すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

乱読の果て、かの国問題

2017年09月19日 | 読書
 本当に節操のないラインナップだ。とは思いつつ、それなりに皆面白くなかなかいいチョイスだと一人悦に入っている。読書の愉しみは人それぞれだろうが、「物語の筋に入り込んだような気分になる」「新しい知識や発想を得る」「言葉の力や輝きを感じる」などは当てはまるに違いない。そんな三冊だったなと思う。



2017読了91
 『自覚~隠蔽捜査5.5 』(今野敏 新潮文庫)

 待ちかねていた文庫化。「3.5」に続くスピンオフの短編集だ。編毎に主人公は異なるが「信念の警察官僚・竜崎伸也」が全てに関わり、いつものごとく真正面から正論を放つ。ファンにはそれがたまらない。例えば「過ちを犯しかけた。たが、すぐにそれを軌道修正した。それでいい」。竜崎ならどう言うか、北朝鮮問題。


2017読了92
 『辛酸なめ子の現代社会学』(辛酸なめ子  幻冬舎)


 連載した漫画に解説?を加えながら世相(00年代)をバサバサと斬っていく。本の帯に宮台真司の的確な評価がある。曰く「本書には僕たちの『過ぎた営み』が満載だ。愛すべき『終わらない空回り』だらけの現代」。空虚に見える社会現象も全てモンスター化する芽を持つ。辛酸はすでに漫画化しているか、北朝鮮問題。


2017読了93
 『子どもを輝かせる10のお話』(日野原重明  実業之日本社)


 著者の文章には、映像で見る笑顔のごとく優しく包み込まれる味わいがある。「子育て」について述べた本だが「カリキュラムよりも幼児期のしつけが大事」「いのちの時間」という発想こそ、考えるべき素地と改めて認識した。そう言えば「よど号事件」の当事者である著者が生きていたら、どう語るか、北朝鮮問題。

逃げるを手段とす

2017年09月18日 | 雑記帳
 昨夜、大河ドラマ『直虎』を観ていたら、「逃散(ちょうさん)」の場面があった。画面にも大きくその字が出され、当時農民たちが国同士の争いが続く中で、防衛策の一つとして集団で土地を離れる方法をとったことを示していた。先日読んだ『杖ことば』(五木寛之)にも「為政者への抵抗手段」として挙げられていた。



 農民が村をそして田畑を捨てるという選択をすることは容易ではない。しかし戦国時代以前から、それほど珍しいことではなかったようだ。その集団移動を、受け入れる藩には「逃散奉行」がいて、開墾させる手配をしたと五木は書いている。「一揆」はよく取り上げられるが、実際の抵抗手段はもう少し幅が広かった。


 同じドラマの中で『三十六計、逃げるに如かず』という台詞も出てきた。『逃げるが勝ち』同様、誰しも知っている諺ではあるが、最近あまり使われないような気もする。そもそも「逃げる」ことが卑怯だという日本人の美学があるので、好ましくは思われない。けれど「三十六計」の意味を考えると、十分に価値がある。


 「三十六計」とは文字通り「三十六種類の計略」つまり兵法上の多くの計略を指す。その中で「逃げる」ことを「最上策」と掲げているのである。形勢が不利になった時の見定め方と言ってよい。どの場で使うべきかは個人の価値観にもよるが、肝心なことは状況、情勢の見極め方。的確な判断力のうえに成り立つ。


 「逃げる」が即「負け」を意味するわけではない。しかしなかなかやり直しのきかない日本社会では、逃げることには覚悟がいる。突発的にではなく、一つの手段として積極的な逃げを意識できれば、道は開けるか。そしてまた「捨てる神あれば拾う神あり」という世間のあり方も、まだまだ残ってほしいと思う。

鈍行に乗ってみれば

2017年09月17日 | 雑記帳

(黒部峡谷鉄道)

 「鈍行」という言葉をあまり使わなくなったようだ。普通列車、各駅停車が正式名称であるのは承知しているが、ドンコウという響きも捨てがたい。久しぶりにその鈍行へ乗ってみた。秋田駅前のとある場所へ用事があり、たまにはいいかとお昼前の二両編成の列車へ。ふだんの自家用車往復にはない楽しみもある。


 つい車内の人間観察へ目が向かう。二つしかないボックスシート席に、若い男性が黒い大きなザックを横に座らせて、乗っている。各駅に停車する度にじっくり外を見入るし、時間があると必ずホームに出てみる。鈍行を使った一人旅か。身なりはそれなりだが、何かを吸収しようとする若者の姿はある意味清々しい。


 秋田駅に着き、用事までの小一時間を隣のアルベェで過ごす。催し物はなく、中央の広場は高校生がテーブルをほとんど占領している。そこに現れた一人の中年女性。何かの機器をセットしたと思ったら、マイクを持って歌い始めた。竹内まりやから始まり朝ドラの主題歌など…歌の出来はともかく、平和な空間だ。


 用事を済ませ、夕刻の列車で湯沢へ戻る。これは4,5両編成。下校時にあたり圧倒的に高校生が多い。こうなると都会と変わらずスマホとにらめっこという単一的な風景が広がる。これを何かを探している、待っている状況と仮定すると、列車の中は孵化場のような空間とも言えるが、配合飼料づけにされないか心配だ。


 そういえば、FBに数年前の「いい子が育つ都道府県ランキング」が取り上げられていた。堂々の1位が本県であり、当時少し誇らしかったことを覚えている。しかしデータはデータ、今目の前にいるその時小学生だった対象者たちの姿は他県と差があるのか…。鈍行車内で目を凝らしてみる。読み取ろうとしてみる。

コミュニケーションとは持ち合うこと

2017年09月16日 | 読書
 コミュニケーションという言葉を、教育の仕事上の文章に使うことを少しためらってきた。それは、あまりに「ビックワード」であり、個々の受けとめ方に差があったり、またもし問われた時明確に説明できるかと迷いがあったりしたからだと思う。先週届いたある冊子の記事を読み、少し目が開かれた思いがした。


(兼六園)

Volume76
 「『コミュニケーション』を日本語に訳すのが難しいのは、言葉をやりとりするだけでなく、『やりとりの結果、何かを共有する』という概念まで含んでいるから。単に会話しただけでは、コミュニケーションは成り立ちません」

 お笑いコンビパックンマックンの一人、パトリック・ハーランが語ったことである。
 語源がコミューンであることを考えれば、日本語の「共」という概念を含むといっていい。つまり、何を「伝え合う」だけではなく、「持ち合う」という意味がある。

 とすれば、よく「コミュニケーション能力」と口にするけれど、それは積極性や伝達能力や豊富な話題提供力などを示しているわけはないことに気づく。
 相手や対象と一緒に何を「持ち合う」こと。
 そう考えると共感、説得、折り合い…などの言葉が浮かんでくる。

 「会話のキャッチボール」が、形式的なものから実質的なやりとりに向かう筋道は大事だなと思う。
 つまり話の中に共有できたり、認めあったりできる感覚が芽生えるといい。

 苦手意識の強い私たち日本人の多くに、パックンはいいアドバイスをしている。
 下記のようなことだ。漫才やトーク番組を見て学べることも多い。

 誰かに何か質問されたら、答えを一言で返すのではなく、「答えに何かをプラスして返す」という練習

「天高く弾越える秋」

2017年09月15日 | 雑記帳
 なかなかいいモジりではないか、と自画自賛などしたら顰蹙を買ってしまいそうだが。今後の行方をあれこれ言っても空しいので、このことわざの「天高く馬肥ゆる秋」について一つ…ご承知の方も多いはずが、この時候挨拶の定番は「空が高く澄み渡って、馬も肥えるような収穫の秋」という意味で使われている。



 しかし実はことわざの由来は「昔、中国では、北方の騎馬民族の匈奴が収穫の秋になると大挙して略奪にやってきたので、前漢の趙充国はそれを見抜き、『馬が肥ゆる秋には必ず事変が起きる、今年もその季節がやってきた』と、警戒の言葉として言った」(故事ことわざ辞典)なのである。なんと「北の脅威」を指す。


 Jアラートの文言変更が報道された翌朝というのも、タイミングがいいというか悪いというか…。「頑丈な」という言葉が抜けたのは誰しも想像できるように、「近くに頑丈な建物などない!」「頑丈の程度は?」といった数々の苦情、疑問に応えたものだろう。しかし、そこが本質ではない。不安を少なくしたいだけだ。


 結局、政府見解がどうあれ選択肢は数多くないようだ。つまり核保有容認か軍事的衝突、どちらをとっても我が国の道は険しい。拮抗する大国同士の力関係に翻弄される脆弱さを今さらに感じる。「女心と秋の空」は「男心と秋の空」がそもそもだと言う。感情の起伏では動かないとは思うが、くれぐれも慎重に慎重に…。

生き抜くルールづくりの本

2017年09月14日 | 読書
 今さらビジネス書でもないだろうが、佐藤可士和はずっと注目していた。印象深いベストセラー『佐藤可士和の超整理術』(日経ビジネス人文庫)についても、このブログで三度も取り上げているから、密かなシンパシーを持っている。

 ◆わかっている人は、こう表現する

 ◆整理を整理する、その1

 ◆整理を整理する、その2


(金沢駅)

 いわば続編とその後に出たインタビュー(というより対談集)が実に興味深かった。

2017読了89
 『佐藤可士和のクリエィティブシンキング』(日本経済新聞出版社)

2017読了90
 『佐藤可士和の新しいルールづくり』(聞き手・齋藤孝 筑摩書房)



 『~クリエィティブシンキング』に、コラムニスト天野祐吉の言葉として紹介される一節が、実に佐藤可士和の仕事の本質を突いている気がした、

 「外見と中味を分けて考えている人がいるが、外見は一番外側の中身なんです」


 『~クリエィティブシンキング』で語られていることは、『~超整理術』を一歩進め、提案的にクリエィティブマインドのつくり方や実例などである。
 正直、凡人ゆえにふむふむと感心するだけで、読み流してしまったきらいがあったが、二冊目の『~新しいルールづくり』では、稀代の聞き手、対話上手である齋藤によって、実に豊富に、より提案的になっていて、感心してしまった。


 業界用語や省略的な造語の考え方が実に面白い。
 例えば「トンマナ」「見立て」「シズル」など、仕事だけでなく、日常生活を送るうえでも、活用可能なことが豊富にある。

 広告を扱う場合だけでなく、この本で何度も強調されるのは「コンセプト」である。
 コンセプトの「概念」をしっかり把握しているかどうかという、そもそも論が興味深い。以下のように佐藤が語った一節が示す意味は大きいと思う。

 「売り上げを伸ばしたい」や「長生きしたい」はコンセプトにはならない。
 コンセプトは「思考の設計図」、「こういう方針でやろう」という意志
 共有できないものは「優れたコンセプト」とは言えない。



 また、y=f(x)という関数の考え方は、斎藤の別著書にもあったかもしれないが、fに「佐藤可士和」が入るという例示、つまり佐藤可士和の関数化という発想は実に面白く、この本のテーマ「新しいルール」に直結すると思った。

 ルールを守ることはとても大事である。それなしには社会生活を安定して営むことはできない。
 しかしその裏面において、確実にそして急激に変化している世の中では、「新しいルール」を作り、ゲームの主導権を握る努力をしなければ、萎んでいくは明らかである。
 そのヒントは、コンセプトや関数化を初めとして、この本に豊富にあると思う。

本が魅力的であるには

2017年09月13日 | 読書
 『ちくま』9月号を読んだ。PR誌という側面もあるので当然だけれど、今回は特に「本」そのものにまつわる様々な記述が目立ったように思う。
三つピックアップしてみたら…。


(金沢21世紀美術館)

Volume73
 「古本には、その本が通り過ぎてきた歳月、そして、かつてその本を読んだ人の思いや感情、さらには、当時その人に起こった様々なできごと、要するに、多くの未知の人びとの人生がまとわりついている感覚があるのです。」(中条省平)

 ここで語られる古本とは、都会に古くからある古書店の佇まいが似合いそうだ。ただ、そうではなくとも、私自身中古本を購入して、サイドラインが引かれた箇所があったり、ページ端が折られたり、なかには書き込みされたりする書にたまに出会うことがある。

 その時にふっと、そういう行為をした人の気配を感ずることもある。
 いわば汚れた本が引き出すその想像は、ちょっとした温かさを心にもたらしてくれることがある。


Volume74
 「しかし、あれだね、三冊読んでわかったよ。課題図書はやはり道徳的に正しい子を求めているのだね。美しい友情をはぐくみ、過去の過ちを反省し、未来に向かって生きろと鼓舞する」(斎藤美奈子)

 手練れの書評家斎藤が、小学校高学年の部の三冊(フィクション)を読んで書評したまとめがこうだ。
 予想されたことだけれど、やはり批判的に見ていて、それを「忖度感想文」と名づけていることが象徴的だ。
 確かに課題図書の多くは、簡単に結論を出すきらいがある。
 「矛盾を抱えた結末」を提示しない傾向があるのは、教育の構造的な問題と言っていいかもしれない。


Volume75
 「本を読むとものを考える様になる。余計なことを考えると、悩みが増えて不幸になる。それだけではない。政府の言うことを疑ってかかるようになったり、自分はみんなと違うと考えるようになったりする」(戸田山和久)

 「焚書映画」(!)について語っている箇所の一分である。
 1966年の仏英合作映画『華氏451』で描かれる世界の、根本思想になる考えだ。

 本とは、実はそういう存在でなければならない。
 ただ「本は危険、だから魅力的」…そんなふうに感じたり考えたりできるためには、ある程度の読書遍歴が必要かもしれない。
 まあ、課題図書だけではたどりつかないだろうなあ。

