すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

8月9日『ミス・サンシャイン』

2022年08月09日 | 読書
 新潮社のPR誌『波』8月号の編集後記で、「夏らしい本」と選んだ一冊として、この小説があった。「夏らしい本」と言われ、それぞれにイメージはあるかもしれないが、他に挙げられている『黒い雨』や『長崎』という書名をみれば、そうかと思う。日本人が「夏」の受け止め方として、心の中に留めておきたい一つだ。


『ミス・サンシャイン』(吉田修一  文藝春秋)


 一人の大学院生と往年の大女優の交わりを描く物語。女優が歩んだ道の起点であり背景であるのが、戦争と原爆といっていい。人間はいつも取り返しのつかない事をする。今も現実にある禍によって、多くの命が奪われ消滅しているが、生き残った者にとって、その命と共に居た共に歩んだ濃さは薄まるわけではない。



 サンシャインという呼称に宿る輝き、眩しさ、そして熱。それらを織り交ぜ戦後昭和における映画や芸能等の歴史に沿いつつ、フィクションながら「和楽京子」という女優が存在したかのように作りあげた道筋は、さすが吉田修一だと感じた。一番熱を感じたのは「返せ、返せ」という台詞にあったことも見逃せない。


 深い一節だ。「どんなに特別な人も普通の人なのだという(略)逆に言えば、特別な人など、どこにも存在しないという(略)言葉にすれば当たり前すぎることだが、この意味をきちんと理解出来るようになった人だけが真実の幸福を知るのかもしれない」一個の命の価値は全て同じと思える体験は、積み重なるものか。


 私たちが、遠い地の、また遠い昔の日の、悲惨な出来事にどう向き合うか。何かしらの関わりを推し進めるという方法も必要だ。同時に今ある「生活を美しく」する構えを持っていないと、命は磨けないのではないか。磨けていないと輝きも叫びにも真に反応することはできない。まずは、落ち着いて身の周りを見る。

夏に熱かった女子の言い草

2022年08月07日 | 雑記帳
 先月は毎週「週刊文春」を購読した。安倍元首相の狙撃事件が主記事になっていたわけだが、連載陣の多くも触れていた。その中で一番気になったのは、狙撃直後(生死もわからない段階)でいち早くネットへ発信した者たちが一様に「犯人の動機はともかく…」と共通した見解を述べたことに対する能町の評価だ。

 つまり彼らは、これらの事件をごっちゃにして、「差別はやめよう」というごく真っ当な主張に乗っかって「権力者の悪口もやめよう」を広めようとしているのです。
  能町みね子(週刊文春7/28  言葉尻とらえ隊)



 これは小説なので、作家の考えそのものとは言い難いが、叫びがストレートなだけに、人格の一部に存在することは確かだろう。「食欲」を客観的に表現した一断面。確かにその通りではあるが、それゆえ「食物」や「料理」を文化と思えない不幸せ。人は誰しも「何か」についてこんなふうに思い込んでいないか。

 身体に食料を取り込むほど空しい作業はない。取り込んでも取り込んでも、身体は毎日食事という行為を要求してくる。身体は暴君で、私はその要求を満たすための、ただのしもべだ。
  李琴峰(ちくま8月号 肉を脱ぐ3)


 「私を追悼しないで」と一般人が口にしたら、オマエはナニサマだと笑われるのが関の山。名の知れた詩人だからこそ「追悼」というイベント的空気の存在が気になるのだと言いたくなる。メディアに取り込まれれば全てはコンテンツ。その芽はきっとネット以外にもあって、真剣に人に対峙していない場で使われる。

 人が人であることをどこまでも尊重するふりをして、人をコンテンツにするきっかけにしないでほしい。もっと、勇気を出して、生きている人間がコンテンツになっていることに無自覚な人々の感覚こそが(そしてそれに耐えうる強度を持つコンテンツ側の人間が)面白いのに。
  最果タヒ(ちくま8月号 どうか私を追悼しないでください)

漫談芸人やら船長やら

2022年08月06日 | 雑記帳
 『なまけていません』という絵本をこども園で二日続けて読んだ。シリーズもので2冊あったが、こちらは登場人物の会話のやりとりが主の流れだ。下読みをしている時は気づかなかったが、子どもたちの前で語り出すと、無意識に脚色が強くなっていくのか、「この調子、誰かに似てきたなあ」という思いがよぎった。


 ああ、あの浅草の…そうだ「ぴろき」だと思い出す。自虐ギャグのウクレレ漫談。かつて「笑点」に出演したことがあったが、それ以外のお笑い番組にはまず登場しない。数年前の寄席で二度ほど見たことがあり、なんとなく憐れみを伴う親近感を覚えて、売りに来たその場でCDを買ってやった(笑)。憑依されたか。


