tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

ご主人がガン宣告を受けた家族は…/ほとけさまは あらゆるものに姿をかえて

2018年05月05日 | 日々是雑感
金峯山寺長臈(ちょうろう)で種智院大学客員教授の田中利典師が、ご自身のFacebookに、岩崎順子さん(和歌山県海南市)の講演記録のWebサイトを公開されていた。講演は本年(2018年)4月18日(水)に京都の仏教クラブというお坊さんの団体で実施された。

同クラブの藤野正観氏によると「仏の教えがわかりやすく語られています。お時間のある時、ゆっくりお読みいただくと、もしかしたら彼女のように今後の人生において苦難を明るく強く乗り越えられるかも(※書き起こしに3日かかりました!)」。これを読まれた田中利典師は「菩薩さまはいるんだと思わず思いました。夜中なのに、泣きながら読ませていただきました。ありがとうございました」とコメントを寄せておられた。


これらの写真3点は、岩崎さんのFacebookから拝借した

先日、近鉄電車に乗って県中部に行く用事があり、乗車駅のホームでこの記事のことを思い出した。電車待ちの間にスマホで読み出すと、涙がボロボロ出て止まらない。日頃は「トシをとると涙もろくなるのは、失禁と同じ老化現象」と切って捨てていたが、自分の身に降りかかるとは!思わずマスクを取り出して「花粉症が目に来て…」と装ったが、いかにも不自然に見えたことだろう。しみじみと深く心にしみ入るお話である。以下、講演録の全文を貼り付けておく。くれぐれも街なかではお読みにならないように。

 ガンが病気じゃなくなったとき
 岩崎順子
 青海社

「ほとけさまはあらゆるものに姿をかえて~ガンが病気じゃなくなった時~」岩崎順子

みなさま、こんばんわ。今ご紹介いただきました岩崎順子と申します。和歌山県からやって参りました。こうして仏教クラブの皆様お1人お1人とご縁を頂戴しまして、うれしいなと思いながら特急くろしお号に乗ってやって参りました。今日は、よろしくお願い申します。人と人のご縁と申しますが、その人と人が出会う後ろには、仏さまの大きな力があって、今日この場所に運んで来てくださったのだなぁと思っております。

今日は、決して上手にはお話できませんけども、心一杯込めてお話をさせていただきます。そしてこのご縁をいただいたのは、曹洞宗の鈴木顕道さまです。昨年、私を京都の講演に連れて来てくださいまして、そのご縁で今日はここに立たせていただいております。拙いお話しかできないのですけども、その前に今日は皆様にお願いがあります。さっそく、お願いしてもよろしいでしょうか?「うん、うん」と言って下さってありがとうございます。

私は、手に原稿をもっておりません。皆様の目を見ながら、皆様が今どんな風に思っていただいているのか感じながらお1人お1人のお顔を見ながらお話させていただこうと思います。メモをお取りになる時は、下を向いていただいてもよろしいのですが、それ以外は私と、喫茶店もしくは居酒屋でお話しているように、顔を見ながらお話を聴いていただいてよろしいでしょうか?

丸テーブルですので、向こう向いてメモを取ってらっしゃる方がおいでです。もし、私の顔を見るために腰をひねっては大変です。椅子をグイッとこちらに向けて聞いていただけると、楽に聞いていただけることと思います。そして少しお行儀が悪いのですが、皆様のお顔を見ながらマイクを持って、あちこち動きながらお話させていただこうと思います。どうかよろしくお願いいたします。

今日のお話は「ガンが病気じゃなくなった時」という、私が出版させて貰っております本の中の内容と同じなんですけども、決してガンが治りましたよ~というお話ではなくて、ガンと出会ったことによって「生きるって何?」「死ぬって何?」「人とのつながりって何?」、そして、何よりも一番感じたのは「生きているんだな」「生かされていたんやな」ということでした。人の計らいを超えた大きな力が本当にあるんだなぁと、あとで申し上げますけども、全身全霊で感じさせて貰ったのです。そんな話を和歌山弁も交えてお話をさせて貰います。



私には3人の子供がおります。その子供たちが小さい頃に、夫が癌ということが分かりまして、その時一番上の子が小学校3年生。その次の子が保育園の年長さん、一番下の女の子が4歳でした。男、男、女という3人の子供たちです。

