先日の東京新聞、筆洗を読んで、ちょっと思ったこと。
話の内容に加えて、この話が日本の道徳の教科書に採用されるということと、そしてそれを読んだ子どもが何を感じるのかということを考えて、私はちょっとゾクッとするような違和感を覚えました。
この親子は請求書を交換する代わりに、正直にストレートに話あうということをしないのでしょうか。
子どもは、お小遣いが欲しいなら、請求書を突きつけるのではなく「お手伝いしますからお小遣いを下さい」とどうして正直にお願いできないのでしょうか。親は、その子どもの行動に対して、「何でもカネに換算して行いを計るようなことをしてはいけない。お小遣いが欲しいなら、そう言いなさい」と教えるべきではないのでしょうか。
この母親はカネを請求通りに支払った上に、意趣返しのメモを渡して、まるで子どもに罪悪感を植え付けようとしているかのようです。ちょっと穿った見方に思えるかも知れませんが、この母親の行動をみて「Passive Agressive」という言葉を思い出しました。他人をmanipulateするときに「罪悪感」を使うのはよくある手です。そもそも、親に請求書を突きつけるような子どもに育ったのはなぜなのでしょう。親に請求書を突きつけるということがどういうことなのかということに対する理解が乏しいということですね。何らかの行為に対して金銭的見返りを要求するのは当然であると子どもはその環境から自然と学んだのかも知れません。が、そもそもその環境を与えたのは誰なのでしょうか。
この母親の行動から、子どもは何を学ぶのでしょう。「無償の愛」でしょうか。私はとてもそうは思えません。愚かな子どもは親が子どもにしてくれることはタダで、子どもが親にすることにはカネが請求できるのだ、と思うかも知れません。あるいは、カネと引き換えに「罪悪感」を使って人をmanipulationする方法を学ぶかも知れません。
もっと穿って考えれば、この話は、家族の中でのお互いの行いをカネに換算して、有料だからダメで無料だから尊いなどというような短絡的な価値観を推奨しているかのように聞こえます。政府は本音では、国民は、何でもカネに換算して物事を考えて欲しいと思っているでしょう。彼らにとってみれば、子どものお使いは労働となり、お小遣いは収入と計算され、税収が発生することは望ましいことでしょうから。
本当のところは、カネは二次的なものです。カネのない動物の世界でも親は無償で子どもを守り、その子どもはそのまた子どもを守っていって、何の見返りも求めないのです。人間の世界でも、子どもは、お使いをするのと引き換えに、誰かの役に立てるという実感と幸福感を感じ取ることができるはずです。それこそが人が社会に生きる意味ですから。そういう活動を通じて学んでいきます。小さい子どもは見返りも求めずお手伝いをしたがるものです。お使いした時には子どもはすでに見返りを受け取っているのです。
ならば、子どもは「お使いさせてもらってありがとう」、親は「お使いしてくれてありがとう」と、カネを介さない人間関係とお互いを思いやる心を育むのが本来の姿ではないでしょうか。それをカネに換算して、相殺してチャラね、というのではただの「取引き」にすぎません。まして、意図的であれ無意識的であれ、親が子どもの「罪悪感」をカネで買うようなマネはすべきではありません。
それで思い出しました。しばらく前からマクドナルドでの「スマイル0円」というメニューが無くなっているそうです。
Twitterから
これは秀逸。
もし、この子どもが上の道徳の話を読んで、「どうして、お母さんからの請求書は0 ドルなの?」と聞いたら、この父はどう答えるでしょうか。
ちょっと関連して、別のサイトから引用します。
誰かのために力を尽くすこと
誰かの役に立てることの喜びを教えるのが本来の教育というものでしょう。
そう思えば、この「道徳」の教科書に載っている話は肌寒いばかりです。
宗教に比べると、「道徳」は相対的なもので、その時の社会の要求に沿って変化します。この話はカネが全てのような今の世の中にふさわしい喩え話なのかも知れません。
しかし、この非人間的な現代の資本主義は間もなく崩壊し、こういう喩え話が意味不明になる日も遠くないと私は思っておりますが。
生活向上委員会大管弦楽団から、青年の主張(とにかく何でもいいからカネ)
文部科学省がつくった道徳教育の教材『わたしたちの道徳』に、こんな話が載っている。ある朝、少年がお母さんに一枚の紙を渡す。<せい求書/お使いちん 1ドル/おそうじした代 2ドル/音楽のけいこに行ったごほうび 1ドル/合計 4ドル>▼母さんは請求通りお金を払う。<お母さんからのせい求書/親切にしてあげた代 0ドル/病気をしたときのかん病代 0ドル…/合計 0ドル>と書かれた紙を添えて
話の内容に加えて、この話が日本の道徳の教科書に採用されるということと、そしてそれを読んだ子どもが何を感じるのかということを考えて、私はちょっとゾクッとするような違和感を覚えました。
この親子は請求書を交換する代わりに、正直にストレートに話あうということをしないのでしょうか。
子どもは、お小遣いが欲しいなら、請求書を突きつけるのではなく「お手伝いしますからお小遣いを下さい」とどうして正直にお願いできないのでしょうか。親は、その子どもの行動に対して、「何でもカネに換算して行いを計るようなことをしてはいけない。お小遣いが欲しいなら、そう言いなさい」と教えるべきではないのでしょうか。
この母親はカネを請求通りに支払った上に、意趣返しのメモを渡して、まるで子どもに罪悪感を植え付けようとしているかのようです。ちょっと穿った見方に思えるかも知れませんが、この母親の行動をみて「Passive Agressive」という言葉を思い出しました。他人をmanipulateするときに「罪悪感」を使うのはよくある手です。そもそも、親に請求書を突きつけるような子どもに育ったのはなぜなのでしょう。親に請求書を突きつけるということがどういうことなのかということに対する理解が乏しいということですね。何らかの行為に対して金銭的見返りを要求するのは当然であると子どもはその環境から自然と学んだのかも知れません。が、そもそもその環境を与えたのは誰なのでしょうか。
この母親の行動から、子どもは何を学ぶのでしょう。「無償の愛」でしょうか。私はとてもそうは思えません。愚かな子どもは親が子どもにしてくれることはタダで、子どもが親にすることにはカネが請求できるのだ、と思うかも知れません。あるいは、カネと引き換えに「罪悪感」を使って人をmanipulationする方法を学ぶかも知れません。
もっと穿って考えれば、この話は、家族の中でのお互いの行いをカネに換算して、有料だからダメで無料だから尊いなどというような短絡的な価値観を推奨しているかのように聞こえます。政府は本音では、国民は、何でもカネに換算して物事を考えて欲しいと思っているでしょう。彼らにとってみれば、子どものお使いは労働となり、お小遣いは収入と計算され、税収が発生することは望ましいことでしょうから。
本当のところは、カネは二次的なものです。カネのない動物の世界でも親は無償で子どもを守り、その子どもはそのまた子どもを守っていって、何の見返りも求めないのです。人間の世界でも、子どもは、お使いをするのと引き換えに、誰かの役に立てるという実感と幸福感を感じ取ることができるはずです。それこそが人が社会に生きる意味ですから。そういう活動を通じて学んでいきます。小さい子どもは見返りも求めずお手伝いをしたがるものです。お使いした時には子どもはすでに見返りを受け取っているのです。
ならば、子どもは「お使いさせてもらってありがとう」、親は「お使いしてくれてありがとう」と、カネを介さない人間関係とお互いを思いやる心を育むのが本来の姿ではないでしょうか。それをカネに換算して、相殺してチャラね、というのではただの「取引き」にすぎません。まして、意図的であれ無意識的であれ、親が子どもの「罪悪感」をカネで買うようなマネはすべきではありません。
それで思い出しました。しばらく前からマクドナルドでの「スマイル0円」というメニューが無くなっているそうです。
Twitterから
・「スマイルください」って注文したら、「そちらの商品はかなり前から生産中止です」と無表情で言われた
・バイトしてたことあるけど「スマイルください」って言われるの辛くてやめた
・店員にスマイルください!って言うと睨まれる
・バイトしてたことあるけど「スマイルください」って言われるの辛くてやめた
・店員にスマイルください!って言うと睨まれる
これは秀逸。
マクドナルドで注文中の親子の会話。子供「ねぇパパ?このスマイル0円ってどうして0円なの?」 親「それはね、店員の単なる義務感によって作り出された相手に対してなんの感情も抱いていない上っ面だけの1円の価値も無い笑顔だからだよ」と説明していた。
もし、この子どもが上の道徳の話を読んで、「どうして、お母さんからの請求書は0 ドルなの?」と聞いたら、この父はどう答えるでしょうか。
ちょっと関連して、別のサイトから引用します。
誰かのために力を尽くすこと
米国の著名な自己啓発家ジグ・ジグラーの言葉を引こう。
「人の望みを叶えるために十分力を尽くせば、不思議と自分の望みも何でも叶うものだ」
成功する人はもともと人の役に立ちたいという欲求がある。
そして、心から望んで誰かのために力を発揮しているとき、自分は正しい行いをしていると感じるのである。
心から人のために働くことで生まれる喜びは、自分が抱くどんな望みよりも尊いものだ。
「人の望みを叶えるために十分力を尽くせば、不思議と自分の望みも何でも叶うものだ」
成功する人はもともと人の役に立ちたいという欲求がある。
そして、心から望んで誰かのために力を発揮しているとき、自分は正しい行いをしていると感じるのである。
心から人のために働くことで生まれる喜びは、自分が抱くどんな望みよりも尊いものだ。
誰かの役に立てることの喜びを教えるのが本来の教育というものでしょう。
そう思えば、この「道徳」の教科書に載っている話は肌寒いばかりです。
宗教に比べると、「道徳」は相対的なもので、その時の社会の要求に沿って変化します。この話はカネが全てのような今の世の中にふさわしい喩え話なのかも知れません。
しかし、この非人間的な現代の資本主義は間もなく崩壊し、こういう喩え話が意味不明になる日も遠くないと私は思っておりますが。
生活向上委員会大管弦楽団から、青年の主張(とにかく何でもいいからカネ)