20年程前の宇宙ブームだった頃に、ホーキングの本やビッグバンの一般向けの本と一緒に、スーパーストリング理論についての本も読んだ記憶があります。この世界は私たちが実感できる4次元ではなくて、実は二十数次元あって、高次の次元は小さく折り畳まれているので、見えないのであるとかいう話とか、世界は実は振動するヒモでできているというような話を、チンプンカンプンならがも随分わくわくして読んだ記憶があります。この「全てが説明できる」ヒモ理論は、余りに複雑で(理論が)柔軟なので、実験的に確かめることが不可能であると、この理論を支持しない人々はケチをつけるのだそうです。しかし、イリノイ州立大学の研究者が、最近このヒモ理論を裏付けるための実験を考え出したことが紹介されていました。
このヒモ理論によると全ての物質は水素原子の一億分の一のさらに一億分の一程度の振動するヒモによって成り立っているらしいです。ヒモ理論による宇宙の解釈では、宇宙は長いヒモが引き裂かれたもので、物質の不均等な散らばりを起こす宇宙時間の障害である考えられているそうです。(すでに理解不能)その研究者たちは、このモデルが正しければ初期の宇宙で、水素原子はまだら状の分布を示すはずであるとの計算結果を出し、それを観察するためには、10,000平方キロメートルにわたる面積の放射線望遠鏡のアレイが必要であると試算したそうです。コーネル大学の放射線宇宙学者のTerzianは実現はちょっと無理だろうとのコメントをだしています。彼のチームは1平方キロのアレイを作る実験計画を考えており、その費用が20億ドルとのことです。単純計算では、10,000平方キロのアレイを作るのに、100キロメートル四方の土地と200兆ドル、約20京円、が必要になるということです。
仮に技術が進歩して2億ドルぐらいでヒモ理論をサポートするかも知れない実験ができるようになったとしても、現在のアメリカや日本で、それだけの金額をこうした実験に使うことが可能なのだろうかとふと思いました。実験が成功したならば、学問的価値としては、金額に換算できないほどの素晴らしいものであることに間違いはありません。私のような物理学のド素人であっても、スーパーストリング理論の名前ぐらいは知っています。これが実験的に証明されたなら、物質や宇宙に対する人々の見方に非常な影響があることは間違いありません。しかし一方、私のように数ヶ月先どうやって喰っていこうかと考えているようなレベルの人間が切羽詰まってきたら、物質がヒモでできていようと、宇宙がヒモがさけてできたのであろうと、どうでもよいと思うのではないでしょうか。そんな知識が明日喰わねばならない食べ物を得るのに何の役に立つのかというのが、切羽詰まった人の正直な感想だと思います。健全な肉体に健全な精神と言いますから、まず衣食住が足りて初めて学問という順番になるのはわからないではないです。
日本の経済発展が鈍り、国に金が無くなってくると、学問も「役に立つかどうか」ばかりが強調されるようになってきました。残念ながら役に立つということは殆ど「物質的」な意味に限定されています。生物分野であれば、医療技術の進歩に貢献できるとか、病気を予防できるとか治せるとかいうことが役に立つことであるらしいです。はっきりいって貧しいなあと思わずにはおれません。人間が人間たる理由である、ものを考える事や学問すること、そういう尊い活動は、人間が動物として生存することを有利にするための仕事でなければならぬという考えなのだと思います。日本がいよいよ切羽詰まってきたのでしょう。研究や学問に必要な金銭は少なからぬ部分が税金からまかなわれるので、役に立つ研究を喧伝する役人や官僚は、二言目には国民の税金を使っていることを錦旗を振りかざすかのように言うわけですが、そんな1メートル先しか見えない近視だからこそ、日本の学問が痩せていって結局役に立つ成果も出なくなっていくのではないでしょうか。日本人は学問的に面白ければ金にならないことでも一生懸命やる民族でした。そうした学問好きの日本人気質というようなものが日本の高度経済成長の基盤になった高い工業技術の開発に繋がったのだろうと私は考えています。金が動機であれば、安くて品質の悪いものを作って売る方が手っ取り早いはずです。