神話の世界をめぐる古事記・日本書紀探訪ガイド | |
記紀探訪倶楽部 | |
メイツ出版 |
「奈良まほろばソムリエ検定」のソムリエ合格者6人(7人から1人脱落)で立ち上げた「古事記を読もう会」の3回め(7/25開催)は、岩波文庫版の「大国主の神裔」(P51)から、「鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ)命」まで、つまり古事記「上つ巻」のおしまいまでを勉強した。この間のあらすじをWikipedia「古事記」から拾っておく。
《大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナとともに国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。しかし、子の建御名方神は、始めは承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂に降臨させる。次に、ニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎の説話のルーツともいわれる海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、彼の孫の神武天皇が誕生することをもって上巻は終わる》。では、以下に今回のKeywordsを紹介する。
事代主神P52
Wikipedia「事代主」によると《事代主(ことしろぬし、言代主神)は、日本神話に登場する神。別名 八重言代主神、八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)》《大国主とカムヤタテヒメ(神屋楯比賣)との間に生まれた》《名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において言(言葉)と事(出来事)とを区別していなかったためである》。
《大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)があり、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)のような全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている》。
少名毘古那神P53
Wikipedia「スクナビコナ」によると《日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(カミムスビノカミ)の子》。一般に、神産巣日神(神皇産霊神)系の神は出雲系、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)系の神は高天原系である。
《大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した》。
《『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である》《酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる》。
『古事記』に「鵝(ひむし=蛾)の皮の服を着ている」とあることから、小柄な神とされ、一寸法師のルーツともいわれる。Wikipedia「一寸法師」によると《「小さな子」のモチーフは、日本においては日本神話のスクナヒコナがその源流と考えられる》《大国主命がスクナヒコナの助力により国づくりをしたように小人は巨人とペアになって英雄の属性たる力と知恵をそれぞれ分け持つことが多い》。
知っておきたい日本の神話 (角川ソフィア文庫) | |
瓜生 中 | |
角川学芸出版 |
大物主(御諸山の上に坐す神)P54
Wikipedia「大物主」によると《大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神。大神(おおみわ)神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神》。
《『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山(御諸山)に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある》。
《大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主大神を祭神とした例が多い》。なお、こんぴらさん(金比羅宮・金比羅神社=神仏習合の神社)の主祭神は大物主である。
大山咋神P55
Wikipedia「大山咋神」によると《大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)は、日本の神である。別名 山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)》《大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている》。
《比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日枝神社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている》。
なお『古事記』P23には「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」が出てきた。この神も山の神で、各地の山口神社などに祀られている。県下だと都祁山口神社、當麻山口神社、耳成山口神社、鴨山口神社など。
図説 日本人の源流をたどる!伊勢神宮と出雲大社 (青春新書) | |
瀧音能之 | |
青春出版社 |
高御産巣日(タカミムスヒノ)神P56
