百醜千拙草

何とかやっています

自由と規律

2021-11-23 | Weblog
ちょっと前の話と関連した話ですけど少し。
かつて社会の中で、自由が最も尊ばれる場所は大学でした。大学は自治が基本で、それは研究や学問は自由な発想を自由に追求するところに発展の鍵があり、政治的に独立でなければならない、と考えられていたからでしょう。残念ながら、アカデミアの自由はグリーンランドのアイスシートなみの速さで侵食されているように感じます。その原因は、慢性的な資金不足に加えて、管理強化でしょう。つまり、金と力です。

最近、某旧帝大で研究室を立ち上げた人と話をする機会がありました。いずこも同じ秋の夕暮れ、となりの人も実は同じ悩みを抱えております。資金を出す方は金を出す以上に口を出し、現場は無意味な書類書きを強いられ、進捗状況を細かくチェックされて、自由な研究どころか、製造ラインの作業員さながらに縛られる、一方で、大学の施設は支援は全然乏しいのに規制だけは強化する、結果、現場で実際に活動している者、つまり「価値を生み出す本体」にもっとも皺寄せがきて、疲弊し、燃え尽きて、去っていくことになっています。これでは学問が発展するわけがないです。

資本主義の世界では、とっくに「働かない」ものが最も稼ぐようになっていますけど、これは学問の分野でも同様になってきました。実際に手足と頭を動かして働いている教官や研究者や学生という大学の活動の本体は、さまざまなレベルの管理者に縛られ、その狭い囲みの中でお互いに競争させられ、圧力をかけられ、使い捨てにされるという現状があるように感じます。

そして、トップダウンの規制が次々と研究現場に導入される結果、かえって弊害が増えてきているのではないかと感じます。本来、規制は、何らかの現状の問題を防ぎ解決するために導入されるものでしょうけど、それを決める方は必ずしも現場の事情を十分理解しているわけではないことが、却って現状を悪くしていっているように感じます。

例えば、擁護するわけではないですけど、セクハラで首になったDS氏にあれほどの処分をする必要があったのか、私は正直疑問です。結果は、DS氏だけでなく、キャリアを賭けて働いていた40人ほどの人々の人生を狂わせることになりました。ビン ラディンを一人を仕留めるために4万人のイラク市民を殺したアメリカ軍といえば言い過ぎですかね。

確かに話が本当で、立場を利用して性的関係を迫ったのなら、スケコマシのクソ野郎です。しかし、「被害者」の女性の方が、なぜ、事件があった時ではなく、自分のポジションが確保できたタイミングで告発したのか、を考えると、このセクハラがどういう性質のものであったのか、いろいろと想像してしまいますね。とはいえ、現在は、こうした職権濫用は許されないという規制ができています。結果として、ポリシー違反で研究室は閉鎖され、彼の人生のみならず、そこで働いていたなんの罪もないの多くの研究員の人生にも少なからぬダメージを与えることになりました。多分に見せしめ的な意味もあっただろうと思います。

そうしたセクハラ ポリシーがあることを頭脳優秀な「被害者」の女性は知っていたはずです。たとえ圧倒的な力関係の差がある立場であったとしても、研究室を移ったばかりのころに起こったこの事件をこの「被害者」がすぐに告発しなかったことは、下品な言い方をすると、これはある種の「取引き」の性質のものであって、少なくともDS氏の方はそのつもりだった、という可能性もあると思います。もしも「被害者」が、そうした性的関係を結ぶ前の時点で告発していれば、未遂に終わっていて、もうすこし穏やかな終わり方になっていた可能性もあるのではと思わざるを得ませんでした。つまり、40人もの人々の人生をこのような劇的な形で狂わせることは防げたのではないか、と思うのです。

研究室で共に過ごすもの同士で恋愛関係になるということは珍しいことではなく、立場に上下関係がある場合もしばしばあります。おそらく多くの場合はそこで揉め事が起きても個人レベルで解決されると思いますけど、今回の例のように、セクハラポリシーの罰則を、違反一回で、大勢の人を巻き込んで一人の人の人生を破壊するような形で適用するという前例は、こうした男女関係にある人を恐怖させたでしょう。DS氏が主張するように、悪意をもっていればこうした規制を利用して男女間の絡れに際して相手にリベンジすることも可能になるわけですから。

ただし、どうもDS氏のこうした研究室内の女性研究員との関係は常習的だったようですから、遠からず罰は与えられていたであろうとは思います。にもかかわらず、今回に至るまで、セクハラの告発に至っていないのはどういう理由だったのでしょう。被害者側がキャリアへの悪影響を恐れて泣き寝入りしたのか、あるいは取引きであったからでしょうか。

また施設側が「悪質」と断定し、弁護士の同席も許さずDS氏を尋問した結果、迅速にクビを切った理由は何だったのでしょう。陰謀論的になりますけど、今年のノーベル賞委員会は彼を推していたという話もあります。受賞後のスキャンダルを嫌った施設側が素早く彼の受賞の芽を摘んだのだという人もあります。(とすれば今年は比較的地味な研究がノーベル医学生理学賞に選ばれたのもそういう理由かもしれません。)

話がヘンな方向へズレました。法治国家である以上、法や規制を遵守するというのは原則ですけど、しばしば、その規制や法は実際の現実と乖離しています。また、法にはかならずグレーゾーンもあれば抜け穴もあり、解釈次第で悪用されることもあるわけで、結果、一つの規制はまた別の規制を生むという感じで、規制の自己増殖を促進し、また、その規制を厳密に適用することで、こ社会の構成員の自由度を制限し、恐怖を与え、彼らを萎縮させていっているのではないかと思います。結果として、大学の自由な活動を妨げ、当局の介入を許し、自治組織としての大学の健全さを失わせていこうとしているのではないかと危惧しています。

金と力の世の中で、大学だけが高潔、孤高でいられるわけがなく、いまや基礎研究も金になるかならないか、役に立つかたたないか、という基準で判断される時代ですから、大学が形骸化していくのも時間の問題なのかもしれません。
コメント (2)
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