私の夫は大変元気な人で、実は私たちが出会ったのは京都です。私が学生の頃、銀閣寺の哲学の道のすぐ近くに住んでおりまして、夫は吉田山に住んでおりまして、そこで出会いました。だから京都はほんとにいろんな思い出がある町です。夫はすごく元気な人で、病院の診察券を亡くなった後で見たら、耳鼻科と歯医者さんの診察券しか持っていないような人生でした。それで生まれて初めて「検診でも受けてみよかぁ」ということで、受けたのですが、それで肺癌ということが分かりました。

「小指の爪ほどの小さいガンが見つかりましたよ、早期発見ですね。良かったですね」ということでした。子供たちにも、正直な形で理解させました。お父さんのこといっぱい応援してあげたら、お父さんの体の中には元気いっぱい、元気もりもりになるよ。それは大人の言葉で言いますと、自己治癒力であったり免疫力であったりするんですが、元気もりもり君がガンをやっつけてくれるよと、一緒に応援してねと言って頼みました。

でも2人だけ、ものすごく言いにくい人たちがいました。それは誰かといいますと、夫の父と母です。私は和歌山県の海南市という所で生まれ、結婚してからも海南に住んでいるんですけども、夫は北海道の小樽というところで生まれ育ったんです。皆さん、手を上げてください。北海道、行かれたことある方? ではその中でも、小樽に行かれたことある方は? はいありがとうございます。少しレトロな感じのレンガの倉庫があって、雰囲気のある町でございます。もし行かれたことのない方がおられたら、ぜひ足を運んでいただけたらと思います。

その小樽に北海道の両親がおりまして、その両親に伝えるのが一番辛かったです。1つは親が子供を思う気持ちでした。風邪ぐらいなら良いのですが、病が大きくなればなるほど、なかなか親には伝えることができませんでした。親というのは本来、子供が大きな病気になったら替わってやろうと思うのが親心です。もし子供の目が見えんようになったら、自分の目の片方ぐらいあげても良いと思うのが親というものです。また腕や足が無くなったら、子供のためなら自分の手足をあげたいと思うのが本来の親の心じゃないかなと思います。そんなことを思うと、現実を伝えることはできませんでした。

二人居る姉弟の内、お姉さんはなくなっていて、夫のガン。「どうする…電話で言う?」「やっぱり、飛行機で小樽まで行くぅ?」と悩んだ挙句、夫が手術の少し前だったのですが、飛行機で小樽に行くことにしました。

(夫からその話を)聞いたばっかりの義母から私に電話がかかってきました。私が「お母さん!」と言うと「圭介から今聞いたよ、圭介、癌になっちゃったんだってね。ほんとにいやだねぇ、でも大丈夫だぁ、嫌な事ばっかりでなく、良いことだってきっとやって来るよ。順子さん、大丈夫だぁ!順子さん、一番大変だと思うけど頼むねぇ!」と言ってくれました。

私はそれを聞いて思いました。私が一番大変なわけありません。あと数日でここ(胸)を切って肺を取り出さないといけない手術を受ける主人の方が、大変です。皆さん方も数日後に肺を取り出さないといけないと言われたら、どんなお気持ちになられるでしょうか?

心に余裕がある時は、優しい言葉をかけることはできます。でもショックを受けた直後の母だったら、夫の健康管理をしなくてはならない立場の私を叱りつけることもできたはずです。「大変だねぇ」っと、労(いたわ)ってくれたのは、娘を亡くしたり何度も苦労して来た母だからこそ口に出た優しい言葉、気遣いだったのだと思います。



2011年3月11日に大きな震災が起こり、石巻の小学校の壁にこんなことが書かれていました。ぜひ、こんな言葉を持って帰っていただけたらと思います。「優しさは、悲しみから生まれる」という言葉です。小学校の壁にどなたかが大きく書かれていたそうです。誰も悲しみなんて味わいたくありません。誰も苦しみなんて味わいたくありません。でももしかしたら、苦しみや悲しみを味わってこそ、人に寄り添って優しく、慈しみの心を生み出せるのではないかと思うのです。義母の言葉は、まさしくこのことかなぁと思いました。

そして夫の手術の結果が良かったら、私はこうやって仏教クラブの皆さんにご縁をいただいてこうやってお話できなかったと思うのです。すべて、縁、縁、縁で繋がっているんだなと思います。そうなんです。夫は、手術を受けて、結果が悪かったんです。でも、夫には、もともと体力があったので、なんとか元気になっていきました。

