論文のリバイスの作業しており、まもなく投稿できそうです。
投稿したのはアメリカヒト遺伝学学会機関紙が最近作った新雑誌で、インパクトファクターはまだありません。この雑誌が将来的にこの分野でどのような位置付けになるか不明ですが、(われわれの論文のように)親雑誌にリジェクトされた論文の受け皿となるならば、中堅雑誌と呼ばれるぐらいには育つのではないかと思います。私にとっては、こうした論文をチマチマ書くのもこれが最後かもしれないので楽しみながらやってます。
この論文は、臨床、病理、臨床遺伝学、実験遺伝学と3カ国、4グループの共同作業で、連携がなかなか難しく苦労しました。臨床データにも遺伝学データにも実験データにもそれぞれに難があるので、盗塁と送りバントと犠牲フライで一点を目指す戦略を取らざるを得ず、欠点をデータの厚みでカバーするというスカッとしない論文です。内容的には小さな論文なのに、この出版戦略のおかげで、Supplemental documentは30ページ近くになってしまいました。例えれば、美味しくないのに見た目と量だけはあるパスタをひたすら喰わせて、レビューアーの闘志を奪い、時間切れ優勢で判定勝ちに持ち込むという感じですか。
料理でいえば素材の味を最大限に引き出し、一口で唸らせる一品、テニスで言えばライン上に突き刺さるダウン ザ ラインのパッシング、野球で言えば、ライナーホームラン、研究を志したときはそんな論文を書いてみたい、と思っていましたが、結局は、無限パスタ、ロブの応酬、送りバントで終わりそうです。
ま、それでも手間と時間をかけた研究の成果を論文という作品にまとめるのは楽しい作業です。少しずつ進歩しているのを実感できるというのは精神衛生上いいです。
人間、精神を最もやられるのは意味のない作業を強いられることらしいです。共同研究で協力した別のグループが、非常に面白いデータを出して、一年ほど前、N紙に論文を投稿しました。その頃、レビューアに山のような理不尽な実験を要求されたと聞いて以来、進捗を知りませんでしたが、つい最近、筆頭の人から、二度のリバイスにも拘わらず、結局リジェクトされて、振り出しに戻ったと聞きました。この一年ほどの間に、おそらく数々の実験を行い、原稿を書き直ししたはずですが、あいにく、こうした苦労は報われることなく、シシュフォスの岩のように、また麓まで戻ってしまったのです。
良い作品にしようと努力することには意味があると思いますけど、本来、面白い研究の成果を広く、人に知ってもらいたいと思って書いた論文を、一年に渡る努力の末にリジェクトされるというのは精神にくるでしょう。結局、この面白い知見はいまだに人々に広く知られることもなく、よってこの分野の進歩にまだ寄与することもないという状況にあります。
ところで、サイエンスというものが急激に発展したのはこの100年ほどのことですけど、何事も始めがあれば終わりがあります。私の分野はそもそも細胞外基質蛋白を研究していたグループの人々を中心に始まり、細胞生物、シグナル伝達、関連する疾患を研究する臨床や遺伝学の人々が集まって、80年代ぐらいから発展しはじめて、多分2005年ぐらいにピークを迎えました。その後、2011年に関連する主要疾患に広く使われてきた薬のパテントが切れて以降、急激に分野の縮小が始まりました。こうなると、いくら学問的に面白い疑問がいろいろ残っていたとしても、資金の獲得もビジネスへの展開も困難になる一方で、人々は去っていき、人が去ればさらに研究レベルも落ちていくという負のスパイラルに入っていきました。極端にいえば、私の研究分野は「オワコン」というやつです。一部の人は今後も残ってそれなりに活動してはいくのでしょうが、最盛期を築いた人々はすでに多くが実質的に引退し、若い世代は育たずで、分野がかつてのような賑わいを取り戻すのは難しいと思います。私はそもそもこの分野の中でもマイナーなテーマでやってきたので、この分野に対する使命感も愛着も特になく、年々厳しくなる規制や資金繰りもあって、楽しく思うことよりも虚しく思うことが増え、潮時だとつくづく感じたので、アカデミア研究から足を洗い、違ったことをすることにしました。長年、家族に迷惑かけてまでやってきて、それだけの価値がある仕事だと数年前までは思っていましたが、今は「洗脳から解けた統一学会信徒のような心境」といえばちょっと言い過ぎですけど、ま、壺の価値などあって無いようなものだ、ということをあらためて実感しております。今後は、壺は眺めるだけにして、何か別のことを学んで新しい経験し、死ぬ時まで楽しく日々を過ごせたらよいなあと思っております。