tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

錦秋の円成寺

2010年11月15日 | 奈良検定
円成寺(えんじょうじ 奈良市忍辱山町1273)では、平城遷都1300年祭の「祈りの回廊~奈良大和路秘宝・秘仏特別開帳」事業に協力して、寺宝展が開催されている(11/21まで)。私は11/12(金)、寺宝展などの拝観ガイドのため、同寺を訪れた。行く前に、先輩(会社のOB)から「ちょうど紅葉のピークや」と聞かされていたので、カメラ持参で訪れた。

早めに家を出て、集合時間の15分前に到着すると、そこは一面、キラキラ輝く赤と朱と金と緑、まさに錦の世界が広がっていた。紅葉の写真を挟みながら、この古刹について、Wikipedia「円成寺」を引用しつつ紹介する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E6%88%90%E5%AF%BA


午前8時40分頃の参道(浄土式庭園の周り)。もとは県道だったそうだ



《円成寺(えんじょうじ)は、奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の仏教寺院。山号は忍辱山(にんにくせん)、本尊は阿弥陀如来。奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する》。多宝塔に安置されている大日如来像は、柴門ふみが「ベスト1」に挙げている仏さまである。







《寺に伝わる「和州忍辱山円成寺縁起」によれば、沿革は次の通りである。天平勝宝8歳(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真の弟子にあたる僧・虚瀧(ころう)により開創される。万寿3年(1026年)に命禅が再興して十一面観音を祀ったという。しかし、鑑真とともに来日した僧の中に虚瀧なる人物は実在せず、奈良時代にさかのぼる遺品、出土品等も見当たらない。以上のことから、この草創縁起は後世の仮託と思われ、「中興の祖」とされている命禅が円成寺の実質的な開基であると推定されている》。





《平安時代末期の保元元年(1156年)、京都仁和寺の寛遍が東密忍辱山流(とうみつにんにくせんりゅう)を開き、寺運は興隆した。この頃に本尊が当初の十一面観音から阿弥陀如来に代わったと思われる。室町時代、応仁の乱(1466年-1476年)の兵火により堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り再興された。江戸時代は寺中に子院23か寺を有するほどであった。明治の廃仏毀釈による混乱により衰え、現在に至る》。


楼門には「忍辱山」の扁額がかかっている


境内から見た楼門

《正門にあたる楼門の前には平安時代の面影を残す、池を中心とした浄土式庭園(名勝)が広がる。楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿、多宝塔などが建つ》《現存する多宝塔は平成2年(1990年)の再建で、旧多宝塔は大正9年(1920年)、老朽化のため撤去された。ちなみに、鎌倉市の長寿寺にある観音堂は、旧円成寺多宝塔の初層部分の材を用いて建てられたものである》。







奈良の古刹に関する名物サイト「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」では、中西忠さんが円成寺を丁寧に紹介されている。なお以下の写真は、昼食休憩後に撮影した午後の風景である。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/enjyouji.htm

《円成寺は奈良市にあるとはいえ市街から少し外れた東山にあり、バスの便が悪いため、訪れる人は疎らです。しかしそれだけに、歴史が息づいたひっそりと静まりかえった境内を、独り占めに出来る束の間の幸せがあります》。


浄土式庭園から見た楼門

《円成寺へのアクセスは車利用の方は奈良駅周辺からですと約12㎞、20分程度で信号も少なくすいすい走れます。しかし、バス利用の方はバスの便は日に数便です。事前に後述の「時刻表」を調べてからお訪ねください。円成寺は国道369号線沿いにありさらに進むと「柳生十兵衛」でお馴染みの「柳生の里」がありシーズンともなれば「柳生街道」のハイキングの途中で立ち寄られる方の方が多いようです》。



《応仁の乱の被害が僻地のここまで及びさらには廃仏毀釈の被害で、大伽藍の面影が失われる壊滅的な打撃を受け、無住の寺院となったりいたしましたが現在は、こぢんまりとして時々刻々と変化する自然に溶け込み清潔で静寂さが漂う寺院となっております》《「忍辱山 円成寺」は「にんにくせんえんじょうじ」と読みます。 「駐車場」と道路を隔て「標石」があり、そこから数歩で苑池、さらに少し行くと「通用門」です。その間の距離は50m程です》。


楼門横の紅葉が、逆光に映える

《石段を上がると「楼門」ですが通常は楼門からの出入りは出来ません。三間一戸の楼門です。山岳寺院にふさわしい桧皮葺の楼門は自然の山懐に抱かれております。楼門とは楼造の門のことで、縁はありますが通常あるべき縁高欄、扉、連子窓がありません。しかし、後述の「本堂」が簡素な「舟肘木」なのに一番格式の高い堂宇の建築様式である「三手先」であります》。



本堂は《焼失後再建されました入母屋造の妻入りで、寺院建築で妻入りは珍しいと言えます。「縋破風屋根」は普通だらりとして締りのないものとなりますが、屋根勾配は緩く、軒は両端でわずかに反り上がる見栄えのよい軽快な建物となっております。深い緑の背景で一層引き立られ、洗練された落ち着いた感じとなっております》。


寝殿造りの本堂(阿弥陀堂)

《桧皮葺を桧皮葺型「銅板葺」の屋根に改変されましたが優美な曲線の屋根で見た感じとしては柿葺のようでありました。特殊な屋根の形で清水寺の本堂の屋根を思い出しました。本堂の階段両側に、回り縁より少し高くなった高床式の舞台造りがありますが「外陣」として使われたのでしょうか。珍しい構造の舞台の床は手入れがよく行き届いてピカピカに光っておりました。三間の向拝は中央に階段、左右の柱間が舞台造となっております》。


多宝塔は3代目。トップ写真とも

《「多宝塔」は我が国独特のものでこれほど装飾的な塔はありません。多宝塔は下層が方形で、上層が円形です。上層が円形のため、端では軒の出が大きくなり本多宝塔も「四手先」となっております。多宝塔は「二重塔」ではなく、「一重塔」に「裳階(もこし)」が付いたものです。多宝塔の本尊は、「多宝如来」と「釈迦如来」の二尊併座ですが、多宝塔が大日如来の象徴という考えからか大日如来を祀ることもあります。本多宝塔も運慶作の大日如来像が安置されております。大正時代、前多宝塔は鎌倉のお寺に売却されましたので新造です》。 


多宝塔の上部 

《「大日如来像」は多宝塔の「本尊」で、わが国彫刻史上最高の仏師「運慶」の作で、大日如来像では唯一の国宝という貴重なものです。大日如来は「毘盧遮那仏」とも言います。大日如来は何時の時代も座っているみ仏です。「如来」は「瓔珞」、「臂釧」、「腕釧」などの装飾品並びに「宝冠」など一切付けないのですが、大日如来だけは「菩薩」と同じ身だしなみです。大日如来の「印」は、金剛界の智拳印で、年配の方には懐かしい「忍者・猿飛佐助」の「印」はこの密教の印から考えられたと言われております》。


鎮守社の春日堂と白山堂



《運慶二十歳頃の世に出る最初の貴重な作品であり、青年運慶が刻んだだけあって「本像」は青年らしい若々しさに溢れております。六重蓮華座の台座に結跏趺坐しております。豊頬で、瞑想の伏目勝ちな眼、きりりと結ばれた口許で清純さと叡智の富んだ厳かな表情です》。

 
裏から見た春日堂と白山堂

《春日堂(かすがどう)と白山堂(はくさんどう)とは現存最古の春日造の社殿で、春日大社の社殿を拝領したものです。それだけに、春日造社殿の貴重な資料でもあります。両堂は袖板壁で結ばれております。 春日堂では春日大明神を祀り白山堂では白山大権現を祀られております》。


池畔の売店では、松茸が出ていた

《社殿であるのに社でなく堂であるのは、廃仏毀釈の際に取り壊しを免れるためなど言われておりますがそれならば紛らわしい春日とか白山の名称は避けたと思われます。多分、小さな仏堂であるので取り壊される心配がなかったので春日社、白山社を春日堂、白山堂と変えるだけで灘を避け得たのでしょう。それとも、両堂共に廃仏毀釈当時は相当痛んでいたため取り壊しの対象とならなかったのでしょうか。我が国最小の国宝建造物で、両堂共に同寸法、同形式で石段を上がった台地に建築されております》。

紅葉のピークにお寺のお手伝いに当たるとは、ラッキーだった。紅葉のピークは続いているし、寺宝展は11/21まである。ぜひいちどお訪ねいただきたい。
コメント
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