行われていたという。しかし、これらの時代、天皇の存命中に皇太子が定められていればよいが、さもなければ、すんなりと相続できたとはいえない。かならず、ここには血なまぐさい権力闘争が存在したのである。
こうした中、次の世代に順調に皇位を相承させるためのシステムとして女帝が機能したというのが著者の主張である。すなわち、皇太子が定められていない場合、女帝が皇位を継ぎ、次世代に橋渡しをするというのである。こうしたの最初の女帝が推古であった。崇峻が皇太子を定めぬまま死亡した後、兄弟相承ならば継承権を持つと主張する穴穂部は反旗を翻し、これを討って推古が皇位を継ぐ。そして、推古の摂政には20歳代の皇太子の厩戸がつき、彼が存命で当時の継承年齢の30歳を超えれば、皇位を継承したであろう。しかし実際には、厩戸は死亡し、推古の孫に当たる舒明が皇位を継承する。
さらに、大化の改新の前、舒明が死亡した後、皇后の皇極が二人目の女帝として皇位を継承する。このとき、従来の皇位継承法ならば厩戸の息子の山背、舒明と蘇我系の妻との息子の古人、また、舒明と皇極の間には成人前の中大兄(天智)と大海人(天武)がいた。従来であればこれらの中から人望篤い者(もしくは、実力者)が継承したわけである。古人を推した蘇我入鹿は、有力な競争相手である山背を討つ。欽明・皇極の息子の中大兄はその対象ではなかった。入鹿ら旧世代の常識では、中大兄は継承権において弱かった。しかし、中大兄は入鹿を討って、大化の改新によって権力をにぎったが、それにもかかわらず、中大兄は皇位につかない。皇極の弟の孝徳に継承させるのである。さらに、慎重に慎重を重ね、孝徳の後、皇極に重祚をさせ、自ら皇太子となるのである。
天智の死後、弘文をおそって壬申の乱により皇位についた天武は天智の娘の鵜野(持統)を妻にし、その息子である草壁の系統に皇位を継がせようとする。天武がなくなった後、草壁に引き継がせるべく持統が皇位を中継する。しかし、草壁はなくなり、持統の意志を継いで草壁の妻である異母妹(天智の娘)の元明がさらに皇位を中継する。そして草壁系(天智と天武の双方の血をひく)の文武が即位するのである。この後、曲折はあるにせよ、直系の皇統に皇位が継承されていくのである。
事例は多く挙げられていて、興味深くこの時代の皇位継承システムについて理解を進めることができた。そして、著者の最後の言葉がなかなかうんちく深かった。現代の皇室の抱える皇位継承者の不足、その結果、女帝を許容しようとする動きをふまえ、次のように言う。
「しかし、たんに男性の有資格者がいないから女帝を認めるといった糊塗的な対処であっては、問題の先送りにすぎず、何ら本質的な解決にはならないであろう。ジェンダー論が求められるのは、そのときである」。
2004-10-27 15:25:24 |
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イモ煮(里芋の皮を剥き適当なサイズに切っておく。深鍋に油を入れ、ショウガトウガラシを入れ、炒める。切り落とし肉、タマネギ、里芋を入れ、炒める。コンニャクをちぎり入れ、炒める。酒、水を注ぎ、煮立ったところであくをすくう。濃い口醤油、しょっつる・ナンプラーなどを入れ、味を調える)
金時草のおしたし、カツオ節粉風味。
肉の時雨煮(昨夜の作り置き。ショウガ、濃い口醤油、日本酒でにつめる)
今夜は、家内の当番。
チキン照り焼き柚子風味(醤油、日本酒、柚子につけ込む。網焼き。ネギの油煮=白ネギ小口切り、ごま油、鷹の爪、薄口醤油、ポン酢。ネギの油煮を焼いたチキンにかける。さらに青ネギを散らす)
豆苗のごま和え
石焼きイモ(昨日、奈良の実家からおくってきたサツマイモを無水鍋で石焼きイモ風にした食べた。こののこりを添えた)
