個人的な話ですいません。
記録をたどってみると、2015年ですからまだ二年前ですが、私のPartita 2 プロジェクトがスタートしました。週末に練習して、死ぬまでにバッハのPartita 2番 (ピアノの方)を弾けるようになるという個人的なプロジェクトです。Partita 2のうち、技術的に難しいのは1曲めのシンフォニアと最後のカプリチオですが、難しいの主にスピードが速い中で、確実なリズムを保たなければならないという理由だと思います。当時、この二曲を外して残りはそこそこ弾けるようになりましたが、カプリチオに手を出そうとして、これは私のレベルでは絶対無理だと思った記憶があります。それでも諦めずにやっていたら、目標とするアルゲリッチのスピードの4倍ぐらい遅いスピードであれば、ガタガタしながらも弾けるようになりました。これに6ヶ月はかかっただろうと思います。しかし、その時の喜びと啓示は強力でした。絶対無理がひょっとしたらできるかも、という感じに変わったのです。最初の壁を抜けたような気がしました。
そこからちょっと飽きて、シンフォニアに移ってまた半年ぐらいでガタガタしながら超スローで弾けるようになって、やっぱり、やればできるかもしれないという気分になって、カプリチオをもう一度やろうとしたらすっかり忘れていました。もう一度覚え直して少しずつスピードを上げていこうとしたら、今度は、正確なリズムを保てず、指が怠けてミスタッチが増えて、まともに弾けなくなり、そうなるとゆっくり弾いても間違えるというようになりました。
この時点で最初に無理と思ったのが、なんとかなるかも、という期待に変わって続けてきたのに、再び、同じ壁にぶち当たりました。これでは一歩進んで二歩下がるです。一歩進んだ時の気分の高揚感はすっかり、やっぱり無理だという最初よりもより深い絶望感に置き換えられ、しばらく練習する気も失せてしまいました。数ヶ月、足踏み状態で、全く上達しないばかりか、むしろ下手になっていっているような気がしました。
ある時に、またゼロからやり直してみようと思って、初心にかえってカプリチオをやり始めました。今回はキッチリリズムが取れて指が動くまで、スピードをできるだけ上げないように注意しながらやりました。何しろ我流ですから指の使い方も試行錯誤しながらです。続けているとまた二年前の時のように、ちょっとずつ上達し始めました。前回のレベルぐらいに達した時に、今回は諦めずに徐々にスピードを上げて、指が怠けたりミスタッチをする部分に特に注意をしながらちょっとずつ進めていると、やはり少しずつ上達していっています。試しにアルゲリッチの1.5倍ぐらい遅いスピードまで上げてもなんとか弾けました。
これでまた、あと五年ぐらいやれば自分の目標にたどり着けるのではないか、という希望が生まれてきました。ただ、最初の時のような楽観性はありません。なんとか弾けるようになってからがおそらく最も辛くて長いのだろうと思います。細部を詰めていく部分ですね。研究を論文にまとめようとする直前に似ています。論文は書きはじめてからが長いのです。細部を詰めていくという地道な作業は、多くの場合、論文を仕上げればもうその作業をやらなくて済む、という極めて低いレベルのモチベーションによって維持されます。それで、ようやく仕上げて投稿すれば、リジェクションの引き回しの刑にあった挙句に、リバイスでまた砂を噛むような実験をせざるを得なくなるという、花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、という日々を送り、そうしてその苦難の後にようやく論文から解放されるという喜びに浸れるのです。
ただし、苦しみの向こうに喜びがあるのも事実です。そして、この個人的なプロジェクトから学んだことは、人生の壁は何重にもなっているということ、一つの壁を乗り越えたら次の壁、その次の壁が待っているということ、そして、諦めずにやっていれば、乗り越えられない壁はないのではないか、ということです。
一応、五年後に、生きていたらアルゲリッチの半分ぐらいのレベルでPartita 2を弾けるようになるという目標に向かって週末努力をしたいと思っております。
エルトンジョンの人生の壁(Border Song)をどうぞ。
記録をたどってみると、2015年ですからまだ二年前ですが、私のPartita 2 プロジェクトがスタートしました。週末に練習して、死ぬまでにバッハのPartita 2番 (ピアノの方)を弾けるようになるという個人的なプロジェクトです。Partita 2のうち、技術的に難しいのは1曲めのシンフォニアと最後のカプリチオですが、難しいの主にスピードが速い中で、確実なリズムを保たなければならないという理由だと思います。当時、この二曲を外して残りはそこそこ弾けるようになりましたが、カプリチオに手を出そうとして、これは私のレベルでは絶対無理だと思った記憶があります。それでも諦めずにやっていたら、目標とするアルゲリッチのスピードの4倍ぐらい遅いスピードであれば、ガタガタしながらも弾けるようになりました。これに6ヶ月はかかっただろうと思います。しかし、その時の喜びと啓示は強力でした。絶対無理がひょっとしたらできるかも、という感じに変わったのです。最初の壁を抜けたような気がしました。
そこからちょっと飽きて、シンフォニアに移ってまた半年ぐらいでガタガタしながら超スローで弾けるようになって、やっぱり、やればできるかもしれないという気分になって、カプリチオをもう一度やろうとしたらすっかり忘れていました。もう一度覚え直して少しずつスピードを上げていこうとしたら、今度は、正確なリズムを保てず、指が怠けてミスタッチが増えて、まともに弾けなくなり、そうなるとゆっくり弾いても間違えるというようになりました。
この時点で最初に無理と思ったのが、なんとかなるかも、という期待に変わって続けてきたのに、再び、同じ壁にぶち当たりました。これでは一歩進んで二歩下がるです。一歩進んだ時の気分の高揚感はすっかり、やっぱり無理だという最初よりもより深い絶望感に置き換えられ、しばらく練習する気も失せてしまいました。数ヶ月、足踏み状態で、全く上達しないばかりか、むしろ下手になっていっているような気がしました。
ある時に、またゼロからやり直してみようと思って、初心にかえってカプリチオをやり始めました。今回はキッチリリズムが取れて指が動くまで、スピードをできるだけ上げないように注意しながらやりました。何しろ我流ですから指の使い方も試行錯誤しながらです。続けているとまた二年前の時のように、ちょっとずつ上達し始めました。前回のレベルぐらいに達した時に、今回は諦めずに徐々にスピードを上げて、指が怠けたりミスタッチをする部分に特に注意をしながらちょっとずつ進めていると、やはり少しずつ上達していっています。試しにアルゲリッチの1.5倍ぐらい遅いスピードまで上げてもなんとか弾けました。
これでまた、あと五年ぐらいやれば自分の目標にたどり着けるのではないか、という希望が生まれてきました。ただ、最初の時のような楽観性はありません。なんとか弾けるようになってからがおそらく最も辛くて長いのだろうと思います。細部を詰めていく部分ですね。研究を論文にまとめようとする直前に似ています。論文は書きはじめてからが長いのです。細部を詰めていくという地道な作業は、多くの場合、論文を仕上げればもうその作業をやらなくて済む、という極めて低いレベルのモチベーションによって維持されます。それで、ようやく仕上げて投稿すれば、リジェクションの引き回しの刑にあった挙句に、リバイスでまた砂を噛むような実験をせざるを得なくなるという、花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、という日々を送り、そうしてその苦難の後にようやく論文から解放されるという喜びに浸れるのです。
ただし、苦しみの向こうに喜びがあるのも事実です。そして、この個人的なプロジェクトから学んだことは、人生の壁は何重にもなっているということ、一つの壁を乗り越えたら次の壁、その次の壁が待っているということ、そして、諦めずにやっていれば、乗り越えられない壁はないのではないか、ということです。
一応、五年後に、生きていたらアルゲリッチの半分ぐらいのレベルでPartita 2を弾けるようになるという目標に向かって週末努力をしたいと思っております。
エルトンジョンの人生の壁(Border Song)をどうぞ。