百醜千拙草

何とかやっています

民主党の科学政策など

2009-09-04 | Weblog
8/20号、総選挙の前に発行されたNatureのニュースセクションで、政権交代によって日本の科学政策がどう変わるか、という記事が鳩山さんの写真入りで載っていました。まずは、この政権交代の歴史的な意義に触れた後、民主党の科学政策、とりわけ、財源問題が及ぼす影響についての懸念を表しています。道路工事やダム建設などの大きな計画にかかる費用を削って、子供手当て、その他の財源に当てるという計画、官僚から決断権を政治家に取り戻すとの民主党の方針が紹介されています。理研の和田さんは、民主党がどれだけ官僚の描いた絵なしで、実行できるのか、と疑問を投げかけています。(官僚なしでは何もできないのは、自民党の方でしたが)民主党政権下では、大規模な科学プロジェクトは大幅に縮小することになる可能性があり、事実、マニフェストには、理研を含む日本の大きな研究施設の制度の見直しがあげてあります。私は、特に生物医学研究においては、トップダウンの大プロジェクトは、日本の科学の発展の上で大変、有害であると思っていますので、研究単位を小さくし、研究者主導のプロジェクトを増やし、大プロジェクトや大研究施設のビュロクラシーを無くしていく事が大切だと思いますので、この方針は歓迎です。スタンフォードで工学博士をとった鳩山さんは、Natureからのインタビューで基礎科学研究を強くサポートすると述べたそうです。民主党は、科学技術戦略省を設置するということで、現在問題となっている例の2700億円プロジェクトの施行見直しにかかわってくる可能性があります。そもそも、この2700億円を30人で分けるというバカげた計画は、科学研究政策の経験の殆どない野田聖子の思いつきで、その利権を享受できそうな有力大学関係者が煽ったという話ですから、私、個人的には中止するのが皆のためであると思います。元阪大総長の岸本さん(キシチュー)は、「これまでも、このような大きな大プロジェクトで資金が浪費されてきた。この2700億円は、一千万円単位の研究グラントにして、その1000倍の数の若手研究者をサポートする方が余程、有益であろう」と述べています。Natureは、地球温暖化政策について、自民党は京都プロトコールの目標値を達成できず、その達成目標もかなり甘いものであったことを批判し、民主党の10年間で1990年レベルから25%のCO2削減という計画を歓迎しています。対して、例の自民党幹事長は、そんなにCO2を削減しようとしたらGDPが3.2%も落ちてしまう、といつものようにGDP至上主義的発言をしたという話で記事は終わっています。前回の自民党の経済対策を自画自賛した時といい、この人は地球の未来よりGDPの方が大事なのね、と思ってしまいます。「へぼ将棋、王より飛車を可愛がり」というところですか。

続くページには、ヒトゲノムプロジェクトのリーダーで前のヒトゲノム研究センターディレクターのフランシスコリンズがNIHのディレクターに就任の記事。人柄も良いし、適任と思うのですけど、批判する人は、彼が遺伝学者であって、現在の医学、生物学研究の「分子遺伝学」偏向傾向がますます助長され、NIHのサポートの偏りが悪化するのではないかという懸念を挙げています。もう一つ、彼は敬虔なキリスト教信者であり、その宗教に基づいた判断を科学政策に持ち込むのではないか、という懸念があるようです。後者については、彼自身が否定していますし、私は、そもそも、宗教と科学は対立したりできるような同じレベルのものではないと思いますので、こういう懸念を持つ人の気持ちがわかりません。私は、特別な宗教を実践しているわけではありませんけど、科学のできることは限られており、その科学の閉じた世界の外には、宗教みたいなものでなければ扱えないものがあると考えていますので、天とか神とか、何と言ってよいのかわかりませんけど、そんなものを信じております。それなしに、科学が与える世界観やパラダイムのみを信じていては、人生は余りにミゼラブルです。それはまるで、自分で作った檻の中に自らを閉じ込めるようなものです。私はそう考えているのですが、Templeton Foundationや、コリンズ自身が今年作ったBioLogas Foundationのように、科学と宗教の間を埋めたいと、どうも西洋人は考える傾向があるようで、その辺の思考回路はちょっと私には理解できません。科学と宗教というのは、喩えてみれば、科学が今晩のゴハンであるとすると、宗教はそのゴハンの味であると思うのです。科学がTangibleな対象を客観的に扱うのに対して、宗教での経験はあくまで、ゴハンの味が味覚の神経を通じて脳内で再構築されたものであるのと同様、主体がなければ成立しないものだと思います。ゴハンが食べ物という物質として存在しているのは多くの人が認めるでしょう。物質としてのゴハンはいくらでも科学の研究が可能です。でも味わう人がいなければ、「ゴハンの味」というものは存在しないと思うのです。宗教とはそんな主観レベルのものだと思います。だから、ギャップを埋めると言っても、そもそも存在する世界もレベルも違うもので、ギャップがあると思うこと自体がおかしいし、それを埋めようとする事自体がナンセンスだと私は思うのですけど。
どうでしょうか?
コメント
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