実家に一人帰っての休暇中です。といっても、これまでと違い、実家には私一人です。一人ぐらししていた母は、昨年、大腿骨頚部骨折の後、実家で一人暮らしは不可能ということで、妹の嫁ぎ先に近いところでの施設生活。コロナのため、施設の面会も制限がかかっているので、会いにいくこともできず、結局、実家で私一人、手持ち無沙汰の日々を送っております。
用事のない日は、朝、起きて、朝ごはんを食べて、洗濯、掃除をしてコーヒーを飲んだら、もうすることがありません。TVは30分と見ていられませんので、メールとTwitterでニュースを確認しても30分。仕方がないので、図書館まで行って、読書をしたり昼寝をしたりして過ごし、ブラブラしながら買い物をしながら、帰って晩御飯を食べて、また本を読んだりして、1日が終わります。中学生の頃もこんな風に時間を過ごしていたなあ、と思い出しました。当時はネットもないですから、時間を潰すのは読書。と言っても無限に本がある訳ではないので、同じ本を何度も読み返していたのを思い出しました。
当時と今との違いは何か、と考えると、それは「将来の可能性への希望」でしょう。しかしながら、当時も今も、時間を持て余してやることは「気晴らし」の「時間潰し」であることには違いありません。
例えてみれば、デートの約束の1時間前に着いてしまった時のような「希望のある時間潰し」とデートが終わって、帰りに乗る電車が1時間後だった時のような「時間潰し」の差でしょうか。そして、それでは楽しいデートの時間は何だったのか、と思うと、やっぱりそれも「暇つぶしの気晴らし」に過ぎないのでした。今回の休暇が終わった後、今後、死ぬまでの時間をどのように過ごすべきかなどとぼんやり考えていました。そういうことを考えながら暇を潰すのもアリだなあとも思います。
結局、どんなに有意義に時間を過ごしたと思ってもそれはやっぱり暇つぶし、時間の無駄と思うような過ごし方をしても、やっぱり暇つぶし。一歩、離れて眺めれば、人生とは暇つぶし以外の何ものでもないのだなあ、と新ためてスッキリした気分になりました。ならば、どんな人生でも生きているだけで尊いのです。思うがままに自由に暇を潰せばいいのだ、と思い直して、今晩は冷奴をつまみに酎ハイでも飲んでちょっと酔っ払うことにしました。