増税だけして社会保障はホッタラかしだった「社会保障と税の一体改革」、経済成長は全然ダメなのに、刷りまくって円の価値だけ下げた「アベのリスク、三本の矢」、官僚や政治家が、こうしたキャッチコピーを使って、本質を隠し、メディアを通じて印象操作をすることが近年とくに目立ちます。「ポエム化」という現象の一つのようです。最近、東洋経済で、日本の「ポエム化」現象のナゾ、という特集がありました。
官僚コピーライターの書く欺瞞に満ちたキャッチコピー、聴くたびに気分が悪くなりますが、最近、聞いたのは「一億総活躍」というのがあります。早い話が、年寄りなどにも働かせて税金を払わせ、年金を抑え、福祉をもっと削りたい、ということのようです。(昔のアメリカのウーマンリブ運動みたいなものでしょうか)すなわち、もはや一億総中流という時代は終わって久しく、いよいよ一億総下流だということです。が、一億総下流というわけにもいかないので「総活躍」と言い換えたみたいです。そのうち一億総玉砕となるのも遠からずか、というイヤな気分になります。(冗談に聞こえません)
数年前の内田樹の著書の中で、「日本がどんな国になってほしいか」という問いに対して、ある学生が「そこそこの国」と回答したという話があったのを思い出しました。「そこそこ」というのは、他国との比較に基づいて自分の国のポジションをきめようとする自主性のなさ、基準を外に求める態度の表れだろうという解釈であったように思います。
一方、「そこそこ」という言葉には、ある種の肯定性を感じます。「そこそこで、良いじゃないか」みたいに、「そこそこ」という言葉には肯定的な言葉が続きます。「一番にならないと意味がない」みたいな血管が切れそうな緊張感がなく、ま、このへんで手をうっておきましょうか、というようなバランス感覚、極端を嫌い中庸を良しとする、東洋の民族性のような、何となく力の抜けた平和な響きがします。確かに何か外部ものと比べることで己を評価するからこそ「そこそこ」という言葉が出てくるのだろうと思いますが、そこに自己否定やアグレッシブな不愉快な感じはありません。
私、「そこそこ」の国で、みんなが「そこそこ」に生きていけるのであれば、それは理想だと思います。しかるに、勝ち組に入らなければ負け組だ、やらないとやられる、軍国化しないと侵略されて滅びる、そのような二極化に基づく「恐怖心」が、「そこそこ」をよしとする東洋の伝統(?)を破壊しているのだと私は思います。それは、やはり欧米の帝国主義の武力に屈することで始まった日本の近代化(西洋化)という歴史が影響していると思います。
明治期の「脱亜入欧」とか「和魂洋才」とかいう言葉の持つ卑屈さ、恥ずかしさ、気持ちの悪さと比べたら、「そこそこの国」は遥かに高等で平和的な理想像だと思います。それは、黒船がやってきて力づくで開国させられ、力の差を思い知らされた日本が、西洋の猿真似を始め、その西洋に対する劣等感を代償するために他のアジア諸国を差別的に見下した嫌らしさを感じさせます。日本は西洋化しアジア諸国から離れなければならない、そういう現状に対する否定と西洋諸国に対する劣等感とアジア諸国への差別意識が、なんとも下品で情けない。残念ながら、その当時すでに国際資本とつながっていた長州藩の系譜が文字通りに現在の日本政治に受け継がれてきているのだとアベ政権を見ていて実感させられます。
「そこそこの国」は、豊かとは言えないがとりあえず不自由なく生きては行けていけるラクな社会の国、そんな意味で学生さんは回答したのではないかと想像します。つまり、多分、大きな苦労をしなくても親に守ってもらえてそれなりに恵まれて生きてきた若者が、このままの生活が続いてくれるならまずまず満足だ、そんな気持ちで言ったのではないでしょうか。
ならば、国の理想としては「そこそこの国」は、おそらく、もっとも恵まれた形といえるでしょう。そんな生ぬるいことを言っていれば滅びてしまう、世間は厳しいのだ、という人もいることでしょう。ま、そう思う人が多いのは十分理解できます。事実、管理通貨制によって現代日本人は支配者層のカネの奴隷とされ、カネがなければ生きていけないという恐怖によってすでに支配されています。近代戦争のほとんどがカネ儲けのためのヤラセであり、恐怖を通じた人民の支配方法と私は思っていますが、それでも人が死ぬ場面を見せられ、テロの現場を繰り返し見せられれば、そのうち戦争巻き込まれるかもしれないという恐怖にとらわれるのはやむを得ない部分もあります。しかし、戦争やテロに巻き込まれる危険は、おそらく今日、交通事故で死ぬ確率よりもはるかに低いであろうと私は思います。ならば、私は、恐怖にとらわれることなく、「そこそこ」で毎日、幸せを感じて生きていく方がはるかに人間らしい生き方だと思います。どうせ誰もがそのうち死ぬことになるのですから。恐怖にとらわれて目尻にチカラこぶをいれて、一億総活躍だとか総玉砕だとか、と喚く連中に耳を貸すのは真っ平です。大体「一億総活躍」などと大声を上げる人間に限って、しっかりと退職金と天下り先を確保をして、老後は安穏と引退生活を計画しているものです。
私が問題視しているのは、政治家や役人の言葉、官公庁のプレスリリースなど、説明すべき責任のある文章がポエム化していることなのです。本来、情報を運ばなければいけないのに、気分を運んでいる。つまりポエムですよ、、、官僚が官僚的でなくなろうとしたときは、官僚の責任を回避したときや官僚の職分をまっとうしていないときです。だから、官僚がポエムを言い始めたら、何かをごまかそうとしていますよ。私は、役所がカタカナ、英語、やまと言葉を使うときは危険だと思っています。
官僚コピーライターの書く欺瞞に満ちたキャッチコピー、聴くたびに気分が悪くなりますが、最近、聞いたのは「一億総活躍」というのがあります。早い話が、年寄りなどにも働かせて税金を払わせ、年金を抑え、福祉をもっと削りたい、ということのようです。(昔のアメリカのウーマンリブ運動みたいなものでしょうか)すなわち、もはや一億総中流という時代は終わって久しく、いよいよ一億総下流だということです。が、一億総下流というわけにもいかないので「総活躍」と言い換えたみたいです。そのうち一億総玉砕となるのも遠からずか、というイヤな気分になります。(冗談に聞こえません)
数年前の内田樹の著書の中で、「日本がどんな国になってほしいか」という問いに対して、ある学生が「そこそこの国」と回答したという話があったのを思い出しました。「そこそこ」というのは、他国との比較に基づいて自分の国のポジションをきめようとする自主性のなさ、基準を外に求める態度の表れだろうという解釈であったように思います。
一方、「そこそこ」という言葉には、ある種の肯定性を感じます。「そこそこで、良いじゃないか」みたいに、「そこそこ」という言葉には肯定的な言葉が続きます。「一番にならないと意味がない」みたいな血管が切れそうな緊張感がなく、ま、このへんで手をうっておきましょうか、というようなバランス感覚、極端を嫌い中庸を良しとする、東洋の民族性のような、何となく力の抜けた平和な響きがします。確かに何か外部ものと比べることで己を評価するからこそ「そこそこ」という言葉が出てくるのだろうと思いますが、そこに自己否定やアグレッシブな不愉快な感じはありません。
私、「そこそこ」の国で、みんなが「そこそこ」に生きていけるのであれば、それは理想だと思います。しかるに、勝ち組に入らなければ負け組だ、やらないとやられる、軍国化しないと侵略されて滅びる、そのような二極化に基づく「恐怖心」が、「そこそこ」をよしとする東洋の伝統(?)を破壊しているのだと私は思います。それは、やはり欧米の帝国主義の武力に屈することで始まった日本の近代化(西洋化)という歴史が影響していると思います。
明治期の「脱亜入欧」とか「和魂洋才」とかいう言葉の持つ卑屈さ、恥ずかしさ、気持ちの悪さと比べたら、「そこそこの国」は遥かに高等で平和的な理想像だと思います。それは、黒船がやってきて力づくで開国させられ、力の差を思い知らされた日本が、西洋の猿真似を始め、その西洋に対する劣等感を代償するために他のアジア諸国を差別的に見下した嫌らしさを感じさせます。日本は西洋化しアジア諸国から離れなければならない、そういう現状に対する否定と西洋諸国に対する劣等感とアジア諸国への差別意識が、なんとも下品で情けない。残念ながら、その当時すでに国際資本とつながっていた長州藩の系譜が文字通りに現在の日本政治に受け継がれてきているのだとアベ政権を見ていて実感させられます。
「そこそこの国」は、豊かとは言えないがとりあえず不自由なく生きては行けていけるラクな社会の国、そんな意味で学生さんは回答したのではないかと想像します。つまり、多分、大きな苦労をしなくても親に守ってもらえてそれなりに恵まれて生きてきた若者が、このままの生活が続いてくれるならまずまず満足だ、そんな気持ちで言ったのではないでしょうか。
ならば、国の理想としては「そこそこの国」は、おそらく、もっとも恵まれた形といえるでしょう。そんな生ぬるいことを言っていれば滅びてしまう、世間は厳しいのだ、という人もいることでしょう。ま、そう思う人が多いのは十分理解できます。事実、管理通貨制によって現代日本人は支配者層のカネの奴隷とされ、カネがなければ生きていけないという恐怖によってすでに支配されています。近代戦争のほとんどがカネ儲けのためのヤラセであり、恐怖を通じた人民の支配方法と私は思っていますが、それでも人が死ぬ場面を見せられ、テロの現場を繰り返し見せられれば、そのうち戦争巻き込まれるかもしれないという恐怖にとらわれるのはやむを得ない部分もあります。しかし、戦争やテロに巻き込まれる危険は、おそらく今日、交通事故で死ぬ確率よりもはるかに低いであろうと私は思います。ならば、私は、恐怖にとらわれることなく、「そこそこ」で毎日、幸せを感じて生きていく方がはるかに人間らしい生き方だと思います。どうせ誰もがそのうち死ぬことになるのですから。恐怖にとらわれて目尻にチカラこぶをいれて、一億総活躍だとか総玉砕だとか、と喚く連中に耳を貸すのは真っ平です。大体「一億総活躍」などと大声を上げる人間に限って、しっかりと退職金と天下り先を確保をして、老後は安穏と引退生活を計画しているものです。