百醜千拙草

何とかやっています

日本人ブランド

2015-02-20 | Weblog
産経新聞に載った曾野綾子さんのコラムの内容に批判が殺到し、南アフリカ大使館が正式に抗議文を出したという話を聞きました。コラムには、南アフリカのアパートで、アパルトヘイトの廃止後に黒人の家族が大挙して入居し、他の住人が逃げ出したという話が書かれています。違う人種の人と一緒に住むのは難しい、という意見のようです。

一歩さがって、この話を眺めると、アパルトヘイトのために貧しい生活を強いられてきた多くの黒人が、その黒人を搾取してきた白人の豊かな生活を脅かしている、ということらしいです。しかし、何と言いますかね。アフリカ人の住む土地にいきなりやってきて武力と暴力で現地住民を奴隷にし、生活どころか生命まで脅かしたのはヨーロッパ人の方です。人間というのはどこまでいっても自分が第一、自己中心的な存在だなあ、と思います。

個人のレベルで「ある人種に属する人には、やっかいな人が多い」という関連性から、人種(や社会レベルや外見などなど)を基準に態度を変えるというのはありうることで、それはある意味、自分自身を守るための方策です。個人のレベルで「南京大虐殺」や「ホロコースト」はなかった、と信じるのも自由です。しかし、それを新聞という「公器」に発表したのであれば、それは問題でしょう。

なぜ人種差別が良くないと世界の大勢が考えるようになったのかは、前世紀までのヨーロッパ帝国主義への反省ゆえではないかと思うのです。ヨーロッパほど酷くはないにせよ、日本でもアジアでも、人種、文化、性、言語、宗教、などなど多くの属性に基づく差別はありました。それは自己を守り利益を上げるために、自分にとって都合の悪い人間は排除し、使える人間は利用していくという利己主義が拡大していった結果であろうと思います。戦争はそのために起こっています。

その過去を反省し、地球は一つであり、同胞は助け合う方が殺し合うよりも効率がよいということを学び、人類は共生していく、そのために差別をなくし、人道主義を支持していくという流れになってきたはずです。他を利することは己の利にも繋がります。視点のレベルを上げてみればあたり前のことです。ダライ ラマは「compassion」を強調します。他人を思いやり、人の過ちを許すことは、許さないことよりも難しいですが、難しいことに挑戦していくことが人間的な意識の進化をドライブしていると思います。

ある種の人種の人とはいっしょに暮らすのは厄介だから離れてくらそう、というのは消極的で簡単な解決策。一緒に暮らすと色々と面倒だが、同じ地球に住む同胞として、折り合いをつけ、一緒に暮らせるように努力していこう、というのが積極的な解決策です。人々は、大変でも積極的に共存、共栄する道を探そうと決意したのです。その困難に立ち向かおうとする人々の思いに反する否言動が日本の新聞でなされたということが残念です。

戦後の日本が世界で活躍できた大きな理由の一つは、「平和主義」、「他人を思いやる心」によって築いてきた「日本人ブランド」ではないかと私は思います。世界の人々から「日本人はいい人が多い」と思われています。私も「日本人だから信用する」と言われたことがあります。勿論、一部の悪意のある人間は、日本人は人がいいから騙しやすいと思っていて、実際に騙されます。私もそのような人間とトラブルになったことがあります。しかし、平和主義で良い人間であることは、そうでないことに比べてはるかにプラスの方が大きいです。悪人も敵もマトメて同じ人間として認め、思いやることのできる度量の大きさが日本人にはあったはずだと私は思います。しかるに、その「日本人ブランド」を平気で傷つけるようなxxの穴の小さい政権や新聞が存在しているのは何故なのか。やはり、貧すれば窮する、余裕がなくなってきているのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする