先週の話、山梨大の若松さんが、STAP問題の責任をとって停職処分となったという話がありました。理研の野依理事長も辞任するそうです。
STAP問題というのは、研究倫理の問題というより、社会構造に組み込まれた日本人的陰湿さの問題ではないかな、という気がしてきました。
確かにOさんがやったことは非難されるべきことでしょう。ただ、彼女自身はやったことがそれほど大したことではないと認識していただろうと想像されます。些細な火の不始末が大火事になるというのはよくある話です。今回は、理研、Natureといった花火工場でのちょっとした火遊びが大爆発につながって、関係者の自殺や処分などに至ったということではないでしょうか。
責任を辿っていけば、確かに火遊びした本人に加えて、十分に教育しなかった人、引火物となるようなものを管理していなかった人、などというところに行き着くわけですが、思うのは、果たしてそうやって責任を追求していって、最終的に何らかの良いことが期待できるのか、ということです。見せしめには十分なっているでしょう。しかし、不正に関わった人々を見せしめにすることが日本の社会や研究の世界においてプラスに働くか、と考えれば、とてもそうは思えません。
ヘンな喩えですが、出来心で浮気して離婚した子供のいる家庭みたいなものです。責任を追求していって誤った行いに何らかの罰が下ったところで、それだけのことです。浮気した方は家庭と子供と信用を失い、子供は親を失い、浮気された方は配偶者を失って深く傷つきます。弁護士以外に得をする人は誰もいません。このSTAP騒動で、週刊誌やマスコミ以外に、誰か一人でも得をした関係者はいるのでしょうか?
このように不正に厳しく責任追及する風潮で、今後に起こるであろうことは、PIは責任をおそれて、必要以上に疑心暗鬼となり、管理を強め、データや試料などのチェックを過剰にせざるを得なくなり、規制がどんどん増えて、研究から自由が失われ、余計な雑用が増えて成果があがりにくなるいうことでしょう。研究も人間のすることですから、故意であれ事故であれ何らかの誤りは必ず出ます。加えて、成果主義で職も出世も決まる世界ですから、研究費と研究ポジションが不足している現状では、研究不正のリスクを犯してでも成果をあげたいと考える研究者は大勢いるでしょう。ならば、不正を暴いてその責任を追求するという「科学」にとっては非生産的なことに労力を費やすぐらいなら、最初から不正の可能性を考慮に入れておく方が、遥かにコストは低くなるのではないでしょうか。基本的に研究では、推定有罪ですから、不正が疑われて速やかに晴らすことができなければ、論文はすみやかに撤回するというルールを作り、それに使用された研究費を返還させて終わりにすればどうでしょう。検証実験などというバカげたことに余分な労力と時間とカネをかけて、ただでさえUglyな傷を酷くする必要はありません。
結局、人間は感情の動物ですから、研究不正をした人間がそれなりの罰を受けるのを見たいのです。そうやって水に落ちた犬を叩きたいのです。このような行為が全く非生産的であることは言うまでもありません。他人の批判をしたりしているヒマを自分の研究に振り当てた方がはるかに生産的であるのは間違いありません。加えて、不正を働いた人間もその後の人生があるわけですから、論文が撤回された時点で忘れて「次にいく」のが武士の情けというものです。
もう一つ、私が全く解せないのが、日本人特有の「責任の取り方」です。責任をとるとは、自らが起こした何らかのダメージを何らの方法で回復するということではないかと私は思います。今回、若山さんが停職3ヶ月という処分を受けた、ということですが、これは単に罰を与えただけのことで、ダメージの回復には何の効果もありません。この「罰を受ける」ということと「責任をとる」ということが、どうもごっちゃまぜになっているのが、私には理解できません。
若山さんがOさんの話を信じていたころのインタビューとかを読む限り、この方も被害者と言ってよいでしょう。もちろん、論文の責任著者となった以上は責任を取らねばなりませんが、それが停職であるとか役職の辞任というのは違うのではないでしょうか。論文に関しての責任は、論文を撤回して不正をおおやけに認める以外にはないでしょう。それについやされた研究費の返還というのも責任かもしれません。
この「罰を受けること」イコール「責任を取ること」という妙な考え方がもっとも顕著なのが政府閣僚ではないでしょうか。例えば、閣僚がなんらかのスキャンダルで要職を辞任することはしょっちゅうあります。税金で給料もらっておきながら、その仕事を途中でほっぽり出すことになるのですが、罰なのかも知れませんが、こういう行為は、むしろ、無責任でしょう。加えて不思議なことは、仕事がマトモにできず、辞めてマシな人にかわってもらわうことこそが責任をとることになるような人に限って、仕事を全うすることが責任だ、というような理屈を捏ねるのです。
話をもどすと、若山さんは騙されたことに気がついて論文撤回を呼びかけた時点で、責任は取っていると私は思うのです。それ以上のことを求めるのはおかしいと私は思います。理研という組織にしてもそうです。それ以上の罰を与えたり、あるいは逆に自ら罰を求めたりということは、やめるべきだと私は思います。それは単なる代償行為にすぎないのではないのかと思うのですけど。
福島原発のあれだけの悲惨な事故はあっという間に風化し、東電も政府も誰一人として「責任」をとっていないのに、しかるべき責任を取った若山さんらにいらない罰を与えるという社会はおかしいと私は思うのですが。
STAP問題というのは、研究倫理の問題というより、社会構造に組み込まれた日本人的陰湿さの問題ではないかな、という気がしてきました。
確かにOさんがやったことは非難されるべきことでしょう。ただ、彼女自身はやったことがそれほど大したことではないと認識していただろうと想像されます。些細な火の不始末が大火事になるというのはよくある話です。今回は、理研、Natureといった花火工場でのちょっとした火遊びが大爆発につながって、関係者の自殺や処分などに至ったということではないでしょうか。
責任を辿っていけば、確かに火遊びした本人に加えて、十分に教育しなかった人、引火物となるようなものを管理していなかった人、などというところに行き着くわけですが、思うのは、果たしてそうやって責任を追求していって、最終的に何らかの良いことが期待できるのか、ということです。見せしめには十分なっているでしょう。しかし、不正に関わった人々を見せしめにすることが日本の社会や研究の世界においてプラスに働くか、と考えれば、とてもそうは思えません。
ヘンな喩えですが、出来心で浮気して離婚した子供のいる家庭みたいなものです。責任を追求していって誤った行いに何らかの罰が下ったところで、それだけのことです。浮気した方は家庭と子供と信用を失い、子供は親を失い、浮気された方は配偶者を失って深く傷つきます。弁護士以外に得をする人は誰もいません。このSTAP騒動で、週刊誌やマスコミ以外に、誰か一人でも得をした関係者はいるのでしょうか?
このように不正に厳しく責任追及する風潮で、今後に起こるであろうことは、PIは責任をおそれて、必要以上に疑心暗鬼となり、管理を強め、データや試料などのチェックを過剰にせざるを得なくなり、規制がどんどん増えて、研究から自由が失われ、余計な雑用が増えて成果があがりにくなるいうことでしょう。研究も人間のすることですから、故意であれ事故であれ何らかの誤りは必ず出ます。加えて、成果主義で職も出世も決まる世界ですから、研究費と研究ポジションが不足している現状では、研究不正のリスクを犯してでも成果をあげたいと考える研究者は大勢いるでしょう。ならば、不正を暴いてその責任を追求するという「科学」にとっては非生産的なことに労力を費やすぐらいなら、最初から不正の可能性を考慮に入れておく方が、遥かにコストは低くなるのではないでしょうか。基本的に研究では、推定有罪ですから、不正が疑われて速やかに晴らすことができなければ、論文はすみやかに撤回するというルールを作り、それに使用された研究費を返還させて終わりにすればどうでしょう。検証実験などというバカげたことに余分な労力と時間とカネをかけて、ただでさえUglyな傷を酷くする必要はありません。
結局、人間は感情の動物ですから、研究不正をした人間がそれなりの罰を受けるのを見たいのです。そうやって水に落ちた犬を叩きたいのです。このような行為が全く非生産的であることは言うまでもありません。他人の批判をしたりしているヒマを自分の研究に振り当てた方がはるかに生産的であるのは間違いありません。加えて、不正を働いた人間もその後の人生があるわけですから、論文が撤回された時点で忘れて「次にいく」のが武士の情けというものです。
もう一つ、私が全く解せないのが、日本人特有の「責任の取り方」です。責任をとるとは、自らが起こした何らかのダメージを何らの方法で回復するということではないかと私は思います。今回、若山さんが停職3ヶ月という処分を受けた、ということですが、これは単に罰を与えただけのことで、ダメージの回復には何の効果もありません。この「罰を受ける」ということと「責任をとる」ということが、どうもごっちゃまぜになっているのが、私には理解できません。
若山さんがOさんの話を信じていたころのインタビューとかを読む限り、この方も被害者と言ってよいでしょう。もちろん、論文の責任著者となった以上は責任を取らねばなりませんが、それが停職であるとか役職の辞任というのは違うのではないでしょうか。論文に関しての責任は、論文を撤回して不正をおおやけに認める以外にはないでしょう。それについやされた研究費の返還というのも責任かもしれません。
この「罰を受けること」イコール「責任を取ること」という妙な考え方がもっとも顕著なのが政府閣僚ではないでしょうか。例えば、閣僚がなんらかのスキャンダルで要職を辞任することはしょっちゅうあります。税金で給料もらっておきながら、その仕事を途中でほっぽり出すことになるのですが、罰なのかも知れませんが、こういう行為は、むしろ、無責任でしょう。加えて不思議なことは、仕事がマトモにできず、辞めてマシな人にかわってもらわうことこそが責任をとることになるような人に限って、仕事を全うすることが責任だ、というような理屈を捏ねるのです。
話をもどすと、若山さんは騙されたことに気がついて論文撤回を呼びかけた時点で、責任は取っていると私は思うのです。それ以上のことを求めるのはおかしいと私は思います。理研という組織にしてもそうです。それ以上の罰を与えたり、あるいは逆に自ら罰を求めたりということは、やめるべきだと私は思います。それは単なる代償行為にすぎないのではないのかと思うのですけど。
福島原発のあれだけの悲惨な事故はあっという間に風化し、東電も政府も誰一人として「責任」をとっていないのに、しかるべき責任を取った若山さんらにいらない罰を与えるという社会はおかしいと私は思うのですが。