手術を受けたのが4月、翌年の8月、声がかすれ始めました。夫はガンが次の段階に進んだことをきっと分かっていたのだと思います。検診の日でもないのに病院に行きました。そしたら1週間経ったら検査の結果が分かるので病院に来てねと言われました。

検査の結果を待つのって、とってもしんどいですよね。どなたもご経験があると思います。妻の私もその間、しんどかったです。そしたら、その夫が言いました。「ちょうど子供たちが夏休みやから店閉めて、海の見えるきれいな島に行こう!」と言いました。

夫は、実は私と商売をする前にはダイバーやったんです。海に潜る潜水士(潜水夫)の仕事をしておりました。水の中に入って水質調査したり、また車が間違って水の中に入ってしまったら、その車を引き揚げたりする、そんな仕事をしておりました。

その夫が海に行こうと言いました。明日から行こう!と言いました。その時に主治医の先生から電話がありました。そのお話の内容は、かいつまんで申し上げますと、夫の癌が末期に入り、余命も今年中ということでした。

私はこの話を聞いた時、私には人生最大のショックで「今年中って何?」「今、季節は何?」と一生懸命考えようとするんですが、熱いのか寒いのかすらわかりませんでした。台所まで走って行ってカレンダーを見ると「うゎ!7月の末や!」「8月、9月、10月、11月、12月」「あと5か月です…」。でも、5か月生きることはなかったのです…。

こうしてお話させていただく講演会は、今日でもう960回以上になるんですが、このガンの話、認知症の話、戦争の話、震災の話、子育ての話 等、お話させていただきながら、北海道から九州まで行かせていただいております。今だったら、西山浄土宗の光明寺様や奈良の東大寺様、そして曹洞宗の永平寺様など、たくさんのお寺様とのご縁をいただき、お医者様から夫の余命を今年中と聞いても、おろおろうろたえることはなかったと思うのですが、ところが当時の自分は未熟ですから、すっごいショックでした。頭の中は真っ白でしたが、私はその電話に、ポーカフェイス・ポーカーボイスで応えました。

そして、そんな気持ちのまま旅行に出かけました。子供たちもまだ小ちゃいから、凄く楽しそうにワーイといって走り回りながらついて来ます。とても楽しそうでした。でも私は海を見ても、子供の楽しそうな顔を見ても、夫の顔を見ても何を見ても「今年中」、「今年中」という頭の中の貼り紙がつきまといました。

海に着くと夫は水着に着替えます。上は裸です。子供たちの脇に手を入れて「お前たち大きなったなぁ!」と喜んでいます。服を着ているとあまり分からないのですが、裸になるとちょっと見ないうちに、首から背中にかけてめちゃめちゃ痩せているんですね。骨が出ていました。それでも夫は海に入って、子供たちとワーッと遊んでやっています。きっと無理をしていたんだと思います。

夜になると「俺、すまんけど、しんどいから先に寝るワ」と、先に寝てしまいました。今日は、皆さん方、お家に帰られたら、ベッドやお布団の中で横になってぐっすりお休みになると思うのですが、夫はもう横になって休むことはできませんでした。掛け布団と敷布団を山盛り積んで、そこにもたれるように体を預けて眠ることしかできませんでした。

今でこそ思うんですが、私は夫が癌になるまで、夜、寝るのは当たり前、ごはん食べられるのは当たり前、こうやって歩けるのは当たり前、こんにちわ!言えるのは当たり前やと思っていました。でも癌に出会って、あたり前のことなんて何一つなかったんや、全部有り難かったんやと気が付いたんです。

病気と出会う、震災と出会う、家族の死と出会う、皆さんそれぞれに大変なことをご経験なさっていると思います。苦しいこと、味わいたくないけど、でも苦しさを味わう時こそ、ほんまに大事なことがあったんやな、と思い知らされました。今までは無いものばっかり数えてきたんやなぁ…。時間ない、お金ない、あの人何もしてくれない、そんな不満が先に出てくる人生やったんやなぁ、そう気が付けば、歩けること、こんにちわ!と顔見て言えること、生かされていること、ほんとに凄いことやったんやぁ…と心からありがたく思えて来るんですね。

