先日、研究を手伝ってくれている若者(二十台女性、一流大学出身)と昼ご飯を食べていたときに「民主主義」の話になりました。私が、「民主主義は最適の政治形態ではないが、、、」と言いかけたとき、彼女は妙に興奮して、「私も、民主主義は良くないと言い続けて来たのに、誰も賛同してくれない」と言ったので、私は「あらら」と思いました。私は、続けて、チャーチルの言葉、「民主主義は最適ではないが、他の政治形態よりましである」を引用しかっただけで、私は基本的に民主主義を支持しているのですけど、彼女はどうも、私が反民主主義者であると勘違いしたようなのでした。
過去の歴史を振り返って、民主主義が衆愚政治と呼ばれるように、現代の我々の基準に照らしてみて、「愚かな判断」をしてきた例には枚挙がありません。彼女の意見のウラには、民衆は愚かであり、彼らの集合的意志が政治的判断に反映される民主主義という政治形態は、非効率で誤りやすい、それよりも、もっと賢明で思慮深い人々に判断を託す方が効率的で誤りにくいはすだ、という理屈があるのだろうと思います。彼女は医家の出で一流大学を出た才女ですから、おそらく、これまでの人生では、競争に勝ち続けて来た人なのだろうと思います。そこは、優劣、賢愚、正誤が比較的明らかに判断できる世界です。多分、彼女にとっては、ある種の判断は「明らかに誤り」であったり、「明らかに正しい」かったりするわけででしょう。そして実際に、彼女の属する社会の中で、彼女の意見に反して、「明らかに誤った判断」を人々が支持して、彼女の予想通りに良くない結果になった、という事例を少なからず経験してきたのだろうと私は想像しました。
私は、それに対して、正しい、誤っている、ということを判断する絶対的な基準はどこにもないから、そもそも「明らかに誤った判断」というものは存在しないのだ、と反論しました。愚かな民衆は誤った判断を下す、あるいは、賢者は誤った判断を下しにくい、という文脈での、「正誤の判断」というのは誰がするのか、という話です。誰も何が本当に正しいのか誤っているのか、プロスペクティブにはわからない、正誤の判断は振り返ってみて、その時代の人々の(恣意的な)判断基準によって判定されて始めて、評価が可能となるだけし、そのレトロスペクティブな評価でさえ絶対的なものではない、と私は主張しました。ならば、「正しい判断」とは判断するものが正しいと心から信じて行う判断のことであると定義するしかないのではないかと私は思うのです。例えば、放射性物質が最初に発見されたころ、それを服用すると健康を増進するという販売会社の宣伝を信じて、毎日、健康のために放射性物質を服用した結果、著しく健康を損ねて死んでしまった人の実例を私は知っています。当事者にとって、「放射性物質は健康に良いから毎日服用しよう」という判断が正しいか誤っていたか、それはその後の数々の放射線障害の実例が積み重ねられてから、誤った判断であったと後から判定されるものですし、その判定でさえ、しばしば覆ります。そして、歴史の一回性のために、たとえ同じような状況が繰り返されたとしても、その場その場における判断の正当性が絶対的に証明されることはありえません。ならば、地球という一つの星を共有している人々が、それぞれの事情に基づいて、正しいと信じることの最大公約数を行う、民主主義はおそらくベストの選択なのであろうと私は思います。
先週末の「内田樹の研究室」のエントリーで、表現に対する法的規制を加えることについて書いてありました。表現を法的な規制のもとに置くことの是非を論ずる以前に、そもそも「有害な表現」というものが何であるのか、正しく理解されていない、というか、「有害な表現」などというものは存在しない、というようなことが議論されていました。多くの人々は「有害な表現」というものがアプリオリに存在すると思い込んでいるようですが、それは本当にそうなのか、という話です。一つの例え話として、次のようなことがことが述べてあって、これを読めば多くの人はその通りだと賛成するのではないでしょうか。
それ自体有害であるような表現というものはこの世に存在しない。
マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁にどのようなエロティックな図画が描かれていようと、どれほど残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができない。
「有害」なのはモノではなく、「有害な行為」をなす人間だからである。
表現においてそれが有害であるかどうかは、それを見る観測者によって判断されるというわけで、その判断の主体がなければ、有害も有益もないということです。「表現の規制」問題は、当然、誰かがそれを見て判断する、ということを前提として議論されているので、「有害な表現」という言葉尻をとらえて屁理屈を言うな、という怒る人もいるでしょうが、それでもなお、誰が判断するのか、ということが厳密に議論されていない以上、もちろん、その判断の基準には人によってかなりの幅があると思われますし、よって、Blanketに「有害な表現」と判断されるようなものは、やはり存在しない、と私は思います。
同様に、民主主義での民意も、民意そのものが正しかったり誤っていたりするのではない、と私は思います。人々の最大公約数的意見を聞き、その成り行きを見た者が、正しい、誤っているという判断を下すわけで、民主主義が誤った判断を下すと判断するのは、その判断なり、その判断がなされた後に起こったことなどが気に入らない人々です。勿論、人にはもの分かりの早い遅い、素質の優劣、そんなものがありますから、多くの人々よりも、いち早く、彼らが後に誤った判断であったと反省することになる判断に気づく人もいます。前出の若者もそういう人の一人なのであろうと思います。
しかし、先を見通せる頭の良い人が「民意」を斟酌せず政治を行えば良いという意見には私は反対です。それは同じ地球という一つしかない場所に住む仲間同士として衆愚もエリートも、共に成長しなければならないと思うからです。いわば、地球は永久にクラス替えのない学校のようなものです。いくら自分の頭が良かろうと回りのそう賢くないクラスメートとずっとつき合って行かなければなりません。地球は自分だけのものではありません。そこに必要なのは思いやりであってエリート意識ではありません。回りのクラスメートがより良いと思える判断ができるように助けてやるのがエリートの役割であり、衆愚と見下すようでは、それは良い判断ではない、と私は考えるからです。ソクラテスが毒杯を敢えて飲んだように、人は例え愚かな判断であると知っていても、皆が決めたことを尊重しなければならないと思います。その思いやり、お互いを尊重する気持ち、というものが大切であると思うからです。
これまでの議論と矛盾するように聞こえるかもしれませんけど、実は、私は、善悪というものは比較的絶対的な基準で決まっていると考えています。
私は、人類は成長するために生きていると思っています。それは、低い段階から高い段階へ、遅れた段階から進んだ段階へと移行することです。この点において、私は「絶対的な善」というものを信じています。この善に近づいていくことが人間の成長であると思っています。(こういう基準がなければ、高低、進遅、成長する、しない、というようなことを議論できません)この善は人間が判断する「善悪」ではなく、善として絶対のものです。ですので、人間の行う判断そのものに善悪、正誤は内在していなくとも、物事や判断には、絶対的に善に近いこと、あるいは、悪に近いことはある、と思います。
有害表現というものが、人間なり何かに対して害を及ぼす表現、という意味であるなら、確かに有害表現というものは存在しないか、少なくとも定義をもう少し精密にすべきであろうと思います。しかし、例えば、「善い表現」というものなら、存在すると私は考えております。それで、子供には、言葉遣いや振る舞いに気をつけよ、と私はいつも言うのです。それは、良くないと考えられている言葉を使うことで周囲から受けるであろうネガティブなconsequenceを避けるというプラグマティックな理由以上に、人間は成長するために生きており、それは絶対善に近づくことであると私が信じているからです。言霊という言葉もあります。言葉にしたことは現実に実現する可能性も高くなります。そういう意味で、自らが良くないと判断する表現を使うことは有害な結果を及ぼす確率を上げることになるでしょうから、個々人にとって「有害表現」というものがあるのは間違いないでしょう。加えて、私にとっては、絶対的な善を理解し実践する妨げになるようなものは有害であると言えます。(絶対的善の存在については、これは殆ど信仰の問題にちかいもので、幽霊が見えない人に幽霊の話をするようなものなので、ここではこれ以上触れません)
