すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

車に記憶されること

2017年09月08日 | 読書
 少し遠出をした。4日間で800Km超す運転をしたのは久しぶりである。今まで訪れていない初めての箇所で、ほぼ天気にも恵まれた。レンタカーは小型車だったが、ほとんど新車で快適だった。最近読んだこの小説は「車が思考し会話する」形の話であり、もしその視点だったら、車は旅をどんな評価をしたのかな。


(白米の千枚田)

2017読了88
 『ガソリン生活』(伊坂幸太郎  朝日新聞出版)


 久々に読む伊坂小説。最近の著作は読みにくくなった気がするが、これは以前のような軽快さがあり、面白くページをめくった。数年前の新聞連載の単行本化だ。話し手は「緑のデミオ」。車同士も会話できる設定で、物語が語られていく。登場する車種の個性などもうまく表されているようで、目の付け所が秀逸だ。


 キャラクターが立つということを小説で知ったのは伊坂作品のような気がする。この小説でも亨という小学生の言動が際立ち、実に痛快である。結局この子が主人公と言えるだろうか。数年後の姿が描かれるエピローグで、成長した亨が中古ショップで見つけた「緑のデミオ」と現われたとき、爽快感が湧き上がってきた。


 話の筋は、それほど意外性に富むものではない。ただ入れ込まれているエピソードは、かのダイアナ妃の事故との類似性が重ねられていて、その意味では、世の中の欺瞞とか虚飾をあぶり出す。今も連日報道されるスキャンダラスなことにも、必ず表と裏があり、世間が知らない事情に満ち溢れていると想像させる。


 緑のデミオの良き相棒が、隣家の「ザッパ」と呼ばれるカローラである。その持ち主である小学校校長の影響を受けて、フランク・ザッパの名言?がいくつも紹介される。ザッパに親しみはないが、彼のような70年代の自由人の発言は、抑圧を嫌い感情に正直に生きたいと主張する典型だなと、今さらながらに思った。

宿題購入の損得勘定

2017年09月05日 | 教育ノート
 「宿題が買えちゃう時代」…それでいったい何が欲しいのだろうと、思いを巡らしてみた。一つには「時間」ということがあろう。つまり、読書感想文とすれば、具体的には、その本を読む時間、そして文章にすることを考える時間ということだ。確かに結構な量の時間で、時給の最低賃金レベルで買えれば安いか。


 実際に「時間」が得なのは子どもということになるが、買い手は親なので、それにつき合う?時間も入ることになるだろう。もう一つ考えられることは「安心」だ。課題を出さないであれこれと連絡や指導をうけたりすることがない、出すことによってクリアして、ストレスなく暮らせるということだ。こちらが主か。



 では逆に「買ったことによって失ったのは?」と問いを立ててみる。それは言うまでもなく「読む」「考える」ことだ。子どもは本との出会いの機会を失った。とはいえ、そもそも「読みたい」という気持ちがないのだから仕方ないではないか、となる。その通り、まずそういう読書意欲を身につけさせることが先決だ。


 その意欲は、どこでどうしたら身につくのか。学校、家庭それぞれで為すべきことは何かを考えさせられる。これは「考える」も同様。もちろん、「自主的・自発的」が望ましいが、意欲は強いられて発露する場合もあるし、そもそも学校という機関が、その強制性に支えられているのも現実だ。失ったものはまだある。


 「読む」「考える」行為の代替による、困難さへの耐性とでも言おうか。逆に「金でなんでも買える」価値観が膨らんだとも言える。お金で「安心」を買うことは悪いことではない。例を出すまでもない。しかし、買おうとした「安心」が限りなく刹那的であることに気づかねばならない。「心の教育」…旧い言葉が浮かぶ。

宿題が買えちゃう時代かあ

2017年09月04日 | 教育ノート
 メルカリで読書感想文が数百円で買える 母親「一緒にやる時間がない

 「宿題が買えちゃう時代」という記事には、さすがに少し驚いた。しかし考えてみれば、この経済優先の時代には当然であり、とっくに始まっていたのかもしれない。そういえば、夏休みの工作物などは、結構前からこの辺りでも「市販物利用」があったことを思い出す。どのラインで認めるかどうか線引きも難しい。