お父さんは寝てしまったから、ちょっと外へお散歩行こう! と子供たちと散歩に出ました。小さいから手をつないでくれます。上のお兄ちゃんたち2人、上が「朝蔵」と書いて「あさぞう」いう変わった名前で、聞いただけで笑ってもらえます。二番目は「漁次」と書いて「りょうじ」と読みます。名前のいわれをお話していると時間が足りなくなるので、お話を前に進めますが、その2人のお兄ちゃんが昼間遊んだビーチボールを持って来て、サッカーを始めました。

一番下の娘、蕗子(ふきこ)というんですけど、当時5歳でした。その娘と、もうちょっと遊ぼかぁ、と言って海辺に歩いて行きました。ベンチがあったので、ここへ座ろう! ということで、座りました。「今日は楽しかったなぁ」と言ってお話していたのですが、私の心の中は、今年中に夫が居なくなる、ふき子のお父さんは居なくなるんや…このことでいっぱいでした。心の中はパンパンでした。ゴム風船を膨らませていったらパン!って弾ける、そんな感じでした。それでも顔は嘘をついて、ポーカーフェイスでベンチに座っていました。でも、そうしているうちに私の心の中で変化が起こってしまいました。

夫はホテルの部屋で寝ている。お兄ちゃんたちは、向こうでサッカーしてる。ふき子と二人きりやなぁ…、と思ったんです。本当は、ここんとこ恥ずかしいから飛ばしたいのですけど、でも格好悪いけど本当のことをお話させていただきます。

娘と一緒に座っていると、まだあどけない娘です。手足もちっちゃいです。5歳の娘です。その娘の太ももに、いきなり顔を伏せて、恥ずかしいのですけど私「エェ~ン」と、いいえ、そんな可愛い泣き方と違います、もっとひどい泣き方やったと思います。子供が嗚咽するように泣いてしまいました。たぶん癌と聞いた時からいっぱい我慢していた気持ちが、一気に出てしまったのだと思います。

普通、5歳の女の子やったら、お母さんがいきなり自分の膝の上で泣いたら「おかあさんどうしたの?」と言うと思うんですけど、何も言わずに、ずーと私の頭を静かに撫でてくれました。私は5歳の娘の膝で泣きながら、こんなことを思いました。「ふき子、ごめんやで、ごめんよ。おかあさんほんとに弱いなぁ、ごめんよ…」と、言おうと思うんですけど、言おうとすればするほどよけいに泣けて来て、なお、ひきつるように泣いてしまいました。

その時思ったのは、私はぜんぜん立派なお母さんではないし賢いおかんでもありません。でも、子供の心はどこにあるのか、それだけは大事にしてきたつもりです。でも全然違ってたんやなぁ、この子たちにどれだけ癒されてきたのだろう。どれだけ助けてもらいながら生きてきたんやろうと思ったら、また泣けてきたんです。それでも娘は私の頭を撫で続けてくれたのです。

そして、たった一言だけ、私の頭を撫でてくれている娘の声が聞こえてきたんです。めちゃめちゃ優しい声で「お母さん、泣いてるのか?」また私は泣いてしまいました。娘の膝の上で泣かしてもらいました。パンパンになって、もう破れると思っていた風船を少し緩めることができました。

あとで、こんなことを思いました。娘は私を丸ごと受け入れてくれました。1つは「お母さん何で泣いてるの?」とその泣いている理由を聞きませんでした。そしてもう1つは「お母さん、こうしたら元気になれるのに!」とは言いませんでした。そして、3つ目のこれが大きいです。「お母さん、泣かんと頑張って!」と言いませんでした。

頑張れ!と励ますのは元来、素晴らしい言葉です。頑張ろうと思っているときに「頑張れ!」と言われると「よっしゃぁ!」とこうなるんですが、ところが私みたいにボロボロになっている人に対しては、まるでこの先の尖った刃物でグッサッと心を突き刺すぐらい辛いことやったんやなぁと気付かされました。

私も今までどなたかの悩みを聞かせてもらって来たんですが、「無理せんときよ」といった後に、「頑張ろう」とか「頑張ってねぇ」と言ってなかっただろうか、と反省しました。その後の私は「何々さん、よく頑張って来られましたね、大変でしたねぇ」とお声をおかけできるようになりました。

そして今日のタイトルで「ほとけさまはあらゆるものに姿をかえて」と書かせてもらっているんですが、これは、このふき子の膝で泣かしてもらった時に感じたことです。仏さまは本来すごく高いところにいらっしゃいます。でも何か辛い思いをした人の所へは、スーッと降りて来て横に座ってくれて、悲しみが消えるまで背中をさすりながら、背中に手を当てながらずーっと傍(そば)にいてくださいます。そして、その方が深い悲しみから解放された時には、仏さまは、また高いところへお帰りになるのだと思います。