その方が経済という点では役に立ちます。確かに産業化初期の日本の工業製品は今の中国産のような安い粗悪品でした。それが見る見る間に最高品質のものを作りだし、そして世界トップを走るようになったのです。その原動力は、金銭的インセンシティブではなく、良いものを作りたいと思う純粋な気持ちや学問的な挑戦を面白いと思う日本人のメンタリティーであったのではないでしょうか。「役に立つ研究でなければ金を出さない」という態度は悪循環であると思います。限られた資金で、役に立つことを優先すると、長期的に本当に重要な研究がおろそかにされる一方、金に繋がるような目先の研究では金のある所に競争で負けるのです。適切な喩えでないかも知れませんが、あれだけの文化的そして文明的に世界を圧倒していたかつての中国が、なぜ現在、アメリカやヨーロッパに比べて経済的に不利な立場にあるのか、日清戦争の時に皆が畏れていた中国の底力というものはどこに行ってしまったのか、ひょっとしたら現在の日本が落ち入りつつあるように、目先の物質的な欲だけに注意が向いてしまった結果なのかも知れません。日本人の学力はどんどん低下しているようです。一方、アメリカは、株式市場や日本の政治家官僚を通じて、日本の富を、搾り取れるだけ搾り取ろうとしています。今のように純粋に学問のための学問が軽視されつづけていくと、そのうち日本人は、アメリカ人なみの頭脳しかない上に金も資源もないということになりかねません。この傾向が続くのなら、私はいっその事、日本を正式にアメリカの一州としてもらうことを考えた方がよいのではと思います。そうすれば、アメリカに流れていった日本の金は、少なくとも一部は返ってくるはずです。(勿論、アメリカは嫌がるでしょうが)それに、有害無益としか思えない政治家官僚の半分ぐらいのクビは切れるでしょう。
話をもとに戻して、例えば、スポーツ選手の仕事が、見る人に感動を与え少年に夢を与えることだと言えるのなら、純粋に学問のための研究も、勿論、人類に感動や夢を与え、精神的発達を促すものであると思います。その知識は更なる知識欲や好奇心を掻き立てるでしょう。学問のための研究は学問を志す人のみならず、社会一般を啓蒙し、考える葦である人間の頭脳の食べ物となるでしょう。私は社会にお金が無くなってきているからこそ、余計に学問の自由な研究を守らねばならないのだと思います。そうでなければ、人間は服をきただけのサルと変わらないのではないかと思います。
このヒモ理論によると全ての物質は水素原子の一億分の一のさらに一億分の一程度の振動するヒモによって成り立っているらしいです。ヒモ理論による宇宙の解釈では、宇宙は長いヒモが引き裂かれたもので、物質の不均等な散らばりを起こす宇宙時間の障害である考えられているそうです。(すでに理解不能)その研究者たちは、このモデルが正しければ初期の宇宙で、水素原子はまだら状の分布を示すはずであるとの計算結果を出し、それを観察するためには、10,000平方キロメートルにわたる面積の放射線望遠鏡のアレイが必要であると試算したそうです。コーネル大学の放射線宇宙学者のTerzianは実現はちょっと無理だろうとのコメントをだしています。彼のチームは1平方キロのアレイを作る実験計画を考えており、その費用が20億ドルとのことです。単純計算では、10,000平方キロのアレイを作るのに、100キロメートル四方の土地と200兆ドル、約20京円、が必要になるということです。
仮に技術が進歩して2億ドルぐらいでヒモ理論をサポートするかも知れない実験ができるようになったとしても、現在のアメリカや日本で、それだけの金額をこうした実験に使うことが可能なのだろうかとふと思いました。実験が成功したならば、学問的価値としては、金額に換算できないほどの素晴らしいものであることに間違いはありません。私のような物理学のド素人であっても、スーパーストリング理論の名前ぐらいは知っています。これが実験的に証明されたなら、物質や宇宙に対する人々の見方に非常な影響があることは間違いありません。しかし一方、私のように数ヶ月先どうやって喰っていこうかと考えているようなレベルの人間が切羽詰まってきたら、物質がヒモでできていようと、宇宙がヒモがさけてできたのであろうと、どうでもよいと思うのではないでしょうか。そんな知識が明日喰わねばならない食べ物を得るのに何の役に立つのかというのが、切羽詰まった人の正直な感想だと思います。健全な肉体に健全な精神と言いますから、まず衣食住が足りて初めて学問という順番になるのはわからないではないです。