Wikipedia「タカミムスビ」によると《『古事記』では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、『日本書紀』では高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と書かれる。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)などとも書かれる。別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である》。
《『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。子に思兼神(おもいかね)、栲幡千千姫命がいる。天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた》。
『古事記』では、アマテラスとセットで登場する。《天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千々姫命(たくはたちぢひめ)と結婚して生まれたのが天孫瓊々杵尊であるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。天津国玉神の子である天稚彦(あめのわかひこ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した。それが高皇産霊神の怒りに触れ、その矢を射返されて死んだという。『古事記』では神武天皇の熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在する》。
天菩比(アメノホヒノ)神P56
Wikipedia「アメノホヒ」によると《日本神話に登場する男神。天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。アマテラスとスサノオが誓約(うけい)をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる》。だから父の天菩比神も、出雲国造の祖神である。
《任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない》。
天若日子(アメノワカヒコ)P56
Wikipedia「アメノワカヒコ」によると《葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命(あめのほひ)が3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに進め、彼は遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた》。
《その矢は高天原まで飛んで行った。その為、タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、彼は死んでしまった。アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て殯をした。シタテルヒメの兄の味耜高彦根命(阿遅志貴高日子根神)も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった》。
阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神P59
Wikipedia「アヂスキタカヒコネ」によると《別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)》《大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる》。
《『古事記』では、葦原中国平定において登場する。シタテルヒメの夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ》。
《神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある》。
《『古事記』における天地を行き来する姿や激情ぶり、『出雲国風土記』における泣き叫ぶ声の大きさや梯子を上り下りする姿は、雷を表したものであり、アジスキタカヒコネは鋤と雷の霊力を合わせた神である。別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである》。
これはすごい。別名の迦毛大御神(カモノオオミカミ)は、アマテラスと並び、最初から「オオミカミ」だったのだ! 葛城の賀茂社とは、「高鴨神社」(御所市鴨神)のことである。『奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック』の高鴨神社の項を見ると、主祭神は「阿治須岐詫彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」と出ている。
鹿島神宮 | |
東 実 | |
學生社 |
建御雷(タケミカヅチノ)神P60
Wikipedia「タケミカヅチ」によると《『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある。別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐・いざなぎ)が火神軻遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である》。
《葦原中国平定においては伊都之尾羽張(いつのおはばり)の子と記述しているが、伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。葦原中国平定において天鳥船(あめのとりふね)とともに葦原中国(あしはらのなかつくに)の荒ぶる神々を制圧し、建御名方神(たけみなかた)との戦いに勝利し、葦原中国を平定した。建御名方神との戦いは相撲の起源とされている。また神武東征において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下の倉に自身の分身である佐士布都神(ふつのみたま)という剣を落とした》。