ザックの中のリンゴが赤い

2017年09月11日 | 読書
 先日新幹線で読んだ車内誌の文章が今も心に残る。沢木耕太郎の連載している巻頭エッセイ、今回は「旅のリンゴ」と題されて、十六歳時の旅行の思い出と今年六月に同じ所を訪れたことを絡ませた内容だった。五十数年前に夜行列車で秋田駅に降り立ち、男鹿半島の寒風山を目指したときのエピソードが沁みてくる。


(akita benihoppe)

 おぼろげな記憶の中で覚えていることとして、寒風山へ歩いて向かっている道、そしてその帰路で、同じダンプカーに乗せてもらったと言うのだ。今年再び訪れた沢木は、ほぼ同じ時刻に昇ってみようと試み、列車、バス、歩きとその道をたどりながら、記憶を呼び起こしている。当然、今は声をかけてくれる車はない。


 沢木はこう書く。「十六歳のときの東北旅行はさまざまなところでさまざまな親切を受けた。旅先における私の性善説はこのときの東北旅行が決定的に影響している」それは、便利になったゆえに人間関係が希薄に見える世相を批判しているわけではないが、一抹の淋しさも漂う一節だ。旅の達人は全て呑み込んでいる。


 「リンゴ」とは、五十数年前に乗せてくれたダンプカーの運転手が、降りる際に一つくれたもの。東北一周する旅の間中、そのリンゴはザックの中に入れられたままだ。それは「もし何も食べる物がなくて空腹になっても、まだあのリンゴがあると思うと安心だった」からとある。リンゴの持つ赤さが印象づけられる。


 沢木はそれから長い距離を移動する際、ザックにリンゴを一つ入れておくようになったという。その習慣は自分のためと思うが、もしかしたら出逢う誰かのためになる可能性もある。そんな「リンゴ」を多くの人が持ち合わせていたら、幸せな世の中になるだろうな。間違っても「おもてなし」などと括ってはいけない。

忘れられない、残らない味

2017年09月10日 | 雑記帳
 どこかへ出かける度に、ソフトクリーム系を食べる人は結構多いでしょう。

 サービスエリア、道の駅など定番ですね。

 で、今回の北陸路ベスト1は…



 「ゆずぐると」と名づけられたソフトで、

 あっさりな味でしたが、実に風味がよいものでした。


 このお店は、某有名な朝市通りにありました。

 その朝市で少し買い物をしましたが、ハイライトはこれ…



 知る人ぞ知る「フグの卵巣」。

 猛毒テトロドトキシンで有名です。

 唯一食べられる方法が、この粕漬け(毒性検査済)なのだそうです。




 家へ帰って、少し出してみました。

 味はカラスミと同様で、左党にはこたえられないはずです。

 何故猛毒が消えるかは解明されていないようで、

 そう思うと少し勇気が必要ですが、朝市のおばさんを信用しました(笑)。



 さて、忘れられない味覚(というより発見)がありました。

 お鮨をいただきたいと入った店で、握られた一つに

 なっ、なんと「はたはた」がありました。

 「生」ですよ。あまりにびっくりして写真を撮るの忘れました。

 その時飲んだビールで代替。



 刺身で食べられるのか、と我がソウルフードの可能性を感じましたが

 実際は無理なんだろうなあとも思います。

 肝心のお味はというと「忘れられない味覚」と書いておきながら

 何にも舌に残らなかった…そんな感覚しか覚えていません。

 またいつか、出会えるでしょうか。


朝の桟橋で待つ方々

2017年09月09日 | 雑記帳
 旅の楽しみは、半分が「食」だ。
 いや、7割か。
 初めての味覚や、へええっと思う工夫に出会うことは本当に面白い。


 で、今回の北陸では味覚としては旬のモノが少ない時期でしたが…



 富山のお店で出されたこのお皿、ごく普通の「鰤大根」に見えます。

 しかし、これは「全部」食べられるのでした。

 鰤の頭まるごと、つまり骨も「メチャクチャ」柔らかいのです。

 これには参りました。


 二日目のお宿の夕食の流れが素晴らしかったです。



 この絵柄だけでも想像できるかと思います。

 蟹にマイクロトマトを合わせたりして、日本料理のセンスを感じました。

 魅せる技という気がしました。


 朝食も楽しめました。



 ごく普通に見える焼き物(鰯と鰰)ですが、

 ご飯と一緒に美味しくいただいた後に、

 その残った頭を窓の外の九十九湾へ、放り投げました。

 そうです。

 食べてくれたのは、この方々でした。



 朝の桟橋に、たべびといやたべどりが待っていました。