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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

遺跡ウォークラリー(畝傍山周辺)に参加しました!

2011年04月04日 | 奈良にこだわる
3/27(日)、橿原考古学研究所附属博物館などが主催する「遺跡ウォークラリー」に参加してきた。概要が毎日新聞奈良版(4/3付)に出ている。《考古学研史友会初催し900人参加「ウォークラリー」》《古代史や考古学の愛好家らでつくる県立橿原考古学研究所史友会の「遺跡ウォークラリー 今井町と畝傍山周辺の遺跡と陵墓を巡る」(毎日新聞奈良支局など後援)が橿原市内であり、約900人が参加した》。

《同会は55年に設立され、会員は全国に1395人。一般向けのイベントは初めてで、集合場所の今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」前では、松田真一・橿考研副所長が「市内にはたくさんの遺跡がある。直接見て歩いてもらい、遺物などは橿考研附属博物館で確かめてもらいたい」とあいさつした。四条遺跡やミサンザイ古墳(神武天皇陵)など4か所では、博物館の学芸員らが解説。参加者らは熱心にメモを取りながら聞き入っていた》。



当日、私が歩いたコースは、華甍前→四条第9号墳(四条遺跡)→綏靖(すいぜい)天皇陵(四条塚山古墳)→神武天皇陵(ミサンザイ古墳)→山本山大師堂→スイセン塚古墳→畝火(うねび)山口神社→畝傍山頂→イトクノモリ古墳→橿原遺跡(→いもあらい地蔵)というものである。

有り難いことに、久しぶりにお会いした今井町町並み保存会会長の若林稔さんご夫妻が、全コース付き添ってガイドして下さることになった。そこに、奈良の情報誌「かぎろひの大和路」編集人のかぎろひさん(和歌山県九度山町のご出身)、ウチの会社OBのTさんとお友達のYさん、古社寺を歩こう会でご一緒したばかりのYさん(奈良まほろばソムリエ)とお友達、かねてっちゃんさん(奈良検定1級)と息子さんなどが加わった。お天気にも恵まれ、畝傍山周辺を楽しく勉強しながら歩いてきた。かぎろひさんは、すでにご自身のブログ「かぎろひNOW」に、当日の様子を掲載されている。


若林さん(手前)の説明を聞くかぎろひさん。華甍で

畝傍山周辺は古事記によく登場する。今、私は古事記を勉強しているところなので、「百聞を一見で実らす」ための絶好の機会であった。訪問順に、概要を紹介する。まずは集合場所の今井町。当日配布されたパンフレットには《戦国時代に、本願寺の一家衆(いっけしゅう)の今井兵部卿豊寿が造った寺内町で、一向宗の門徒を中心に、浪人や町人が町づくりをした。自衛のために東西600m、南北310mに環濠をめぐらし、敵の侵入に備えて、見通しがきかないように道路を屈折させた城砦(じょうさい)都市である》。

今回のラリーでは、4か所で説明が聞けた。その1か所目が四条遺跡である。「四条」は、藤原京の四条だ。パンフレットによると《畝傍山の北東、飛鳥川と桜川に挟まれた扇状地に立地し、四条交差点を中心として南北約600m、東西約1000mに広がる弥生~飛鳥時代と中~近世の時期の遺跡である。四条古墳群はこれまでの調査で12基確認されている。古墳築造から約200年経過した藤原京造営時に墳丘が削平され、周濠も埋めて整地された。そのため、埋葬施設や副葬品は確認されていないが、墳丘に樹立されていた埴輪や木製品が、古墳の周濠や外周溝から多数出土している》。



「四条第9号墳」は大和高田バイパスの高架下にあった。6世紀前半の古墳である。今回のウォークラリー用に作られた案内板には《古墳円丘部(推定30m)の周濠(幅約4m)を検出しています。周濠内は水に浸かる状態が保たれていたため、木製品が良く残っていました。特に、鳥形木製品は胴体に穿たれた穴に羽を装着した状態で、一緒に出土した蓋型製品も、樹(た)てる際に用いた柄がついたまま出土しました》とあった。周濠は埋め戻されたのだろう、道路の反対側からはよく見えなかった。


第2代・綏靖(すいぜい)天皇陵

樫(橿)の木が生い茂る森を横目に見ながら南下すると、綏靖天皇陵(四条塚山古墳 橿原市四条町)があった。パンフレットには《現在は綏靖天皇桃花鳥田丘上陵(つきだおかのえのみささぎ)に治定されているが、神武陵とされたこともある。直径約30mの墳丘をもつことから、円墳であると考えられる。ここより南にも、四条11号古墳と12号古墳が存在していることから、四条古墳群を構成する1基である可能性も指摘されている》。なお桃花鳥(ツキ)は、鳥の朱鷺(トキ)のことだとかぎろひさんに教わった。桃の花のような淡紅色の鳥なので、「桃花鳥」と書くのだろう。


神武天皇陵(トップ写真とも)。3つの鳥居が一直線に並んでいる

さて、いよいよ神武天皇陵(橿原市大久保町)だ。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』には《神武天皇が神話上の人物で、実在しないという意見が歴史学上では定説化しているものの(中略)神武陵とされていた場所が存在していたことは否定できない》。当日のパンフレットには《宮内庁により神武天皇畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのすみのみささぎ)に治定されている。江戸時代の文久年間(1861~3)に小丘の整備が行われ鳥形埴輪と装飾付須恵器が出土しており、その後の調査でも古墳時代後期の埴輪や須恵器が確認されていることから、この付近にもともと古墳があり、四条古墳群を構成する古墳でもあった可能性も指摘されている》。この御陵は、さすがに大きい。巨大な鳥居が3つも並んでいる。


橿原神宮神苑内を貫流する桜川(高取川に注ぐ)

御陵の整備により、南側にあった洞(ほうら)という村が移転を余儀なくされたそうだ。Wikipedia「洞」によると《神武天皇陵を見据える畝傍山の麓からやや上方にかけて、かつて洞(ほうら、大和国高市郡白橿村大字山本枝郷洞)と呼ばれる村が存在した。この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた》《大正時代に入って間もない頃、国の主導による本格的な神武陵一帯の整備が始まると、その拡張の必要などにともなって、洞村は自体の移転を余儀なくされる。その後移転先の決定について難航を重ねた末に大正6年(1917年)に付近の平野部に移転した》。



畝傍山の麓を北から西に回り込む道沿いで、お母さんと小さな男の子がツクシを摘んでいた。「ほら、たくさんありますよ」と若林さんの指さすところを見ていると、本当にたくさんのツクシが芽を出していた。まだまだ気温は低かったが、着実に春は訪れていたのだ。その若いママさんが、当ブログにコメントを下さったかねてっちゃんさんだった。息子さんが「てっちゃん」なのだ。それでここから、かねてっちゃん母子も、私たちの一行に加わることになった。


若林さんがツクシを見つけた

ツクシ畑のすぐ近くに、「真言宗 山本山大師堂」というお堂があった。多宝塔のようにも見える、立派なお堂である。その傍らに、弘法大師が杖をつくと水が湧き出した、という伝説の井戸がある。手押しポンプで汲んだ水をいただくと、とても美味しかった。


山本山大師堂。向かって右奥に井戸がある

「弘法水」は、よく聞く話だ。Wikipedia「空海」によると《弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている》とある。



次のスイセン塚古墳は説明スポットだったが、立入禁止区域だったので、遠くから眺めて通り過ぎた。なだらかなミカン山の向こうに竹藪が見える。パンフレットには《この地域では珍しい前期の前方後円墳。全長は71mである。葺石(ふきいし)や埴輪は見られないが江戸時代には綏靖天皇陵と考えられたため墳丘が良好に残っている》とあった。