過去の歴史を振り返って、民主主義が衆愚政治と呼ばれるように、現代の我々の基準に照らしてみて、「愚かな判断」をしてきた例には枚挙がありません。彼女の意見のウラには、民衆は愚かであり、彼らの集合的意志が政治的判断に反映される民主主義という政治形態は、非効率で誤りやすい、それよりも、もっと賢明で思慮深い人々に判断を託す方が効率的で誤りにくいはすだ、という理屈があるのだろうと思います。彼女は医家の出で一流大学を出た才女ですから、おそらく、これまでの人生では、競争に勝ち続けて来た人なのだろうと思います。そこは、優劣、賢愚、正誤が比較的明らかに判断できる世界です。多分、彼女にとっては、ある種の判断は「明らかに誤り」であったり、「明らかに正しい」かったりするわけででしょう。そして実際に、彼女の属する社会の中で、彼女の意見に反して、「明らかに誤った判断」を人々が支持して、彼女の予想通りに良くない結果になった、という事例を少なからず経験してきたのだろうと私は想像しました。
私は、それに対して、正しい、誤っている、ということを判断する絶対的な基準はどこにもないから、そもそも「明らかに誤った判断」というものは存在しないのだ、と反論しました。愚かな民衆は誤った判断を下す、あるいは、賢者は誤った判断を下しにくい、という文脈での、「正誤の判断」というのは誰がするのか、という話です。誰も何が本当に正しいのか誤っているのか、プロスペクティブにはわからない、正誤の判断は振り返ってみて、その時代の人々の(恣意的な)判断基準によって判定されて始めて、評価が可能となるだけし、そのレトロスペクティブな評価でさえ絶対的なものではない、と私は主張しました。ならば、「正しい判断」とは判断するものが正しいと心から信じて行う判断のことであると定義するしかないのではないかと私は思うのです。例えば、放射性物質が最初に発見されたころ、それを服用すると健康を増進するという販売会社の宣伝を信じて、毎日、健康のために放射性物質を服用した結果、著しく健康を損ねて死んでしまった人の実例を私は知っています。当事者にとって、「放射性物質は健康に良いから毎日服用しよう」という判断が正しいか誤っていたか、それはその後の数々の放射線障害の実例が積み重ねられてから、誤った判断であったと後から判定されるものですし、その判定でさえ、しばしば覆ります。そして、歴史の一回性のために、たとえ同じような状況が繰り返されたとしても、その場その場における判断の正当性が絶対的に証明されることはありえません。ならば、地球という一つの星を共有している人々が、それぞれの事情に基づいて、正しいと信じることの最大公約数を行う、民主主義はおそらくベストの選択なのであろうと私は思います。
先週末の「内田樹の研究室」のエントリーで、表現に対する法的規制を加えることについて書いてありました。表現を法的な規制のもとに置くことの是非を論ずる以前に、そもそも「有害な表現」というものが何であるのか、正しく理解されていない、というか、「有害な表現」などというものは存在しない、というようなことが議論されていました。多くの人々は「有害な表現」というものがアプリオリに存在すると思い込んでいるようですが、それは本当にそうなのか、という話です。一つの例え話として、次のようなことがことが述べてあって、これを読めば多くの人はその通りだと賛成するのではないでしょうか。
それ自体有害であるような表現というものはこの世に存在しない。
マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁にどのようなエロティックな図画が描かれていようと、どれほど残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができない。
「有害」なのはモノではなく、「有害な行為」をなす人間だからである。