 同じ日に中学生の職場体験学習があり、最後に「絵本講座」と称して50分ほど、三人の女子中学生を前に語らせてもらった。簡単に絵本の種類のことなどを話しつつ、いくつかの絵本を読み聞かせる形だ。メインは『海の見える丘』(くすのきしげのり)。いつか朗読したいと思っていた作品なので、いい機会となった。



 冒頭の一句「人は、自らの人生を俯瞰するとき、そこに何を見るのでしょうか」の「俯瞰」という語だけは説明を加えた。実は絵本の注釈としては「キャプテン=船長」が唯一あるのだが、そこは触れなくとも進められると判断した。ただ掘り下げると、「船長」という語には深い意味があることを、読了した後に思う。


 人物としてのキャプテンの職業は「画家」だが、存在として「船長」。大海原に乗り出す船の長。それは乗員の行く先を導いてくれる者という意味を持つ。同時に、町全体を大海原と帆船に見立てて描いた意図は、人々が個々の人生の船長であれというメッセージだ。見事な結び。船長だったら憑依されてもいいかな。

ハシビロコウとナマケモノ

2022年08月04日 | 絵本
 絵本にはシリーズものがよくある。同じように見えても、同じように扱っていいというわけではない。この二つの絵本で考えた。


『うごきません。』
  (大塚健太 柴田ケイ子 パイ・インターナショナル)




 ハシビロコウという鳥が主人公。池のほとりでじっと動かないまま、様々な(変な意匠をこらした)動物たちが傍にきてもいっこうに動ぜず、黙っているのだが、池の中に小魚が浮かんだのを見つけると…。「うごきません」というフレーズを一ページごとに繰り返していくパターン。どんな「オチ」になるか興味が高まる。


『なまけていません。』
  (大塚健太 柴田ケイ子 パイ・インターナショナル)




 同じコンビによる似たパターン。樹木にぶら下がっているナマケモノ。森の仲間たちに、注意されたり、様々な誘いをうけたりしても、「なまけていません」というフレーズを繰り返す。これも一ページごとに展開するので、聞き手はセリフを予想しながらも、どんな「オチ」になるだろうかと、期待を高めるだろう。



 「うごきません」の方が先に発刊されているのだが、そちらにナマケモノが速く走る!という登場の仕方をするので、二つ続けて取り上げるとしたら「なまけていません」の方を先に読む方法も考えられる。ただよく考えると、物語のつくり方が異なりそこは慎重にするべきだ。シリーズではあるが大きな違いがある。


 それは読み手として考える人称のことだ。「うごきません」はほぼ語り手の視点で構成される。それに比べて「なまけていません」は登場人物の会話が主になっている。説明的か、物語的かといった違いにもなる。従って、似たようなトーンで読んでは魅力が伝わりにくいだろう。2冊続けて楽しむには意識すべきだ。

待ちながら書く、書きながら…

2022年08月01日 | 読書
 「待つ」存在でありたい。しかし、いったい何を…。時間が経過することによって変わりゆくものは仕方ない。自分の身体はもちろん、目に映る万物もまた同様だ。ゆっくりとこの本に向き合い、湧き上がってくる想念を焦らず綴ってみよう。その中で、生まれるいや見落としていた何かがきらりと光るかもしれない。


『「待つ」ということ』(鷲田清一 角川選書396)

 「まえがき」P9より
せっかちは、息せききって現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、じつは未来を視野に入れていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着をみようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。



 三十代前半、校内授業研の折だったろうか、実践派で知られるベテラン教員が「久しぶりに、間のある授業を見た」と褒められたことがある。今でもその事を覚えているのは、それが仮に相対的事実であったとしても、当時「待てない」自分に苛立っていたからだと思う。優れた教師の条件までほど遠さを感じていた。


 数多く参観した名人、達人と称される教師の授業の多くに共通していたことの一つは「待つ」であった。そして今改めて思い返すと、それは単に物理的な時間ということだけでなく、精神的な広さや深さを意味していることに気づく。子どものどんな応えに対しても、受け入れ受けとめ、それを「道」として認める…。


 問いを発し、答えを待つ。そのとき何を思っているかと言えば、予め想っていた反応しかない。それ以外の言葉や動きに余裕を持って接することができても、自分の思い描いていた「未来」に誘導しただけではないか。僅かに納得できる場合があったとすれば、それは子ども自身が「問い」「願い」を持った時だったと…。