 かなり昔だが、家人の勤めていた学校で「夏休みの作品として、習字1枚は認めない」と力説した教員がいるという話を聞いた。そこで思ったのは、担任ならば、仮に1枚だったとしてその背景を見抜くことが必要で、認める認めないの問題ではなく、全てふだんの指導に帰するはずということだった。根本が異なる。


 日常の宿題、長期休業の課題等はやはり教育観に大きく関わっていると思う。私自身は、岩下修実践に憧れて長く「自学」を進めてきたので、学校での「授業」と家庭での「学習」をリンクさせることを強調してきて、一定の手ごたえはあった。しかし下のページを見ると、またそれも「昭和的な教育」と区分されるか。

 「夏休みの宿題はいらない」 公立小学校の現役校長が変えたい“昭和的な”教育


 全国学力テストの結果が公表され、本県では地元紙が「学テ10年」と銘打って連載記事とした。報道内容はその表裏を含めて、教員ならば周知事項だろう。しかし当然ながら、語っている者、編んでいる者は全て全国テスト世代ではなく、昭和の教育の見方とつながっている。この政治的施行はそこを抜け出せない。

土曜の鈴子の啖呵

2017年09月03日 | 雑記帳
 土曜『ひよっこ』の放送で鈴子役宮本信子が素晴らしい台詞を言った。アパートの大家である富に対して、昔の恋人が亡くなったことを若者たちに語りなさいと奨める場面でこう言い放つ。「わからなくたっていいんだ、わかってたまるかっていう話だろ」…これは染み入るなあ。さすが!岡田惠和。よくわかっている。



 「わかってたまるかっていう話」は、はたして自分にあるだろうか。これは、本当に苦しい時代を過ごしたり、辛い境遇で育ったり、そうした体験を持つ者が語れる類のものだ。あるいは、人並外れた努力や極めて特殊な経験といった場合も入るかもしれない。おそらく大枠ではわかっても、芯が捉えられないのだ。


 『ひよっこ』では、いわゆる戦前の花柳界の恋愛が対象、というより秘めねばならない恋の切なさや美しさとなるか。それは、時代や境遇という特殊要素が大きいので、若者には肝心の点が実感しにくい。客観的には語ることができても、けして同化できない。お湯が50℃であることとお湯に手を入れることは違う(笑)。


 「わかってたまるか」には、簡単にわかってほしくない、少なくとも「わかる」としたり顔で言ってほしくない、そんな意味合いが感じられる。脚本家は、戦前世代の話が戦後世代に伝わってほしくないと考えているのだろうか。いや、それは逆だろう。そんな話がまだまだある、語ってほしいと考えているに違いない。


 「伝え合う」「わかり合う」が強調される時代。それが生活を豊かにする糧ともいえるだろう。しかし人は、一面で「わかってたまるか」というレベルを求めるのではないか。そんな経験が全くないとすれば、いつでもどこでも代替可能な寂しい人生になる。打ち破るヒントは、伝わりにくい話の中にあるかもしれない。

やはり、女性の時代

2017年09月02日 | 雑記帳
 何を今さらではあるが、女性は強き者である。
 そして、やはり女性の時代である。


 こんな出来事があった。

 大曲の花火が終了して、今までとは違ってすぐに帰りの準備をして、桟敷席を立った。
 ところが案の定というか、ブロックの出口が混雑して前へ進まない。
 係員がマイクで誘導し、少し進んではストップが繰り返される。それでもお利口な日本人なので、混乱もなく従っているが、斜め後方から少し諍いの声が聞こえてきた。

 年配の男同士が、オシタ、オサナイ、オマエノジュウショキカセロ、ナンダト…といったやり取りを続けている。
 周囲には十分聞こえているが、この密集でのトラブルは避けたい気持ちがあるのか、誰も仲裁はためらっていた。

 しかし、ここで一人の女性がたしなめる。
 「こんなに混んでいるんだから、そんなこと言ったって、しょうがないでしょ!

