百醜千拙草

何とかやっています

多様性の喪失とCanalization

2014-06-10 | Weblog
どうでもいい話ですが。

週末、テレビを久しぶりに点けたら、フレンチオープンの決勝をやっていました。テニスをしなくなってから、すっかりプロテニスには疎くなっていましたが、決勝のナダールとジョコビッチは知っています。多くのテニスファンの人もそうだと思いますが、私はネットプレーヤーの方が好きです。今年からフェデラーのコーチをやっているエドバーグが現役のころのネットプレーは美しかったですね。当時、レンドルが、薄い握りの威力の無いエドバーグのフォアハンドをさして、「フォアのグラウンドストロークもまともに打てない」と批判していましたが、そういうレンドルは、「ガツン、ガツンとボールを機械のように打ち続ける、まるで役所の役人が判子を押すかのようなテニス」と一部のアンチファンからは言われていました。とにかく、当時は少数とは言え、まだまだプロのネットプレーヤーはいて、ネットプレーヤー対ストローカーの試合は見ていて楽しかったです。いろんなスタイルのプレーヤーがいました。エドバーグのようにグラウンドストロークに威力がなくてもネットでカバーする人、マイケルチャンのように低身長を足の早さと長ラケでカバーする人、女子でさえ、ナブラチロワのようにネットプレーを主体にする人が居ました。しかし、残念ながら、今はラケットの性能の向上によって、ネットプレーヤーではなかなか勝てなくなってしまいました。選手は背が高くて、そこそこ早いサーブを打てて、何より強く正確なグラウンドストロークと体力が必須であり、しかも殆どそれらの優劣だけで試合が決まるかのようになりました。

今回のフレンチオープンも、あの暑苦しい赤土の上で、ベースラインからボールをひたすら打ち合うという暑苦しい試合展開。ジョコビッチがたまにやるドロップショットでネットに出てくる事はありましたが、サーブからボレーへの美しい昔ながらの動きはなし。試合を見ていて、ふと、二十年ぐらい前のフレンチオープンを思い出しました。たしか、決勝がアガシ対クーリエ。二人とも、ベースラインからバコバコと打ちまくる素人が見ていると余り面白くない試合でした。アガシはボールを打つタイミングが早く、時に驚くようなショットを出すので、それでも見ていて面白いと思うこともありましたが、クーリエはとにかくミスせずにハードヒットを繰り返すというレンドルタイプで、私はどうも好きになれませんでした。

その当時、生物学研究では、分子生物的実験法が汎用化してきたころで、ネコも杓子も遺伝子組み換え実験、分子クローニングをするという時代でした。ゲノムシークエンス情報も限られており、遺伝子クローニングや遺伝子組み換え技術の汎用化は、いわば、巨大な暗闇の洞窟の中を手探りで進んでいる研究者に与えられた懐中電灯のようなものでした。その分、研究者の方もその灯りを頼りに、様々工夫をしながら、新しいものを見つけて行くという、わくわく感のあった時代でもありました。それ以後の急激な研究技術やインフラの進歩は驚くべきものがあります。しかし、そのせいで逆に研究のスタイルはますます画一化し、違いはスケールと対象物の差、というような感じになってきたような気がします(少なくとも、表面的には)。やることは最初からだいたい決まっているのです。

プロテニスからネットプレーヤーが消えて、どれだけ正確に早いストロークを打ち続けることができるか、という機械のように画一化されたスタイルの選手だけが残る、というのは、見ている側からするとあまり面白くありません。同様に、最近の論文を見ても、ヒトの細胞で包括的タンパク質発現プロファイルをしたとか、ある細胞のゲノムを全部アノテートしたとか、いう研究を見ると、「ふーん、すごいね」というぐらいの感想しか湧いてきません。マススペックやChIP-seqをひたすらを大規模にやりまくっただけではないか(こっちは、カネも人力もないからできないけど、、、)とつい思ってしまいます。もちろん、そうして得られたデータが価値があることはわかります。ただ、そういう研究は、横から見ていて、「面白い」と思えないです。

研究が面白いと思えなくなるのは私にとっては重大事です。そうなれば私は研究をやめなければなりません。プロテニスは、私が面白いと思えるようなスタイルのプレーが消えて行ってしまい、見ていても面白いと思えなくって、自然と見なくなってしました。ひょっとしたら研究もそうかもしれません。これまでは、自然とやりたいことが目の前に表れ、それらをやる意義も社会が認めてくれたので続いてきました。これからもそうであって欲しいと思いますが、先のことはわかりません。研究の方法論的な部分が画一化していて、誰がやっても同じになってしまったら、「私が」研究をする意味は何なのだろうかと疑問に思うでしょう。人間、皆、それぞれにユニークな「Niche」を見つけて生きていくものだと思います。もしも、私のNicheが、研究法の画一化によって、ブルドーザーで地ならしされるように潰されてしまうのであれば、研究は別に自分がやる必要はない、と私は思うだろうと思います。
(ところで本論とは関係ないですが、どうしてステムセル研究者はNicheをニッシュと発音するのでしょう?この辺に私は彼らの微妙なarroganceを感じてしまうのですが、それは私の僻みでしょうか)

プロテニスが、今後また(私にとって)面白くなるか、に関しては私は悲観的です。研究世界の将来も残念ながら、これから二極化が進み(つまり、カネの潤沢な大手研究室が大量データ取得型研究をひたすらやって、弱小研究室がそれらのデータの一部を各々のシステムで小規模にフォローする)、そして少なくとも研究スタイルという意味で、多様性は失われていくのではないか、と思います。行き着く所までいって、煮詰まってしまうまではこの傾向が進むような気がします。それはそれで仕方のないことですが、寂しい気はしますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする