単純に実験して何かデータが出てそれをもとにいろいろ考えて、という作業が好きという理由で、私は研究の世界に迷い込み、幸か不幸か比較的自由に放っておいてもらえたためになんとなくここまで続きました。私は二、三の譲れないことを除くと、楽しくないことでも比較的順応してしまうのですけど、ある閾値を超えかけると、なぜ自分はこんなことをしているのだろう、と思うことがしばしばあります。どんな活動もそうでしょうけど、楽しい部分が一つあれば、イヤな部分はその数倍はあります。その活動を継続するか止めてしまうかはそのバランス次第と思います。
研究活動において言えば、いろいろ実験したり考えたりする楽しい部分のあとは、結果にガッカリするというあまり面白くない部分があります。それを乗り越えて面白いデータがでたら、今度は、それを発表して批判を受けるという楽しくない部分があります。方法的懐疑を手法とする科学では、批判は必ずネガティブなものであり、その批判者のネガティブな疑念を払拭していくという作業を通らないと論文にもならず研究費ももらえません。
しかしながら、人間は感情の動物であり、いくら頭では方法的なものだと理解はしていても、批判を喜ぶ人はまずいません。それが如何に建設的なアドバイスであったとしても、その向けられた批判に直ちに心から感謝できる人間というのはほとんどいないでしょう。まして、その批判が的外れであったり、誤解からきたものだったりした場合は尚更です。それを理性の力で感謝に変えるということをするわけですけど、これは大変エネルギーのいる生理的に無理のあることで、責任感の強い真面目な人ほど、この批判に晒されることのストレスとダメージは強いと考えられます。
ところで、山本太郎の街頭演説では、批判とも言えないようなメチャクチャな言い掛かりをつけて絡んでくる聴衆がいますが、彼のそうした人々の捌き方は感動しますね。そうとうな努力で心を鍛えたのだろうと思います。自分の感情をコントロールし、敵意を向けてくる相手と冷静に話をするのは普通は困難ですから。
私といえば、そうした研究の楽しくない面に加えて、強化される一方の規制とそれに付随する罰則や義務に縛られて研究現場の自由度が減少し、あちこちから小突き回されながら、だんだんとやりたいこともできなくなってきたという状況に嫌気がさしてしましました。一言でいえば、昔に比べて研究環境はどんどんhostileになってきたように感じます。そんな中でクリエイティブであるのは困難です。
最近、頼まれた論文のレビューをやっていて、研究という活動に対する私の情熱が急速に失われつつあることを実感せざるを得ませんでした。私は熱しやすく冷めやすい体質ではありますけど、研究だけは随分、長く続いたのです。
その論文は、かなりの量の実験とデータに基づいたもので、研究の着目も面白いし、比較的よく書けていました。多くの時間や研究費を割き、少なからぬ動物を犠牲にし、この研究をまとめあげたことは明らかでした。でも、その努力に対して、賛美したりなんらかの批判やコメントをして、それに応じてまた著者が実験をして原稿を書き直して「改善する」という活動が、言葉は悪いですけど、心からばかばかしいなあと感じてしまうようになってしまいました。もちろん口には出せませんけど、自分でも真面目にサイエンスをやっている人には冒涜的意見だなと思います。今後はもうこの手の活動には関わらないようにしたいと思います。