 ぴしゃりと事が収まる。


 こんな番組もあった。

 某テレビ局恒例の24時間テレビ。目玉のマラソンのランナー発表を当日に持ってくる采配をして、注目度を高めようとした。
 選ばれたのは(候補者として心準備はしていたようだが)、これまた今年ブレイクした女芸人ブルゾンちえみである。

 女性ランナーはごく普通だが、今までとは違う「時代」を感じさせる。
 この人が従えている「withB」という男性二人組の存在があるからだろう。今までもあった形態ではあるが、見せ方における主役感がかなり異なる。

 こうしたポジションの立て方こそが、今の日本の男女関係の典型というのは言い過ぎか(ちょっとね)。
 もちろん、この番組自体は多くの問題を抱えていることは承知の上で。


 そして、こんな一文があった。

 武田砂鉄がcakesというサイトで連載している「ワダアキ考」が面白く、毎回楽しみにしている。
 昨日配信された回は「愛より増田明美が地球を救う」という文章。頷きながら読んだ。



 増田明美はマラソンだけでなくスポーツ解説者として出色の存在と感じていたが、見事にその具体が述べられていた。

 「増田の解説は、調べに調べ、必然性を持たせた上で、選手の人生を次々と持ち込んでくる。」

 選手時代から彼女がどんな工夫と努力をしてきたか、明らかにしたあとに、マラソンつながりで、先の「愛」を強調する24時間テレビの放送内容全体の雑さにも触れていた。

 武田は、同じ言葉を扱う者としてあるべき矜持をこんなふうに結んでいて、そこには増田に象徴される女性の綿密な強さが際立っていると感じた。

 「増田明美は、感動を伝えるためには、事細かな取材といくつもの言葉が必要である事を教えてくれる。そもそも『○○が地球を救う』というスケール感自体に首を傾げたままだが、もしも、愛と増田、地球を救うのはどっち、と問われたならば、具体的に救うのは増田だ、と即答することになる。」

Jアラートに何を聴く

2017年09月01日 | 雑記帳
 ミサイル騒ぎに何を見るかは、人それぞれ違うだろう。どうしても言葉に引っかかってしまう自分は、報道された声に素直に頷けない。首相の「発射直後から北朝鮮ミサイルの動きは完全に把握」という自信満々の語りには、どうしても違和感が残る。確かに2009年4月のテポドン2号時に比べれば、かなりマシだが。



 とはいえ、ではJアラートの時間や範囲は適正なの?いつもそうなの?と疑問は押し寄せる。「国民の生命と安全を守る万全な態勢を取っている」も実際の迎撃や避難体制に関しては、諸方面から不安要素いっぱいの声が大きい。2回もトランプ大統領と電話会談をしたけれど、「圧力」度合のやり取りだけではあるまい。


 グアム攻撃をめぐる駆け引きは結構明らかにされている。経緯をごく普通に考えれば、日本という国が餌のような状態なのかと想像できるし、大統領の語る「同盟国の日本と100%共にする」が建前であることは、誰しも思うだろう。とすると何が本当で、信頼するべきはどこか…ああ、本で読んだいつかの時代のよう…。


 「大本営発表」という嫌な言葉が浮かぶ。むろん、あの時代と比べるのは無謀だが「歴史は繰り返す」もかなりの箴言。最近読んだ本に、戦時中の日本軍のラッパ合図には、他国に当たり前の「全軍撤退」はなかったという記述を見つけた。それも「失敗」の理由であるはず。今こそどこへ向かうかの見極めが必須だ。


 Jアラートの嫌な響きに不安を覚えた人は多い。それを払拭するべく力強い発言は続く。しかし、その声に導かれて軍事的衝突容認へ向かうことを国民の大半は望まないだろう。問題はそこへの道筋が、ある時は強行に、ある時は緩やかに位置づけられていくような現況だ。その怖さを訴える声がなかなか拡がらない。