表現においてそれが有害であるかどうかは、それを見る観測者によって判断されるというわけで、その判断の主体がなければ、有害も有益もないということです。「表現の規制」問題は、当然、誰かがそれを見て判断する、ということを前提として議論されているので、「有害な表現」という言葉尻をとらえて屁理屈を言うな、という怒る人もいるでしょうが、それでもなお、誰が判断するのか、ということが厳密に議論されていない以上、もちろん、その判断の基準には人によってかなりの幅があると思われますし、よって、Blanketに「有害な表現」と判断されるようなものは、やはり存在しない、と私は思います。
同様に、民主主義での民意も、民意そのものが正しかったり誤っていたりするのではない、と私は思います。人々の最大公約数的意見を聞き、その成り行きを見た者が、正しい、誤っているという判断を下すわけで、民主主義が誤った判断を下すと判断するのは、その判断なり、その判断がなされた後に起こったことなどが気に入らない人々です。勿論、人にはもの分かりの早い遅い、素質の優劣、そんなものがありますから、多くの人々よりも、いち早く、彼らが後に誤った判断であったと反省することになる判断に気づく人もいます。前出の若者もそういう人の一人なのであろうと思います。
しかし、先を見通せる頭の良い人が「民意」を斟酌せず政治を行えば良いという意見には私は反対です。それは同じ地球という一つしかない場所に住む仲間同士として衆愚もエリートも、共に成長しなければならないと思うからです。いわば、地球は永久にクラス替えのない学校のようなものです。いくら自分の頭が良かろうと回りのそう賢くないクラスメートとずっとつき合って行かなければなりません。地球は自分だけのものではありません。そこに必要なのは思いやりであってエリート意識ではありません。回りのクラスメートがより良いと思える判断ができるように助けてやるのがエリートの役割であり、衆愚と見下すようでは、それは良い判断ではない、と私は考えるからです。ソクラテスが毒杯を敢えて飲んだように、人は例え愚かな判断であると知っていても、皆が決めたことを尊重しなければならないと思います。その思いやり、お互いを尊重する気持ち、というものが大切であると思うからです。
これまでの議論と矛盾するように聞こえるかもしれませんけど、実は、私は、善悪というものは比較的絶対的な基準で決まっていると考えています。
私は、人類は成長するために生きていると思っています。それは、低い段階から高い段階へ、遅れた段階から進んだ段階へと移行することです。この点において、私は「絶対的な善」というものを信じています。この善に近づいていくことが人間の成長であると思っています。(こういう基準がなければ、高低、進遅、成長する、しない、というようなことを議論できません)この善は人間が判断する「善悪」ではなく、善として絶対のものです。ですので、人間の行う判断そのものに善悪、正誤は内在していなくとも、物事や判断には、絶対的に善に近いこと、あるいは、悪に近いことはある、と思います。
有害表現というものが、人間なり何かに対して害を及ぼす表現、という意味であるなら、確かに有害表現というものは存在しないか、少なくとも定義をもう少し精密にすべきであろうと思います。しかし、例えば、「善い表現」というものなら、存在すると私は考えております。それで、子供には、言葉遣いや振る舞いに気をつけよ、と私はいつも言うのです。それは、良くないと考えられている言葉を使うことで周囲から受けるであろうネガティブなconsequenceを避けるというプラグマティックな理由以上に、人間は成長するために生きており、それは絶対善に近づくことであると私が信じているからです。言霊という言葉もあります。言葉にしたことは現実に実現する可能性も高くなります。そういう意味で、自らが良くないと判断する表現を使うことは有害な結果を及ぼす確率を上げることになるでしょうから、個々人にとって「有害表現」というものがあるのは間違いないでしょう。加えて、私にとっては、絶対的な善を理解し実践する妨げになるようなものは有害であると言えます。(絶対的善の存在については、これは殆ど信仰の問題にちかいもので、幽霊が見えない人に幽霊の話をするようなものなので、ここではこれ以上触れません)