日本の経済発展が鈍り、国に金が無くなってくると、学問も「役に立つかどうか」ばかりが強調されるようになってきました。残念ながら役に立つということは殆ど「物質的」な意味に限定されています。生物分野であれば、医療技術の進歩に貢献できるとか、病気を予防できるとか治せるとかいうことが役に立つことであるらしいです。はっきりいって貧しいなあと思わずにはおれません。人間が人間たる理由である、ものを考える事や学問すること、そういう尊い活動は、人間が動物として生存することを有利にするための仕事でなければならぬという考えなのだと思います。日本がいよいよ切羽詰まってきたのでしょう。研究や学問に必要な金銭は少なからぬ部分が税金からまかなわれるので、役に立つ研究を喧伝する役人や官僚は、二言目には国民の税金を使っていることを錦旗を振りかざすかのように言うわけですが、そんな1メートル先しか見えない近視だからこそ、日本の学問が痩せていって結局役に立つ成果も出なくなっていくのではないでしょうか。日本人は学問的に面白ければ金にならないことでも一生懸命やる民族でした。そうした学問好きの日本人気質というようなものが日本の高度経済成長の基盤になった高い工業技術の開発に繋がったのだろうと私は考えています。金が動機であれば、安くて品質の悪いものを作って売る方が手っ取り早いはずです。その方が経済という点では役に立ちます。確かに産業化初期の日本の工業製品は今の中国産のような安い粗悪品でした。それが見る見る間に最高品質のものを作りだし、そして世界トップを走るようになったのです。その原動力は、金銭的インセンシティブではなく、良いものを作りたいと思う純粋な気持ちや学問的な挑戦を面白いと思う日本人のメンタリティーであったのではないでしょうか。「役に立つ研究でなければ金を出さない」という態度は悪循環であると思います。限られた資金で、役に立つことを優先すると、長期的に本当に重要な研究がおろそかにされる一方、金に繋がるような目先の研究では金のある所に競争で負けるのです。適切な喩えでないかも知れませんが、あれだけの文化的そして文明的に世界を圧倒していたかつての中国が、なぜ現在、アメリカやヨーロッパに比べて経済的に不利な立場にあるのか、日清戦争の時に皆が畏れていた中国の底力というものはどこに行ってしまったのか、ひょっとしたら現在の日本が落ち入りつつあるように、目先の物質的な欲だけに注意が向いてしまった結果なのかも知れません。日本人の学力はどんどん低下しているようです。一方、アメリカは、株式市場や日本の政治家官僚を通じて、日本の富を、搾り取れるだけ搾り取ろうとしています。今のように純粋に学問のための学問が軽視されつづけていくと、そのうち日本人は、アメリカ人なみの頭脳しかない上に金も資源もないということになりかねません。この傾向が続くのなら、私はいっその事、日本を正式にアメリカの一州としてもらうことを考えた方がよいのではと思います。そうすれば、アメリカに流れていった日本の金は、少なくとも一部は返ってくるはずです。(勿論、アメリカは嫌がるでしょうが)それに、有害無益としか思えない政治家官僚の半分ぐらいのクビは切れるでしょう。
話をもとに戻して、例えば、スポーツ選手の仕事が、見る人に感動を与え少年に夢を与えることだと言えるのなら、純粋に学問のための研究も、勿論、人類に感動や夢を与え、精神的発達を促すものであると思います。その知識は更なる知識欲や好奇心を掻き立てるでしょう。学問のための研究は学問を志す人のみならず、社会一般を啓蒙し、考える葦である人間の頭脳の食べ物となるでしょう。私は社会にお金が無くなってきているからこそ、余計に学問の自由な研究を守らねばならないのだと思います。そうでなければ、人間は服をきただけのサルと変わらないのではないかと思います。