慈明寺(慈明禅寺)

この古墳の南側に慈明寺(じみょうじ)というお寺がある。若林さんによると、この付近は筒井順慶で知られる筒井氏の父祖の地なのだそうだ。Wikipedia「慈明寺」によると《慈明寺は、奈良県橿原市の畝傍山(慈明寺山)にある禅宗の仏教寺院。山号は雲飛山。この付近は安土桃山時代の奈良大和郡山藩主慈明寺順国(筒井順国は筒井氏の祖)の出身地でもある》。筒井順国は筒井順慶の叔父(かつ義理の兄)である。「順慶をよく補佐した」とWikipedia「筒井順国」に出ている。



時刻は正午、ちょうどお腹が空いてきた頃に畝火山口神社に到着した。神社の由緒が、ま新しい一枚板に墨で書かれていた。なんと、揮毫されたのは若林さんだった。文案も、若林さんが考えられたのだそうだ。

その文章を紹介すると(旧字体は新字体に変換し、句点を打った)、《式内大社 畝火山口神社 祭神 気長足姫命(おきながたらしひめのみこと 神功皇后のこと) 豊受比売命(とようけひめのみこと 食物・穀物を司る女神) 表筒男命(うわつつおのみこと 航海の神) 飛鳥・奈良時代から朝廷の尊崇篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは 大同元年(806)「新抄勅格符鈔」に神封1戸を寄せられたとあるのが最初である。貞観元年(859)正5位下を授かり延喜の制では明神大社として官幣及び祈雨の幣に預かったことが「三代実録」に、又延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為山麓に山神の霊を祀るとあり 大山祇命(おおやまづみのかみ 山の神さま)を御祭神としていたことが伺える》。


畝火山口神社拝殿

《文安3年(1446)「五郡神社誌」に畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている天正3年(1575)の畝傍山古図では山頂に社殿が描かれており、この間に山頂へ遷座されたことが明らかで 口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際真北に神社を見下ろすことを恐れて山頂に遷座した とあるのと符合する。「大和名所図絵」にも昔畝火山腹にあり、今山頂に遷す祭る所 神功皇后にてまします畝火明神となづくとあり、当神社の御祭神 神功皇后が朝鮮出兵の際、応神天皇をご安産になられたとの記紀の伝承により 今に「安産の神」として信仰されている》。

《主神であった大山祇命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受比売命・表筒男命の3神を奉祀したのもこの頃かと思われる。神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山神功社・大鳥山などと呼ばれたのが明治に入って旧郷社「畝火山口神社」と定められ俗にお峯山と呼ばれてきた。現在の社殿は昭和15年皇紀2600年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下ろし神域をけがすということで当局の命により山頂から遷座した 皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった》。


同神社所蔵の神功皇后(仲哀天皇の皇后)の絵。右はその子(のちの応神天皇)と側近の武内宿禰

この神社の「でんそそ祭り」も、よく知られている。橿原市のHPによると《でんそそ祭 7月28日 畝火山口神社》《俗に「お峯のデンソソ」と呼ばれる近隣一帯の夏祭りです。奉納行事が行われ、中心行事が「お峯山の水取り」という神水汲みの神事です。むかしから28日の早朝に神官が12人の供を従え行列を組んで壷坂峠を越え、はるばる大淀町の吉野川へ水汲みに出掛けたと伝えられています》。



この神社で珍しいものを見せていただいた。昭和天皇・皇后両陛下が使われた「御料(貴賓)車用椅子」、つまりお召し列車の座席である。1979年(昭和54年)7月に作られもので、神武天皇陵や伊勢神宮にお参りされる際に使用された。一度しか使われないので、使用済みの座席がこの神社に下賜されたようだ。



境内でお弁当を食べたあと、畝傍山に登った。200mほどの山だが急坂である。パンフレットには《標高199.2mの死火山で、大和三山の中では最も高く外見も急峻な印象を与える山である。古事記には麓で神武天皇が畝火の白檮原(かしはら)の宮を構えたことが記されている》とある。



この神社の特殊神事として、「埴取(はにとり)神事」(埴土神事)が知られている。大阪の住吉大社で祈年祭(2月)と新嘗祭(11月)に用いる土器を作るため、その土を畝傍山頂で取るという神事である。


ここで埴土(はにつち)が採取される

畝傍山を降りると、東大谷日女命(ひがしおおたにひめみこと)神社(畝傍町69)というお社に通りかかった。道ばたの説明書きによると、創祀年代は不詳で、江戸時代には熊野権現をお祀りし、ご祭神は伊弉册(イザナミ)尊だったという。現在のご祭神は姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたら いすずひめのみこと 神武天皇の皇后)となっている。


東大谷日女命神社の鳥居


同神社の拝殿

橿考研の附属博物館近くにイトクノモリ古墳があった。パンフレットには《全長30mの東面する前方後円墳。土取りのため後円部を残すだけの姿となっている。現在頂部には、懿徳(いとく)天皇を祀る池田神社があるが、古墳の存在は、表示が無いと見過ごしそうなほどである。明治時代に墳丘が削られた時に弥生土器が出土して、考古学上論争されたことでも有名な古墳である》。




池田神社

最後の説明スポットが橿原遺跡だった。パンフレットには《畝傍山東麓に広がる縄文時代晩期の遺跡であるが、土器、土偶、石器、石製品などさまざまな地域からもたらされた多様な遺物が大量に出土している。これらは現在、国の重要文化財に指定され、橿原考古学研究所附属博物館に展示されている》。ここで周辺の縄文遺跡のお話などを30分ばかり伺ったあと、ゴール地点の附属博物館前へ。


最後の説明地点


被葬者は草壁皇子かといわれる束明神古墳石室(凝灰岩の切石積み)のレプリカ。附属博物館前で

ここで全員解散となる予定であったが、若林さんから「近くに、久米仙人ゆかりの史跡がありますよ」とのお話を聞き、厚かましくもご案内いただくことにした。メンバーは、若林さんご夫妻とかぎろひさん、私の4人だ。近鉄畝傍御陵前駅から、橿原神宮前駅までのひと駅分を歩き、めざす「久米仙人遺跡 いもあらい地蔵」たどりついた。


「久米仙人遺跡 いもあらい地蔵」と彫られている。ご案内いただいた若林さんと奥さん

「芋洗地蔵」は平凡社の『日本歴史地名大系』にも《橿原市/畝傍地区/久米村―[現]橿原市久米町 橿原神宮の真東、下ツ道に面する。「いもあらい地蔵尊」の石標が立つ。芋洗川で洗濯していた妹の白い脛(はぎ)を見た久米仙人が、飛行術の神通力を失ったという伝説がある》と出ている。妹は、いもうとではなく「girl」だ。久米仙人は、のちにこのgirlと結婚した。近鉄橿原神宮駅の近くで、国道169号線、奈良交通「久米町東」バス停スグのところだ。芋洗川は、今はない。史跡内には立派な礎石が残っていたので、ここにはお寺が建っていたのだろう。





というわけで、楽しい一日が終わった。たくさんの史跡を回ったが、若林さんの説明おかげで理解が進み、また普段は入れないところにも入れていただき、感謝感激である。初対面を含め、たくさんの方と親交を深められて、とても意義深いウォクラリーだった。てっちゃん、また会おうね。

いよいよ5月には、恒例の「今井町並み散歩」という2日間のイベントが行われる。今年は14日(土)と15(日)の開催だそうだ。保存会会長の若林さんは、これからてんてこ舞いの毎日となることだろう。詳細スケジュールはまだ公表されていないが、今から楽しみである。
※若林さんのホームページブログ

若林さん、奥さん、どうも有難うございました。5月も「今井町並み散歩」で、町を盛り上げて下さい!
コメント (6)
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