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夏に熱かった女子の言い草

2022年08月07日 | 雑記帳
 先月は毎週「週刊文春」を購読した。安倍元首相の狙撃事件が主記事になっていたわけだが、連載陣の多くも触れていた。その中で一番気になったのは、狙撃直後(生死もわからない段階)でいち早くネットへ発信した者たちが一様に「犯人の動機はともかく…」と共通した見解を述べたことに対する能町の評価だ。

 つまり彼らは、これらの事件をごっちゃにして、「差別はやめよう」というごく真っ当な主張に乗っかって「権力者の悪口もやめよう」を広めようとしているのです。
  能町みね子(週刊文春7/28  言葉尻とらえ隊)



 これは小説なので、作家の考えそのものとは言い難いが、叫びがストレートなだけに、人格の一部に存在することは確かだろう。「食欲」を客観的に表現した一断面。確かにその通りではあるが、それゆえ「食物」や「料理」を文化と思えない不幸せ。人は誰しも「何か」についてこんなふうに思い込んでいないか。

 身体に食料を取り込むほど空しい作業はない。取り込んでも取り込んでも、身体は毎日食事という行為を要求してくる。身体は暴君で、私はその要求を満たすための、ただのしもべだ。
  李琴峰(ちくま8月号 肉を脱ぐ3)


 「私を追悼しないで」と一般人が口にしたら、オマエはナニサマだと笑われるのが関の山。名の知れた詩人だからこそ「追悼」というイベント的空気の存在が気になるのだと言いたくなる。メディアに取り込まれれば全てはコンテンツ。その芽はきっとネット以外にもあって、真剣に人に対峙していない場で使われる。

 人が人であることをどこまでも尊重するふりをして、人をコンテンツにするきっかけにしないでほしい。もっと、勇気を出して、生きている人間がコンテンツになっていることに無自覚な人々の感覚こそが(そしてそれに耐えうる強度を持つコンテンツ側の人間が)面白いのに。
  最果タヒ(ちくま8月号 どうか私を追悼しないでください)