グラントを出し終わり、書くべき論文にとりかかりました。グラントが通るか通らないかわからない状態なので、節約モードですが、論文文を一本出すと、$2,000 - $4,000かかります。今の所3本半がパイプラインに入っているので、出版費用だけでもバカになりません。二つはそれなりの雑誌を狙えると思うので、早期に書いてださないとまずいのですが、なかなか遅々として筆が進みません。
もう一本は、書いてきてもらったのを直そうとしたのですが、ちょっと構成や英語表現のレベルから難があり、うーんとうなってしまいました。自分が一から書き直した方が早いような気がするのですが、中身にも問題があり、うまくいっても、書いた本人の希望のジャーナルよりも1-2ランクは最低下がるだろうと考えざるを得ませんでした。しかし、このあたりはまず本人が納得してもらわないといけません。本人が自分の論文を客観的に見て世間の評価とだいたいマッチする評価が下せるのならば、問題はありませんが、大抵、人間は自分のことは他人が自分を見る場合よりも高く評価する傾向にあります。彼女の場合は、この現実の認識のずれが普通の人よりも多少大きいようです。こう言う場合、ヘタに介入すると後に禍根を残すことになりかねません。美容外科みたいなものです。患者さん本人の希望が医師の見立てよりも高いと、いくら医師がベストの結果だと思ったとしても患者さんは納得しないでしょう。
それで、言いたいことをグッとこらえて、おおまかなアドバイスだけして、あとは本人に任せることにしました。人間は感情の動物ですから、いくら建設的な目的であっても、自分のやったことを批評、批判されるのはイヤなものです。本人の意向のジャーナルを二、三、試してみてからリーズナブルな雑誌に投稿するという手順を踏むことにしました。幸い、論文の内容と英語については時間をとって話したら、反感を呼ぶこともなく、わりとスムーズに話は進み、ホッとしました。
というわけで、いろいろ先のことを考えると不安がつきません。それで現在の今日だけのことに集中しようとしています。人に記憶や想像力というものがなければ、今の瞬間だけが唯一存在するものです。「Carpe Diem」、「今日が最後の日であるように生きよ」とよく言われますが、頭ではわかっていても心から実感すること、ましてそれを行動に移すことはなかなか難しいです。
先日の記念日に東北大震災のことを思い出していたら、ふと、私が現在生きているのはすべての私の体の臓器がそれなりに機能しており、事故にも天災にもあわなかったという希有な条件の積み重ねの結果であるということを感じました。ちょっとものを喉に詰めたり、心臓の脈が乱れたり、脳の血管が切れたり、歩道に車が突っ込んできたり、そういう「よくあること」の一つでも私に起こっておれば、私は今の時間に生きた存在として在ることがなかった可能性もあったのだ、という感覚に打たれました。生きていることは奇跡の積み重ねです。生きているだけですごいことで、しかもそのことに私はほとんど積極的に関与していないのです。心臓も腸も腎臓も私の意志と無関係に動いています。だから、心臓を動かしたり腸から栄養を吸収したりさせているのは私ではなく、私以外の誰かです。とすれば、私の命というものはその誰かからの贈り物に他なりません。私が今日の一日を過ごせるのも、その誰かのお陰です。そして、私が存在しなければ、当然ながら「今日」を認識する私という存在はありません。
ここまで考えて、「今日が最後の日である」というのは比喩ではなく厳然たる事実なのであり、その「今日」とは誰かからの「贈り物」なのだということに深く気づかされました。「今日という最後の日は贈り物である」、これは明日になって明日が今日になっても真理です。今日という一日は「誰か」の厚意によって与えられたものであることには間違いありません。贈り物ですから、文句を言ったり突き返したりしてはいけません。その「厚意」はただただ有り難く受け取るのだと思いました。
もう一本は、書いてきてもらったのを直そうとしたのですが、ちょっと構成や英語表現のレベルから難があり、うーんとうなってしまいました。自分が一から書き直した方が早いような気がするのですが、中身にも問題があり、うまくいっても、書いた本人の希望のジャーナルよりも1-2ランクは最低下がるだろうと考えざるを得ませんでした。しかし、このあたりはまず本人が納得してもらわないといけません。本人が自分の論文を客観的に見て世間の評価とだいたいマッチする評価が下せるのならば、問題はありませんが、大抵、人間は自分のことは他人が自分を見る場合よりも高く評価する傾向にあります。彼女の場合は、この現実の認識のずれが普通の人よりも多少大きいようです。こう言う場合、ヘタに介入すると後に禍根を残すことになりかねません。美容外科みたいなものです。患者さん本人の希望が医師の見立てよりも高いと、いくら医師がベストの結果だと思ったとしても患者さんは納得しないでしょう。
それで、言いたいことをグッとこらえて、おおまかなアドバイスだけして、あとは本人に任せることにしました。人間は感情の動物ですから、いくら建設的な目的であっても、自分のやったことを批評、批判されるのはイヤなものです。本人の意向のジャーナルを二、三、試してみてからリーズナブルな雑誌に投稿するという手順を踏むことにしました。幸い、論文の内容と英語については時間をとって話したら、反感を呼ぶこともなく、わりとスムーズに話は進み、ホッとしました。
というわけで、いろいろ先のことを考えると不安がつきません。それで現在の今日だけのことに集中しようとしています。人に記憶や想像力というものがなければ、今の瞬間だけが唯一存在するものです。「Carpe Diem」、「今日が最後の日であるように生きよ」とよく言われますが、頭ではわかっていても心から実感すること、ましてそれを行動に移すことはなかなか難しいです。
先日の記念日に東北大震災のことを思い出していたら、ふと、私が現在生きているのはすべての私の体の臓器がそれなりに機能しており、事故にも天災にもあわなかったという希有な条件の積み重ねの結果であるということを感じました。ちょっとものを喉に詰めたり、心臓の脈が乱れたり、脳の血管が切れたり、歩道に車が突っ込んできたり、そういう「よくあること」の一つでも私に起こっておれば、私は今の時間に生きた存在として在ることがなかった可能性もあったのだ、という感覚に打たれました。生きていることは奇跡の積み重ねです。生きているだけですごいことで、しかもそのことに私はほとんど積極的に関与していないのです。心臓も腸も腎臓も私の意志と無関係に動いています。だから、心臓を動かしたり腸から栄養を吸収したりさせているのは私ではなく、私以外の誰かです。とすれば、私の命というものはその誰かからの贈り物に他なりません。私が今日の一日を過ごせるのも、その誰かのお陰です。そして、私が存在しなければ、当然ながら「今日」を認識する私という存在はありません。
ここまで考えて、「今日が最後の日である」というのは比喩ではなく厳然たる事実なのであり、その「今日」とは誰かからの「贈り物」なのだということに深く気づかされました。「今日という最後の日は贈り物である」、これは明日になって明日が今日になっても真理です。今日という一日は「誰か」の厚意によって与えられたものであることには間違いありません。贈り物ですから、文句を言ったり突き返したりしてはいけません。その「厚意」はただただ有り難く受け取るのだと思いました。