前回の続きなのですが、現代主流の科学は、微視的といってよいと思います。世の中はわからないことばかりなので、あらかじめ小さな枠を設定して、枠外のことは扱わないとするわけです。例えば生命科学という分野で、「生命とは何か」という問いや、神経科学で、「意識とは何か」と問うのはタブーです。実験科学者は、そういう問題は哲学科とか文学科とかでやってくれというでしょう。つまり、手持ちの研究方法が適用できる様な具体的で小さな問題以外は扱えないから、扱わないということです。これはある意味、本末転倒だと私は思います。そもそも生命という不思議を知りたかったから生命科学が発達したのに、今やその方法論の限界が学問そのものを限定してしまっているということなのだと思います。実際に、少なくない数の理系の実験系の人が、こうした現代科学の枠の外におかれている問題に科学的に挑戦しようとして、道を踏み外し(?)、理系の学部にいながら、主な仕事は哲学系の雑誌や一般向けの科学誌にしか出さない(出せない)という現象があります。前回のクリックの「意識」の問題は、即ち、「自己」の問題です。「私はどこにいるのか」という問いだと思います。私は子供のころ、母親が、もし父と結婚していなかったら私は生まれてこなかったと言うのを、とても違和感を持って聞いたことを覚えています。母が父と結婚せずもっと背が高くてハンサムな人と結婚していたら、私はもっと格好よく生まれてきただろうと思ったことを覚えています。つまり、器は違っても私というものがなくなるわけではないと思っていたのでした。大人になってから、確かに物理的な面をみれば器である私がなければ、私というものはこの世の中の人からとっては見えないわけですから、母がそういったのも納得できたのでした。しかし、自己というものがアプリオリに存在しているという感覚は、当時私が子供であったために自己を疑った経験というものがなかったという単純なナイーブさのみに起因しているとは私は思ってません。最近は、やはり肉体というものは仮の宿りであって、生命や魂の本体ではないのではという気持ちが強くなって来ました。
宗教に限らず様々なコンテクストで魂と肉体について語られます。夏目漱石の小説でも使われた公案、「父母未生以前、本来の面目」(母も父も生まれる前、自分はどこにいたのか)や、臨済の有名な説法の中の一句、「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」などに示されるように、物質でできた肉体に限定されない自己の存在(あるいは自己以上の何かの存在)は普遍的に語られます。それが本当かどうかは別段、今知る必要はないのですが、そう信じることは精神衛生上有用であろうと思っています。もし肉体が全てであって、死んだら自分というものが完全に消滅してしまうのであれば、この世の中は真剣勝負です。本当の真剣勝負なら逃げるが勝ちだと思います。あるいはどんな「ずる」をしてでも物質的利得を得たものの勝ちであると思うでしょう。人々はより刹那的になるでしょうし、不公平や格差が大きく、正直者が損をすることの多い現代の社会では「真摯に正々堂々とがんばること」は馬鹿らしいと思うようになるのではないでしょうか。もし本当にそうならば、世の中全ての事が空しすぎると思います。つまり現世はゲームだからこそ真剣にプレーできるのだと思います。「たかが一生、されど一生」という考え方は、少なくとも私の精神衛生上、有益であると思っています。
宗教に限らず様々なコンテクストで魂と肉体について語られます。夏目漱石の小説でも使われた公案、「父母未生以前、本来の面目」(母も父も生まれる前、自分はどこにいたのか)や、臨済の有名な説法の中の一句、「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」などに示されるように、物質でできた肉体に限定されない自己の存在(あるいは自己以上の何かの存在)は普遍的に語られます。それが本当かどうかは別段、今知る必要はないのですが、そう信じることは精神衛生上有用であろうと思っています。もし肉体が全てであって、死んだら自分というものが完全に消滅してしまうのであれば、この世の中は真剣勝負です。本当の真剣勝負なら逃げるが勝ちだと思います。あるいはどんな「ずる」をしてでも物質的利得を得たものの勝ちであると思うでしょう。人々はより刹那的になるでしょうし、不公平や格差が大きく、正直者が損をすることの多い現代の社会では「真摯に正々堂々とがんばること」は馬鹿らしいと思うようになるのではないでしょうか。もし本当にそうならば、世の中全ての事が空しすぎると思います。つまり現世はゲームだからこそ真剣にプレーできるのだと思います。「たかが一生、されど一生」という考え方は、少なくとも私の精神衛生上、有益であると思っています。