休暇中でもお構いなしにやってくるレビューの依頼を、片っ端から断る快感といったらないですね。全くの駆け出しの頃は、どんな雑誌からでも依頼を受けたら嬉しかったものでした。仕事を評価してもらえて業界の役に立てたと感じることで、承認欲求が多少満たされたということだと思います。
しかし、一つ多分一年前ぐらいにレビューをした論文のリバイスが再投稿されたので見てくれというメールがあり、これは、流石に引き受けないとまずいだろうと思い、とりあえずRebuttalを見ました。比較的新しいN誌グループの雑誌で、N紙 > N紙姉妹紙 > NC と段階的に落とされたが、SRや他の系列の無名雑誌には行きたくないという著者のニーズをを拾い上げるための雑誌です。論文そのものは、流行りのオーガノイドとオミックスを組み合わせた研究で、データは多いのに結論はパッとしないというよくあるパターン。オミックスデータを色々弄ってパッとしない結論をあたかも意義があるように見せかける「目眩し」戦法を取っているのですから、Rebuttalも推して知るべし、東大霞ヶ関論法も真っ青の論点ずらしと言い訳の嵐、Rebuttalだけでシングル スペース37ページ、論文そのものより長いです。大体、Rebuttalの始めの一ページを割いて、この論文の意義とレビューアに「誤解」を招いたことを釈明している時点で勘弁してくれという感じ。まるで自民党議員の言い訳を聞いているようで、もうレビュー拒否でいいか、と思い始めました。このレビューアをうんざりさせて、読む気を失わせ、一種の洗脳状態に持ち込む、目眩し戦法は実際に有効なので、こういうことをする著者がいるのですけど、やめて欲しい。人の時間を何と思っているのでしょう。国会で「イエスかノーでお答えください」と聞いているのに、延々と前置きを喋って時間を潰し最後まで質問には答えない「安倍論法」のようだ、と言えばさすがに言い過ぎですが。
さて、今回の休暇の主な目的は家族のことです。老いていく親との時間が限られていることが徐々に肌身に感じられるようになったこと。実母に関しては施設暮らしは一人ぐらしよりも過ごしやすいようで、安心はしています。実家に一人いて、昔のガラクタに囲まれて親と一緒に過ごした頃をつらつら思い出すと、もう今更どうにもできませんが、数々の親不孝の後悔に心が痛みます。
義父もしばらく前から一人暮らしですが、近くに家族がおらず、認知症も始まっているのに、集団生活は難しいという難しい状況が続いております。
核家族化し、仕事によって土地を離れる子供のために、親世代は孤独になっています。親の世代までは親戚同士が近所に住んで、交流し助けあっていました。私の子供の頃は盆暮正月には親類の子供がわやわやと集まり楽しい時間を過ごしたものでしたが、我々の世代は核家族化して全国各地に散ってしまい、すっかり繋がりも細くなりました。そんな中で、実家で一人暮らしする親世代が増えています。
年老いて、連れ合いを無くし、家族から離れ、仕事からは引退し、交際する友人もいなくなって、孤独な日々を過ごすということは、若い人であれば、独房に入れられるのと同様の苦痛ではないだろうか、と思います。
今回、親を見ていて、後悔と共に、遠からず、自分がそういう立場になるのだということを実感しました。昔から、一人でいる方が好きでしたが、高齢になり、孤独を選択するのではなく強制されるようになったら、どういう気持ちで日々を送ることになるのかは想像がつきます。その時に、孤独そのものを防ぐことは困難だろうという予測はあるので、孤独でも大丈夫なように生きる戦略を自分なりに考えようとしています。
ま、そもそも人間は孤独なものであります。であるからこそ、人間は、仕事を含めて「気晴らし」や「暇潰し」が必要なのでしょう。本来、孤独な存在でありながら、孤独に恐怖するのが人間です。死ぬとわかって生きているのに死ぬのが怖いのが人間で、この肉体を持つ孤独な精神の感情というものは、なかなか、御し難いものだと思います。