百醜千拙草

何とかやっています

ちょっといい言葉(3)

2009-09-22 | Weblog
 子供のサッカーシーズンが始まりました。クラブチームでプレーし出したので、日曜日は試合で半分は結構遠くの町まで試合に行きます。先週末は車で1時間ぐらいの所まではるばる遠征しました。数年前に比べて試合のレベルも上がって来ているので、試合を見るのもなかなか楽しいです。 
 ウチの子はスピードがあるわけでも、ストライカーでもないのですけど、ときどきうまく相手のボールをトラップしてよいパスを出すことがあって、主にミッドフィールダーとして使ってもらっています。実際、本人も、はミッドフィールドでボールを奪って、アシストするというスタイルが好きなようです。ところが、前のシーズンの終わりの試合では、ウチの子は後半でゴールキーパーをやらされ、試合の後その事が気に食わなかったようで、たらたら文句を言っていました。キーパーは余り人気のないポジションで、しかも出来る子が少ないので、試合では、二三人で交代しながらやっていたのです。その試合を横から見ていて分かった事は、両チームとも守備が悪いということでした。ディフェンスが余り機能していません。それまで、ウチのチームは、体は大きいが動きが遅いゴーリーを使っていて、2点を入れられていました。守備にもう少し力を回さねばならないのは明らかで、それでコーチはゴーリーを変えたのです。ウチの息子は、そのコーチの配慮が読めなかったのです。「彼ならゴールを守ってくれるだろう」というコーチの期待を汲み取ることができず、どうも、ミッドフィールドで活躍する機会を失ったとしか、彼は考えられなかったようなのです。
 このゲームは一点差でウチの子のチームが勝ちましたが、ウチの子の不満を聞いて、夏目漱石の「則天去私」というのは、この試合においては、ミッドフィールダーとしての自分のエゴを取り去り、コーチの意を汲み取って、チームのために働くということであろう、と私は思いました。それが、結局は、巡って、自分自身の満足となるのです。この手の話はスポーツ漫画では繰り返し扱われて来た題材です。個人のエゴとチームの利益とのコンフリクトは、スポーツに限らず、この世の常です。政党利益か個人の権力欲か、ソロデビューかバンド活動か、日本の国益か地球の平和か、例を挙げればきりがないですが、こうした集団と個人という関係でなく、もしも相手が「天」であった場合は、個人に勝ち目はない、というのは明らかです。
 わたしたちはしばしば天の配慮が理解できません。多くの人が、世界というチームが果たすべき目的に沿って、天からしかるべき役割を与えられているという自覚が乏しいのです。だからゴーリーなのに、敵陣に走って行って、点をとられて、痛い目にあうということがしばしば起こるのです。私たちが、折りにつけて、神仏に祈るとき、自分の欲望を満たしてくれるようなお願いをします。「無事、試験に合格させて下さい」とか「昇進させて下さい」とかですね。それが天の配慮に合わなければ、いくら祈ったところで、かないません。ケネディーは就任スピーチで、「国が諸君に何をしてくれるか期待するのではなく、諸君たちが国にどう貢献できるかを考えて欲しい」と言いました。国を天と言い換えれば、私の言いたいことと同意です。もしも、天の配慮にしたがって、その目的を達成するために、自ずから努力するならば、天は手助けしてくれるはずです。チームの勝利のために与えられた役割を果たせば、自分が目立ったプレーをしたいというエゴを満足させるよりも、チームの勝利というより大きな喜びが得られます。また、エゴにドライブされる勝手なプレ-はしばしば、逆にチームに悪い結果をもたらし、「自分があんなに活躍したのに、チームが負けた」という勘違いとフラストレーションをもたらします。これは不幸です。世の中の「自分はこんなに頑張っているのに報われない」と文句を言う人を横から見ていると、自分の属する共同体の目的が見えていないでやみくもに動き回っているだけだったりするのに気がつくことが多々あります。謙虚に、天が自分に求めていることを感じ取り、どうやったら自分が世界に貢献できるかを考え、行動すること、これが、成功と幸せへのコツだと思います。私は事実、このことを思い出すことによって、グラント危機での精神的ストレスを乗り切りました。その話はまた今度。(続く)
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