《名前の「ミカヅチ」はイカヅチ雷に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の縮まったものであり、雷神は剣の神でもある。また、別名のフツ神は本来は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神は香取神宮で祀られている神である。元々は鹿島の土着神で、海上交通の神として信仰されていた。ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている》。
建御名方神P62
Wikipediaによると《建御名方神(たけみなかたのかみ)は、日本神話に登場する神。『古事記』の葦原中国平定の段において、大国主の子として登場する》《建御雷神が大国主に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主は息子の事代主が答えると言った。事代主が承諾すると、大国主は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽の海まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地(諏訪地方)から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべが後に日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられている》。
《『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある。諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある》《建御名方神は不名誉な伝承に比べて様々な形で多くの信仰をうけている。これは、中臣鎌足の出身は鹿島であり、彼を祖とする藤原氏は建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の建御雷神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある》。
ヤマトは荒人神の国だった―完全制覇古代大和朝廷の謎 (関裕二古代史の謎コレクション) | |
関裕二 | |
ポプラ社 |
国譲りP63
世界大百科事典「国譲り神話」によると《国譲り神話は各地の首長たちが朝廷へと服属していった歴史的過程を一回的に典型化して,その由来を語ったものなのである。そしてこの神話を儀礼として表現したものが《出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと) 》の奏上であった (《延喜式》)。これは出雲国造が代替りごとに宮廷に参上して寿詞 (よごと) を述べ,諸々の国造の総代として,朝廷への服属を誓う儀式であった。その寿詞によれば,オオクニヌシの和魂 (にぎたま) とされたコトシロヌシや大物主 (おおものぬし) 神が,大和において〈皇孫 (すめみま) 命の近き守り神〉として仕える次第が語られており,在地の首長が斎 (いつ) く国津神たちがオオクニヌシへと統合されて朝廷の守護神へと転化される過程が述べられていた》。
《出雲が国譲り神話の舞台となり,出雲国造が代表となって服属するのは,王権の中心地である大和からみて,出雲が日の没する西の辺境に位置している,という神話的な秩序と関連する。こうして神話と儀礼によって朝廷の支配は正当化され,永遠に続くものと信じられたのである。大化前代,朝廷は服属してきた首長層に〈姓名 (かばねな) 〉を賜与することによって,彼らを国造,伴造 (とものみやつこ) などとして組織し,これを通じて在地の人民を〈部 (べ) 〉などとして支配する族制的な秩序を創り出していたが,やがて有力な首長層を中心として,氏族の祖先を王室の系譜に結合して,王権と〈同族〉的な関係を結ぶようになった。神話や儀礼には,こうした族制的な支配原理と,擬制的な同族組織を最も有効に機能させる働きがあり,そこには血縁的な擬制にもとづいて結合していた人々の独自の思考や想像が表現されてもいた。国譲り神話が生み出された根拠はここにあり,オオクニヌシノカミや出雲国造が天津神(あまつかみ)の系譜に編入されたのもそのためなのである》。
邇邇芸命(ニニギノミコト)P64
Wikipedia「ニニギ」によると《『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子》《一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる》《天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命(あめのほあかり)がいる》。
《天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたとされる。これを(天孫降臨)と呼ぶ。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高穂の久士布流多気に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。この降臨の経路の解釈ついては、日向国の高千穂峰に降り吾田国(現在の南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である》。
《一方、行政上、日向国が設置されたのは7世紀であり、それ以前の時代には日向国地域は熊曽国に含まれていたとして、『古事記』の「竺紫」=「筑紫」、日本書紀の「筑紫」から、降臨地は「筑紫国の日向」であって後世の「日向国」ではないと解釈する異説がある。 降臨した時期について、『日本書紀』巻第三(神武紀)は、神武天皇即位年より179万2470余年前のこととしている。そこで大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)・火闌降命・彦火火出見尊(山幸)を生んだ。彦火火出見尊の孫が神武天皇である。亡くなった後は「可愛の山陵」(薩摩川内市の新田神社)に葬られた》。
猿田毘古神P65
Wikipedia「サルタヒコ」によると《邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった》。
《邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村(現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神様が生まれた》。
《『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた》《「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある》。
《三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社として名高い。 天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面を被った猿田彦役の者が先導をすることがある》。
天孫降臨の謎―『日本書紀』が封印した真実の歴史 (PHP文庫) | |
関裕二 | |
PHP研究所 |
天孫降臨P66
世界大百科事典「天孫降臨神話」によると《〈日の御子〉が地上界の支配者として天降 (あまくだ) る由来を物語り,記紀神話の中心をなす。天界の高天原 (たかまがはら)で諸神が協議し,日神天照大神(あまてらすおおかみ) の子を地上界葦原中国 (あしはらのなかつくに)に天降すことになる。ところが地上には,大国主 (おおくにぬし) 神を頭目とする荒ぶる神々が跳梁していた。使者を 3 度派遣し交渉した結果,オオクニヌシは子の 2 神とともに国譲りを誓う。以上の国譲り神話が天孫降臨神話のプロローグをなす》。
《平定された葦原中国には,あらためて日神の孫瓊瓊杵 (ににぎ) 尊が降されることになる。皇孫はアマテラスの神言によって支配者的資格を授かったうえ, 天忍日 (あめのおしひ) 命,天津久米 (あまつくめ) 命 (大久米命) を先導とし, 天児屋 (あめのこやね) 命,太玉 (ふとたま) 命, 天鈿女 (あめのうずめ) 命,石凝姥 (いしこりどめ) 命, 玉祖 (たまのおや) 命ら諸神を伴として日向(ひむか)の高千穂の〈くじふる嶽〉に天降る。そして日向の国に宮居を定めた。この〈神聖な〉由来をもって,以後代々の〈日の御子〉による葦原中国の統治は,絶対おかすべからざるものとなったとされる》。
《この話が王の即位儀礼大嘗 (だいじよう) 祭を鋳型としていることはたしかである。儀礼用の殿舎大嘗宮内での秘儀は,あたかも新王が高天原でアマテラスの子として誕生するドラマのごとく演じられたようである。また上記の諸神はそれぞれ大伴,久米,中臣 (なかとみ),忌部 (いんべ),猿女 (さるめ),鏡作,玉作諸氏の祖神である。これらの諸氏はいずれも大嘗祭で久米舞の奏上,祝詞奏上,宮門の開閉,新天子の大嘗宮出入の際の前行など重要な役割を分担している。さらに上記諸神は皆,天の岩屋戸神話でも活躍しており,両神話は密接に連関している。
《この神話はまた大嘗祭とは一連の鎮魂祭の投射をうけているのである。古代の王の即位儀礼は,儀礼的な死と復活のドラマの形をとるのがつねであった。死を演じている間に,聖界におもむき霊力を賦与されるとみなされ,統治者にふさわしい神聖な人格として新王は再誕する。大嘗祭はそういう祭式的構造をもつ。新王の支配者的正当性のゆえんは,つねに神話的始源に求められた。大嘗祭をかたどった神話が作られるのは,そのためである。天孫降臨神話とは,まさしく葦原中国の初代君主誕生を物語る王権の聖なる始源神話であった。大嘗祭に奉仕する諸氏族の祖神が登場するのも,始源神話が現存の王権秩序を再確認強化させる機能をもっていたからである》。
猿女(さるめ)の君P67
Wikipediaによると《猿女君(さるめのきみ・猨女君)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。アメノウズメを始祖としている。姓は君。日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族。氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明している。実際には、「戯(さ)る女」の意味であると考えられている》。
《本拠地は伊勢国と想定されるが、一部は朝廷の祭祀を勤めるために、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称した。他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあった》。
木花の佐久夜毘売P68
Wikipedia「コノハナノサクヤビメ」によると《オオヤマツミの娘で、姉にイワナガヒメがいる。ニニギの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ》《天孫降臨で日向国に降臨した瓊瓊杵尊と笠沙の岬で出逢い求婚される。父の大山祇神はそれを喜んで、姉の磐長姫と共に差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミは「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、イワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである》。
《コノハナノサクヤビメだけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言った。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、本当の子なら何があっても無事に産めるはずと、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリの三柱の子を産んだ。ホオリの孫が神武天皇である》。
《富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている。火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られた。祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった》。
もうひとつの日向神話―その後の「海幸・山幸」物語 (みやざき文庫 49) | |
鶴ヶ野勉 | |
鉱脈社 |
海幸・山幸P70
世界大百科事典によると《記紀にみえる神話の一つ。天照大神 (あまてらすおおかみ) の孫で葦原中国 (あしはらのなかつくに) の支配者として降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) には 3 子があったが,そのうち長兄火照命 (ほでりのみこと)と末弟火遠理命 (ほおりのみこと)(穂穂手見命 (ほほでみのみこと)) は,それぞれ海の漁山の猟を得意としたので,海幸彦・山幸彦ともよばれた。この 2 人の物語は,兄弟の損得の話と,山幸の海神宮訪問そして海神の女との結婚の話とからなる》 。
《兄弟がある時道具をとりかえそれぞれ異なった獲物を追ったが,弟ヤマサチは兄の釣針を魚にとられてしまう。元の針を返せと兄に責められたヤマサチは塩土老翁 (しおつちのおじ)の教えにより,針を求めて綿津見神宮 (わたつみのかみのみや)を訪れる。そこで大綿津見神(おおわたつみのかみ) の女豊玉姫(とよたまひめ) をめとり探していた針も手に入れる。さらにオオワタツミから水を自由に操る呪的な玉を授かって地上に帰り,その玉で横暴なウミサチをこらしめ服従させた。この時ウミサチは〈汝命の昼夜の守護人となりて仕へ奉〉る (《古事記》) ことを誓い,今に至るまで水に昏れる様を演じて仕えているという。これが海幸・山幸の話である。なおこの後トヨタマヒメがこの国を訪れ,海辺で子を生む。これが朋呆草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) で, 神武天皇はその子である。一方ウミサチは隼人(はやと)族の祖となった》。
《記紀神話におけるこの話の意義はすこぶる大きい。第一にこれは,九州南部の一大蛮族隼人族の服属起源譚の意味をもつ。東西辺境の二大蛮族蝦夷 (えみし) と隼人を服属させることは,古代国家確立のための必須条件であった。隼人は蝦夷より一時期早く宮廷に服従し,交替番上して大嘗祭 (だいじようさい) に隼人舞を奏したり,また同じく大嘗祭や天皇の遠行の際に犬声を発して奉仕したが (蛮族の発声に悪霊をはらう呪力があると信じられた),これらはいずれも服属儀礼であった。ウミサチが昏れる様を演じたという上の話も,実は滑稽なしぐさを含む隼人舞の起源譚である。手を焼いた隼人の服属は,いわば全国統一の最終過程における記念すべき事業であった。だからこそ隼人は天皇との至近距離におかれた。と同時に,もっとも新しい時点の歴史的事件にもかかわらず,こうした話が神代にくりこまれているのは,服属の由来の久しいことが強調されねばならなかったためであろう。天孫と隼人族の祖が兄弟という系譜関係で結ばれているのも,同じことの異なった表現にほかならない》。
《またこの話は,新王誕生の物語の意味ももつ。 《古事記》には,即位儀礼大嘗祭の投射をうけた同じテーマの話がいくつかある。儀礼的枠組みはあまり明確ではないが,上の物語もその一例である。他界海神国を訪問し,そこで女と宝物をえてよみがえり,対立者を倒して王となる話は,あきらかに死と復活の儀礼をふまえた話といえる。また古代の王は,天なる父として母なる地との婚姻を象徴的に演じ,自然の豊饒を招来せねばならなかった。これが即位儀礼の一環としての聖婚である。神話上から言えば,海は大きくは大地に属するものとみなせるから,オオワタツミの女との結婚は聖婚の説話化であったことになる。《日本書紀》の一書に,ワタツミノカミノ宮でヤマサチが真床覆衾 (まどこおおうのふすま) の上に座ったとあるが,これが,大嘗宮で天皇が新君主として誕生する前にくるまる衾であることを知れば,上述のこともうなずけよう》。
(9/5追記=青字)ここで筆を擱(お)いたあと、今井町の若林さんからメールをいただいたので、かいつまんで紹介する。《古事記、日本書紀を記述通りに読む場合と、大和の故地を歩いてから改めて記紀を読み返した場合とでは、記紀の読み方はずいぶん変わります。高天原は大和にも葛城山と桜井の笠にその伝承地があり、天孫降臨の地もあります。その他にも記紀の記載地の多くを大和に置き換えることが出来ます》。
その1つが、御所市高天である。若林さんによると高天彦(たかまひこ)神社のパンフレットには《天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました》。
《金剛山は古く高天山と呼ばれましたが、中腹のこの広大な台地こそ日本人の心の故里 「 高天原 」 であり、神話も歴史もこの高天の台地を中心にして発展しました。悠久の歴史に心を馳せて、御神徳をさずかるよう御祈念してください》。
もう1つの高天原伝承地が、桜井市笠である。笠山荒神社の案内板には《笠山は荒神出自の源で、笠七峯七谷の最高峰鷲峯山(じゅぶさん)の頂に鎮まり坐す。往古の鷲峯山は神奈備と仰がれ、笠の郷は神浅茅原と謂われ倭笠縫邑の神蹟伝承地であるなど、悠久の歴史を有します》とある。
また若林さんによると《大伴、久米、中臣、忌部 (いんべ)、猿女 (さるめ)、鏡作、玉作の諸氏は、ことごとく大和に関係する氏族です。忌部氏にまつわる天太玉命(あめのふとだまのみこと)神社は、今井町から徒歩10分ほどのところにあります》。
この天太玉命神社(延喜式神名帳の太玉命神社 橿原市忌部町153 )は、HP「ななかまど」によると《忌部町を東西に走る国道24号線のすぐ近くに南面して鎮座する旧指定村社。当社の祭神天太玉命は、斉部氏の祖神で『記』『紀』によると天孫降臨際の、天児屋根命とともに随行して、祭祀のことを掌って朝廷に奉仕したとある。その孫天富命も天種子命とともに、神武天皇に仕えて祭祀を担当して橿原宮の造営にも当ったが、当忌部の地に居住して一族の宗家となり、斉部氏を称した。その後、代々の子孫永くこの地方に土着、自らの祖先と斉部氏に縁故のある神霊をまつったのが、当社の起源である》。奥が深そうなので、これら氏族のことは、もっと勉強が進んでから紹介したい。
今回は国譲りから天孫降臨、海幸・山幸と、著名な神話がたくさん登場した。さて、いよいよ次回は神武東征である。奈良県もたくさん登場するので、お楽しみに!