ミラ・ジョボヴィッチ扮するアリスが闘う・撃ちまくる。コンピュータゲームそのもの。アンブレラ社というバイオメディックの会社が企む生物兵器開発と意図された感染による人間の改造「ネメシス」計画。前作を見ていないので、その辺が回想シーンとして出てくるのだが・・・。
今週の映画は不作で、あまり、見るものがなく、まあこれか、というので選んだ映画だったのだが、全米ランキングなにがし・・・、といったふれこみにもかかわらず、客は2分の入り。客層はコンピュータゲーム(プレステIIのゲームのようだ)のファンのような年齢層がもちろん多いがそれにしても、少ない。どうも、今週が最後ということで、どうも盛り下がっていたようだ。
今回の作品の計画は、ウィルスに感染させた前作の主人公二人「アリス」と「マット」を闘わせ、どちらの人体改造が成功していたかと言うことがポイントのひとつであった様だ。一対一の戦いでは「アリス」の勝ち、しかし、心通わせたのか、「マット」が改造された怪物も「アリス」を助ける。最後のシーンで、いったんは死んだ「アリス」が再生され、アンブレラ社のラボでよみがえり、そこから、今作のサブキャラクターらに救出され、ラボから脱出していく。第三作がありますとの予告編のようなところで、今作は終わり、次作のポイントは「アリス作戦」とのことのようだ。
ちょっと、殺伐としすぎた作品であった。好きな人は好きなのだろうが、第三作はたぶん見ないだろうな。主演のミラ・ジョボヴィッチは「フィフス・エレメンツ」以来、ふしぎな雰囲気な女優で嫌いでもないのだが、しかし、B級はB級なりに後味がすっとする方が良かった。映画の作りは、いろんな映画の寄せ集め。「キル・ビル」も意識されていたようだし・・・。
ま、ともかく・・・。
名駅・豊田ビルBFの「ポルトフィーノ」に行った。
生ハムと焼き野菜、的矢牡蠣のパイとキノコのソテー、カボチャのニョッキ、ピザ・ビスマルク。
今日は、午後に映画を見に名駅に出たのだが、町には人出があまりない日のようだった。こういう日もあるのか。映画館も閑散としていたし、高島屋もそれほどの人出ではなかったようだ。天気がよいから郊外に出たとか、災害続きで差し控えたわけでもないだろうに・・・。
オードブル:イベリコ・ブタのソーセージ、トマトサラダ、キノコのソテー
メイン:カキフライ、ビーフステーキ
ケーキ:オペラ、カボチャのムース
キャンティのワインも美味しゅうございました。
浅野屋に向かう前、6時45分頃、長い揺れの地震。遠くの地震かと思っていたが、新潟の余震のひとつだったらしい。寒くなると、今度は、大きな地震が気になる。
この前見つけた以下のサイトは、リアルタイムで地震を分析しているので大変興味深い。
http://www.hinet.bosai.go.jp/
銀杏ご飯(奈良の実家からむき身の銀杏をおくってきたのでそれを使った。米をとぎ、米3カップの場合、薄口醤油・日本酒それぞれ大さじ4スプーン。水は通常の好みの量でよい。ダシ昆布を入れる)
豚肉のショウガ焼き(ショウガ焼き用という豚肉。ショウガをすり下ろし、日本酒、濃い口醤油、キムチの残り汁を入れてあわせておく。豚肉を最初に入れて軽く焦げ目をつけ、タマネギ、ニラ、もやしを入れて炒める)
エノキダケのみそ汁(今日使ったエノキは、よく見かけるもやしのような真っ白なものではなく、ぬめりとした茶色。みそは八丁みそと白みその合わせみそ)
実家からおくってきた銀杏は、大学を卒業した年に奈良に引っ越した際、奈良市が緑化運動とかで各種の苗木を各家庭に配ったときにもらってきて植えたもの。その時に、桜と銀杏、松などをもらってきて、家の前の道路脇にある猫の額ほどの地面に植えた。30数年の間にそれぞれが大きくなった。
特に銀杏は、たまたまだったのか、それとも、ちゃんのその様に考えて配布されたものか解らないが、男木と女木だったので、十年ほどたってたくさん実をつけるようになった。特に最近は粒ぞろいになってきて、近所の人がバケツ一杯にもって帰るようになった。父はシーズンになると、臭いにおいのする果肉の部分をとって、銀杏を取り出し、季節になるとおくってきてくれる。
