「コバルト風雲録」久美沙織
これはマニア向け、一般の方は読む必要がない。
初期コバルト事情が知りたい方が読む本である。
さて、いつから「小説ジュニア」が「コバルト」になったのだろう?
私の記憶では、氷室冴子さんの「雑居時代」連載が「小説ジュニア」として最後あたりだった、と思う。
・・・今、本棚の「雑居時代」を手元にもってきた。
あとがきを読むと次のように書かれている。
このお話は、「小説ジュニア」の1981年10月号から、1982年6月号にかけて連載されました。
となると、この1982年6月のあとに、「コバルト」になったことになる。(あるいは、1982年連載途中で変わったかもしれない)
これも私の想像だけど、「小説ジュニア」の文庫シリーズ=コバルト・シリーズは(採算がとれる程度)売れていたけど、
雑誌「小説ジュニア」は、だんだん購読者が減少して、売れなくなってきたように感じた。
それで、雑誌名称を「コバルト」に変えて、隔月でリニューアルした、と思う。
以上、私の推測はここまでとして、以下、興味深い文章を紹介する。
P27
ちにみに「少女小説」といういいかたは、吉屋信子先生がはじめておっしゃったようで、これを「継承しよう」と提言なさったのが、コバルト初期時代の、氷室冴子せんせいでした。
そもそも、「少女」とか「少年」とかいうものがあくまで近代の産物であり、義務教育でほぼ国民全体が「学校」にいくようになるまでは存在しなかったものだということはぜひ、理解してください。
江戸時代の女子は、「こども」→「女童」→「娘」→「年増」です。
P49
「よくって?わたくしたちは、けっして、いまの目の前の読者にだけ書くのではないの。十年後、二十年後の読者のかたがたに向けても、書かなくてはならないの。そうでないなら、わたしはあなたを軽蔑してよ、わかった、ひろみ(?)」
と、ある時わたくしめにおっしゃったのは、お蝶夫人ではなく、金髪巻き毛でもなかった、稀代の天才小説家、氷室冴子せんせいでした。
P266
故人になられてしまった多田かおる先生が、『愛してナイト』だったかなぁ、もうすっごいッハッピーでラブリーで可愛くてステキなマンガを連載していた時、「大好きなんですよ-」と、とある編集さんにいったら、・・・・・・実は、多田先生はいまたいへんで、闘病中の母上が入院しておれれる病院にツメておられて、病院だから消灯がある、夜中にも描かないとシメキリに間に合わない、だからあの作品は真夜中でもちゃんと灯りのある「階段」の冷たいタイルにひと晩じゅう腰を据えて描いておられるのだ・・・・・・という打ち明け話を、聞かされたことがある。
(中略)カゲリひとつないマンガのキャラたちの笑顔をみているうちに、どうしようもなく泣けてきて、以来、多田作品は、おかしければおかしいほど泣かずに読めなくなった。作者ご本人が天国にいってしまってからはなおさらである。
【ネット上の紹介】
ライトノベルにいたる少女小説の歴史をがむしゃらに駆け抜けた久美沙織が、激動のエンタメ文芸業界波瀾万丈の作家人生を裏の裏までぶっちゃけた。
[目次]
望郷の巻(コバルト以前!;メディアがこうも違ってくるとねぇ…;生ける伝説・氷室冴子;輝く鬼才・新井素子;えっ、うそ、わたしが?);疾風怒濤の巻(一ツ橋vs音羽;読者という“強敵”;蝶はここにはすめない!;シタヨミ職人たちに花束を;いまはもういないあのひとのこと;SFの洗礼);乱の巻(『おかみき』罵倒の嵐事件;愛に関しての深遠な問題;時利あらずして、騅ゆかず;天空夢幻の戦い;永遠の二年生)