百醜千拙草

何とかやっています

生きがいについて

2022-09-09 | Weblog
休暇から職場に戻り、溜まった仕事をぼちぼちとやり始めました。休暇中はそれなりに楽しかったのですけど、職場の昔のルーチンに久しぶりに戻るのも気分が良いものです。遠からずここを離れる予定ですが、長年いたこの職場という居場所を失うのは残念です。

多くのフルタイムで働く人々に当てはまることだと思いますけど、大人になっての主な人間関係は職場を通じてのものだと思います。職場で顔を合わせて無駄話をする人々や、そこから進んで友人になった人々、それらの人々が現在の私の人間関係の9割です。仕事から完全リタイアした場合に、収入以上に失う大きなものが社会での居場所、つまりこの人間関係です。

今回の休暇中、子供が独立し、そしていずれ引退した後に何をして残りの人生を過ごすか、ということをいろいろと考えました。限られた時間、限られた体力と財力、限られた人的、社会的リソースの中で、どう満足した時間を過ごすことができるのかということです。何かを成し遂げたいとか出世したいとか勲章が欲しいとか胸像を作って欲しいとか国葬されたいとか、そう思うのは、結局、満足感や幸福感を得たいという欲求を外部に求めようとするからでしょう。極論を言えば、幸福というものは心の状態ですから、どんな状況にあっても幸せに生きることは(理論上は)できるし、また、人間、誰でも遠からず天国に行くことになっているのですから、残りの人生をどう過ごすかなど、悩むだけ時間の無駄なのかも知れません。

とは言え、人間ですから色々考えます。何かプランを立てることは精神衛生にも良いですし、日々を生きるモチベーションを上げると思います。かつて柳田充弘先生が書いていたブログはある時から「生きるすべ」というタイトルになりました。その時はどうして、そんな名前にしたのだろうと不思議に思いましたが、今は何となく理解できます。「生きるすべ」とは、結局、毎日を生きていく上での心のより所のことでしょう。「生きがい」というのとほぼ同意であろうと思います。つまり、生きることに対するモチベーションを上げてくれるものです。

25年ほど前の本で、福島大学の経営学者である飯田史彦氏の「生きがいの創造」というベストセラーがありました。これはその後シリーズになり「生きがいのマネジメント」「生きがいの本質」などと本が続きました。しかし、この本で述べてあることは経営学とは無関係で、内容は、いろいろな「生まれ変わり」や「この世以外の世界」や「物質を超えた生命」の存在を示唆するエピソードや証拠を集めた本です。

この時も、どうして「生きがい」は、この世を超えた世界の話と繋がるのかと不思議に思いました。「生きがい」は死ぬまで毎日を過ごしていくための心の拠り所と考えれば、この世にそうした心の拠り所を見出せない人もいるでしょう。ならば、この世を超えた世界を想定して、そこからこの世を見下ろしてみて、生きるモチベーションを得ようとするのもアリなのだろうと理解しました。かつて、生きるのが辛い時、私も昔の人と同じく死んで極楽浄土へ行くことを心の拠り所として日々を過ごしていました。そのうち死ぬ時がくるから、それまでの辛抱だとか思いながら。

そうやって、現世で手頃に「生きがい」が見つからない場合は、この世を超えた世界を考えることによって生きがいを創造する。死んだら終わりではないならば、老いて病んで死んでいく日々にも意味がある、と思えるということでしょうか。
生きがい、生きるすべ、は生きるための手段です。シニカルに言えば、生老病死の四苦を忘れるための暇つぶしと言っても良いかも知れません。生きる手段が「生きがい」なら、それでは、生きることの目的は何か、という疑問につながります。"人生の意味"はスヌーピーが犬小屋の上で空を見ながら思索する時の究極の問いであったなあと、漫画を思い出しながら、庭の椅子に座って私も考えてみました。そして結局、生きることの意味が何であるかは重要ではないと思い当たりました。多分重要なのは、その具体的な内容ではなくて、人間は生きることには意味があると思える気持ちそのものではないかと思いました。そして、誰もが生きているだけで意味があるということを、全ての人が認め合うような社会になって欲しいものだと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする