イリノイ州の大学で、元学生による銃乱射事件で5人が死亡し、多数のけが人がでました。犯人はDean's listに載ったほど優秀な学生だったようです。教室にいきなり入ってきて、無言のまま銃を乱射し、最後に自分を射って自殺したと報道されています。「またか」というのが正直な感想です。バージニアテックの事件から一年も経っていません。つい数ヶ月前にはオマハのショッピングモールで銃乱射事件があったばかりです。若い男性で周囲の社会への強い嫌悪というのはこれまでの共通した要素のようですが、今回の犯人の動機はまだはっきりしていません。バレンタインデーに起こった事は何らかの意味があるのでしょうか。その後のニュースでは犯人は精神病を患っていて、事件の前に薬物療法を中断していたとのことです。
対症療法ではあるのですが、アメリカはそろそろ一般人が簡単に銃を入手できる様なシステムを変更すべきではないでしょうか。一年に何回も銃乱射によって、安全である筈の学校やショッピングモールで理由もなく殺される人のことを考えたら、社会は制度として何らかの方策を取らねばならないと思います。以前にも思ったのですが、おそらく日本では、自分が死にたくなったら、無関係の他人を巻き添えにすることは少なく、一人で自殺するのではないでしょうか。銃などの殺傷武器へのアクセスが制限されているというのは大きな理由ではないかと思います。どうしても死にたいという気持ちになってしまった時には、人はすでに半分死んでいるのだといいます。そこまでいってしまっている人の気持ちを変えるのは並大抵ではないし、これまでの例を見ていると犯人はそもそも周囲から孤立してしまっていますから、仮に予防体制があったとしてもタイムリーに介入することすら困難でしょう。現実論として、自殺者の自殺を防げないのなら、せめて巻き添えにされる人を救うための制度から整えていくべきだと思います。私は全国的に一般人への銃器へのアクセスを制限することが唯一現実的な方法であろうと思います。無差別乱射事件の犯人はギャングでもヤクザでもなく、精神的な問題があるにせよ普通の青少年なのです。プロの暴力団であれば、人を殺傷するのに理由があり、その巻き添えにならないように工夫することもできるでしょうが、これまでにたびたび起こっている無差別乱射事件は、精神状態がマトモではなくなっている犯人によって起きています。いわば「キチガイに刃物」なわけで、予測不能なのです。とにかく刃物を隠す事が第一であろうと思います。そう思っていたら、テキサスでは、逆に、学校内で学生や教官の銃の携帯を許可するように制度を変えるべきだといっている人がいました。やられる前にやってしまえということらしいです。構内では銃器の携帯は禁止されている学校が殆どでしょうが、そういう所に犯人が入ってきて、無抵抗な学生や教員を撃ち殺すという事件が起こっているのだから、学生や教官の何人かでも銃を携帯していれば、犯人に抵抗することができる筈だという考えらしいです。さすが、所かわれば品変わるで、テキサスにはこんな風に考える人がいたのかと思ってショックを受けました。私は、学生に武器というのは、学生がキチガイでなくても、十分危険だと思います。本人たちは死ぬ気や殺す気は全く無くても、死ぬようなことを平然とやって、犬死にしてしまうようなことがしょっちゅうおこる年頃なのですから。構内での銃の携帯を許したら、銃乱射事件で死ぬよりもはるかに多くの学生が死ぬであろうと私は思います。
一昔前のシリアでは、家には鍵はついてなかったそうです。見知らぬ人でも招き入れてもてなすのが普通であったらしいです。人は信頼するのが当たり前で、疑うことは教えられなかったそうです。最近は物騒になって家にも鍵がつくようになりました。悪貨は良貨を駆逐するといいますが、一部の悪い人が、本来善良であった人の心にも疑いを抱かせるようになり、社会全体を悪くしてしまうのです。構内での銃の携帯許可し、暴力には暴力で対抗しようという考え方はまさにこの喩えを地でいくようなものです。大切なのは悪貨を効率よく見つけその周囲への影響を最小限にするための工夫だと思います。学生でも銃をもって自衛しなければならないという考えは、人をみたら泥棒と思えというメンタリティーに起因しています。逆に、みんなが銃を持つ事をやめたら、コソドロは増えるかもしれませんが、殺人強盗は減るのではないでしょうか。これは政府レベルで制度を改めることで比較的容易にできることです。
興味深いことに、カナダではアメリカ同様に銃器は一般に出回っているらしいですが、銃による殺人事件はアメリカに比べて随分低いという話です。カナダ人は、銃を扱うアメリカ人が精神的に未熟なのだとアメリカ人を笑うわけですが、おそらくこの指摘は正しいでしょう。おそらくカナダに比べれば、アメリカは人種的にも経済的にも文化的にもより多様である上に、権力層や経済的に優位にある人々が、そうしたバックグラウンドに起因する格差や差別を根本的に解決していこうと本気で思っている人が少ないからだと思います。保守派白人は、自分たちの昔からの生活を守ることが第一で、統合した平等な社会の到来など希望していません。一方経済的弱者であるマイノリティーは、白人らが未だに経済的弱者を搾取し続けることで、自分の生活を守ろうとする態度に辟易としています。だからこそ、黒人女性は、白人女性のヒラリークリントンではなく、男性であっても半黒人のオバマを支持するのです。白人女性が白人社会の内部での男女差別に不満を持っているのとは比べ物にならないほど、黒人女性は白人優越主義には我慢がならないということでしょう。話が外れましたが、このようにアメリカ国内で根深い経済格差、人種格差の問題は、アメリカ社会に潜むひずみであって、人が人を信頼できるような安定した社会を築く上での障害になっています。お互いに信頼できないから銃を持ち、そして実際に銃を人に向けるわけです。そういう動機で銃を携帯する人に精神的な成熟性は期待できないでしょう。
教育や制度の改善を通じて、社会がより平等な機会を国民に提供できる様なシステムを作っていく一方、その間の対症療法として武器へのアクセスを制限することは早期に行われるべきであろうと思います。それによって、無差別殺人による被害者数も減少可能であろうと思います。
対症療法ではあるのですが、アメリカはそろそろ一般人が簡単に銃を入手できる様なシステムを変更すべきではないでしょうか。一年に何回も銃乱射によって、安全である筈の学校やショッピングモールで理由もなく殺される人のことを考えたら、社会は制度として何らかの方策を取らねばならないと思います。以前にも思ったのですが、おそらく日本では、自分が死にたくなったら、無関係の他人を巻き添えにすることは少なく、一人で自殺するのではないでしょうか。銃などの殺傷武器へのアクセスが制限されているというのは大きな理由ではないかと思います。どうしても死にたいという気持ちになってしまった時には、人はすでに半分死んでいるのだといいます。そこまでいってしまっている人の気持ちを変えるのは並大抵ではないし、これまでの例を見ていると犯人はそもそも周囲から孤立してしまっていますから、仮に予防体制があったとしてもタイムリーに介入することすら困難でしょう。現実論として、自殺者の自殺を防げないのなら、せめて巻き添えにされる人を救うための制度から整えていくべきだと思います。私は全国的に一般人への銃器へのアクセスを制限することが唯一現実的な方法であろうと思います。無差別乱射事件の犯人はギャングでもヤクザでもなく、精神的な問題があるにせよ普通の青少年なのです。プロの暴力団であれば、人を殺傷するのに理由があり、その巻き添えにならないように工夫することもできるでしょうが、これまでにたびたび起こっている無差別乱射事件は、精神状態がマトモではなくなっている犯人によって起きています。いわば「キチガイに刃物」なわけで、予測不能なのです。とにかく刃物を隠す事が第一であろうと思います。そう思っていたら、テキサスでは、逆に、学校内で学生や教官の銃の携帯を許可するように制度を変えるべきだといっている人がいました。やられる前にやってしまえということらしいです。構内では銃器の携帯は禁止されている学校が殆どでしょうが、そういう所に犯人が入ってきて、無抵抗な学生や教員を撃ち殺すという事件が起こっているのだから、学生や教官の何人かでも銃を携帯していれば、犯人に抵抗することができる筈だという考えらしいです。さすが、所かわれば品変わるで、テキサスにはこんな風に考える人がいたのかと思ってショックを受けました。私は、学生に武器というのは、学生がキチガイでなくても、十分危険だと思います。本人たちは死ぬ気や殺す気は全く無くても、死ぬようなことを平然とやって、犬死にしてしまうようなことがしょっちゅうおこる年頃なのですから。構内での銃の携帯を許したら、銃乱射事件で死ぬよりもはるかに多くの学生が死ぬであろうと私は思います。
一昔前のシリアでは、家には鍵はついてなかったそうです。見知らぬ人でも招き入れてもてなすのが普通であったらしいです。人は信頼するのが当たり前で、疑うことは教えられなかったそうです。最近は物騒になって家にも鍵がつくようになりました。悪貨は良貨を駆逐するといいますが、一部の悪い人が、本来善良であった人の心にも疑いを抱かせるようになり、社会全体を悪くしてしまうのです。構内での銃の携帯許可し、暴力には暴力で対抗しようという考え方はまさにこの喩えを地でいくようなものです。大切なのは悪貨を効率よく見つけその周囲への影響を最小限にするための工夫だと思います。学生でも銃をもって自衛しなければならないという考えは、人をみたら泥棒と思えというメンタリティーに起因しています。逆に、みんなが銃を持つ事をやめたら、コソドロは増えるかもしれませんが、殺人強盗は減るのではないでしょうか。これは政府レベルで制度を改めることで比較的容易にできることです。
興味深いことに、カナダではアメリカ同様に銃器は一般に出回っているらしいですが、銃による殺人事件はアメリカに比べて随分低いという話です。カナダ人は、銃を扱うアメリカ人が精神的に未熟なのだとアメリカ人を笑うわけですが、おそらくこの指摘は正しいでしょう。おそらくカナダに比べれば、アメリカは人種的にも経済的にも文化的にもより多様である上に、権力層や経済的に優位にある人々が、そうしたバックグラウンドに起因する格差や差別を根本的に解決していこうと本気で思っている人が少ないからだと思います。保守派白人は、自分たちの昔からの生活を守ることが第一で、統合した平等な社会の到来など希望していません。一方経済的弱者であるマイノリティーは、白人らが未だに経済的弱者を搾取し続けることで、自分の生活を守ろうとする態度に辟易としています。だからこそ、黒人女性は、白人女性のヒラリークリントンではなく、男性であっても半黒人のオバマを支持するのです。白人女性が白人社会の内部での男女差別に不満を持っているのとは比べ物にならないほど、黒人女性は白人優越主義には我慢がならないということでしょう。話が外れましたが、このようにアメリカ国内で根深い経済格差、人種格差の問題は、アメリカ社会に潜むひずみであって、人が人を信頼できるような安定した社会を築く上での障害になっています。お互いに信頼できないから銃を持ち、そして実際に銃を人に向けるわけです。そういう動機で銃を携帯する人に精神的な成熟性は期待できないでしょう。
教育や制度の改善を通じて、社会がより平等な機会を国民に提供できる様なシステムを作っていく一方、その間の対症療法として武器へのアクセスを制限することは早期に行われるべきであろうと思います。それによって、無差別殺人による被害者数も減少可能であろうと思います。