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桜と絵本と豆乳と

全力を出し切る場としての役割

2007年04月14日 | 教育ノート
 学区内の全戸へ向けての校報。今年度は4ページ仕立てにして、そのお終いに徒然なることを書く計画とした。
 スタートは心に残ったテレビ番組のことから始めて…


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 2月下旬の日曜日にテレビで視たドキュメンタリーが忘れられません。モンゴルの遊牧民の少女を取り上げた番組でした。
 題名は「学校へ行きたい」。
 病気がちな親の手助けをしている8歳の少女ナラは、家の仕事が忙しくて学校へ行くことができません。牛の乳絞り、燃料集め、水汲み…極寒の地でただただ懸命に働いているのです。冬場になって近くにくる「移動教室」の2週間だけが彼女の学校です。
 ナラはその学校を待つ間、厳しい仕事の合間に「宝物」だというぼろぼろの教科書を広げ、懸命に字を覚えようとするのでした。冬の移動教室での彼女の表情は実に生き生きとしていました。
 しかし、8歳の彼女が知っている文字はわずか30字。限られた時間で思うような進歩はありません。それでもナラは「医者になりたい」という夢を語ります…
               
 彼女と同じ年頃の子供たちが、この日本にも、ごく身近な所にもたくさんいます。仮に「夢の実現」へ向けてどちらの可能性が高いか考えてみたとき、単純な比較は難しいと思います。それは「恵まれた環境」が必ずしも「能力の伸長」とイコールになるとは限らないからです。
 衣食住に不便をしない、面白いモノがある、たくさんの情報が流れている…それらを何の疑問も持たずに受け入れていくだけで、はたして真の「力」と呼べるものが育っていくのか、時々不安になることがあります。人は苦しい環境にいる時に案外いろいろな力を身につけたりするものです。
 その意味でモンゴルの少女は今「底力」をため込んでいるような気もして、運良く勉強する機会に恵まれたとき、それが爆発的に発揮されるかもしれない、と密かに思ったりするのです。
             
 先行きが不透明な時代となり、子供にどんな力を身につけさせることが将来有利になるのか単純に言えない気がします。職員の中でも話題になったことがありました。
 小学校の段階では「学力」や「体力」の基礎になる部分を培うのですが、社会全体がどんどん変化している状況を意識しないと、表面的なものに終わってしまう不安も感じています。つまり、かつて日常で養われていた力、物質的に豊かでない時代に知らず知らずに身についた力を下地にしないと、知識や技能も十分に発揮できないままにしぼんでしまうのではないかという思いです。
 では、何が必要なのか…少なくても、「歯をくいしばって全力を出す」という体験は重ねておくべきことと言えるのでないでしょうか。
              
 息は大きく吐ききることで、たくさんの吸い込みができます。それと同じように力やエネルギーも出し切ってしまうことによって、内なる容量が拡がり、新たな力に結びつくはずです。
 仲間とともに全力を出し切る場としての役割を、今改めて「学校」「教室」が担っていかなければならないのではないか…そんなことを考えてみた年度の初めでした。
 学校から見渡せる空の、はるか向こうにいるモンゴルの少女ナラは、今日もまた一人黙々と、燃料になる牛の糞を拾い集めているのですから…。
(4/13)
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