今晩はそれを使って、銀杏ご飯を作ったわけだ。
杉山幸丸、2004、『崖っぷち弱小代が開く物語』、中公新書ラクレ
短大も含む大学への進学率は50パーセント超、平成17年には、大学入学定員と大学進学希望者の数が均衡するという。大学への進学希望者の動機は、主体的でなく状況依存的であるにせよ需要と供給が均衡するとの状況は、大学関係者としては、非常に大きなインパクトを与える環境である。こうした流れは最近になって突然の変化として現前したわけでもなく、当然の事ながら、ずいぶん前から、予測されていた。しかし、バブル時代の右肩上がりのチャートがそれを一時覆い隠していただけである。
著者は、日本のエリート大学を卒業し霊長類学の研究にいそしみ、研究所において長年勤務を続け、定年退職を待って地方の新設大学の学部長として赴任した。その、ここ数年における「戦い」の記録である。
著者の主張は、エリートではない普通の大学生は日本の大学生の標準モデルであり、彼らとどのようにかかわって「教育」をしていくかと言うことが日本の未来を規定する。従って、普通の大学の教育は、様々な葛藤を克服しつつ、やり遂げなければならず。著者の経験がその事例として語られるのである。学生との対応、教員や理事会、事務方への意識改革・・・。
本年4月以降の国立大学法人化、そして、その後へと模索する各国立大学への様々の試みとは違い、ある種、本音の部分がうかがえ大変身につまされた。もちろん、それは、読者であるわたしが大学関係者であり、同時に、ある程度の歴史ある大学の教員であることもその理由である。しかし、押し寄せる波に飲み込まれようとしている状況には変わりない。何らかの解決を見いださなければならないのだ。
主張としては、大変よく共感できる。すなわち、大衆化した大学における教育は、否応なく近未来日本を規定する。しかし、各大学には共通の課題を抱えつつも、解決すべき課題とアプローチは、非常に個別的である。
私立大学の場合、国立大学が一気に法人化への進むといった状況とは、明らかに異なる。各大学法人は、それぞれ、日本全体の流れに従いつつも、それぞれ独自の歩みを遂げなければならない。それであればこそ、独自性を主張しうる。
ここに、もっともらしく普遍的な二律背反が存在する。すなわち、問題解決の方向性について他の
大学と同調しなければならないにもかかわらず、同時に埋没せずに独自の道を見いださなければならないのである。カリキュラムや歴史をふまえ、様々な事柄で独自の方向性も見いだしつつも、金太郎飴の様な大学にならずにすます・・・、本当は、それができればいいのだが・・・。
2004-10-21 23:51:35 |
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菅原和孝、2004、『ブッシュマンとして生きる:原野で考えることばと身体』、中公新書
菅原和孝、1999、『もしみんながブッシュマンだったら』、福音館書店
二冊目に登場する著者の長男の「ゆっくん」はもう二十歳ちかくになったはずだ。どんな青年になったのだろう。おとうとの「しょうちゃん」はおにいちゃんをたすけるどんな青年になっているのだろう。
わたしは、最初に前書を読んで、ついで、二冊目を読んだのだが、わたしは著者が言う「人類学者の私小説」でもある二冊目の方が好ましく思った。もちろん、両書はいずれも著者の圧倒されんばかりのディーテルへのこだわりと、それによって描き出される現地の人々の生き生きとした姿が魅力的なのだが、「ゆっくん」のこだわりぶりもまた、半端じゃない。
2004-10-21 23:17:36 |
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