悲しみが1時間の方もいれば1年の方もいらっしゃいます。また、一生続く方もいらっしゃるかもしれません。それでも、ずーっと傍にいてくれて、この人もう大丈夫やなと思ったら、高いところに行かれるのではないでしょうか? そうして仏さまに助けてもらった人は、いっぱい苦しんで、いっぱい悲しんで、いっぱい泣いて、だからこそまた次の方にも慈しみの心を差し出し、優しい言葉をかけられるのではないかなと思います。この時は私の娘、ふき子に姿を変えて降りて来て下さたんだなぁと思っております。

そしてある時には桜に姿を変え、ある時には空に、海に姿を変え、そしてある時にはものすごい嫌いな人に姿を変えて、私の前に現れてくれているのではないかなと思うのです。仏様には阿弥陀様のように、見るからに優しくて何もかも受け入れてくれる仏様もいれば、仁王様やお不動様のように「お前!何してんねん!どや!しっかりせいよ!!」」というようなグッと目を見開いて戒め励ましてくれる仏様もいらっしゃいます。私はどっちも慈悲深い仏さまだと思っています。

人間というのはこっちは良い人、こっちは好きな人、こっちは嫌いな人、こっちは不幸な人と、私もそうですけど、一生懸命分けますけども、仏様が「もうそろそろ、生まれた時に貰って来た仏の種、咲かせんかぁ?」と、いろんな辛い試練を与えてくれてるのだと思います。私は癌になりたくありません。でも私たち家族に「癌」を与えて貰ったことは、仏様からの恵みやったなぁと、これは今の私は疑うことなく思うことができます。

当時は少し思うだけでした。でも、今は確信をもって思えます。でもまた自分の器では受け止められない大きな困難が来たら、苦しんで右往左往するんだと思います。でもやっぱり、それも仏さまからの恵みやと、時間がかかっても気付けたらうれしいなぁと思っております。こうして私は、ふき子の膝の上で泣かせてもらったおかげで、仏様の存在を知りました。

そして自宅に帰ってきました。夫はお医者様と相談した結果、自宅で療養することにしました。夫は体重が60kg台でしたけども、最後は30kg台になりました。お風呂に入りたいと言うのですけども、お風呂に入りに行く体力もないし「もう無理無理!」と言っていましたら、近くに住んでる私の姉夫婦が来て、義兄が「圭介君は死んでいく人間やから、圭介君が風呂に入りたいと言うのなら、入れてあげようやないか、俺らにできることなら何でもしたらええやないか」「圭介君、廊下を歩きたいやな? それなら歩かしてあげようやないか!」

自力で自分の足も動かせることができない夫を、姉と義兄と私で服を脱がせ、皆で力を合わせ、あちこちから支えて何とか少しずつ、普通なら2秒ほどで着く我が家のお風呂場まで10分も15分も掛かって歩かせました。当時は11月の末、寒かったのですが、家じゅうのストーブを全部廊下に並べて、丸裸の夫を歩かせました。

30何kgに痩せますと、ほんとに情けないぐらいガリガリです。皆で歩かせていると、これは家の中ですので、当然子供たちもいます。本来自分たちを守ってくれるはずのお父さんが、今はパンツも履かず、時々白目をむきながら、お風呂場まで歩かされている、まるで子供たちの心の傷になりそうな光景だったと思います。

でもその時、仏さまが姉に姿を変えてくれたのだと思います。姉が子供たちのところへ駆け寄って同じ目線になって、「今、お父さんは、病気やけど凄く頑張ってる。応援してあげてな!」と満面の笑顔で言ってくれました。泣きながら言っていたら、子供たちの心はまた違っていたと思います。子供は、まず耳で言葉を聞きますが、その人の表情でその中身を感じ読み取ります。姉が笑顔で言ってくれたので、朝蔵が「お父さんのこと、応援しようぜ!」と漁次に言いました。お風呂場まで「頑張れ!頑張れ!」と、お風呂場に着くまで応援してくれました。

お風呂場に着くと、どうして入れて良いのかわかりませんので、服を着たまま風呂桶に、夫を抱えたままジャバっと入りました。うっかり手を離すと顔がお湯に沈みますので必死に持っていましたら、夫が私の耳元で小さな元気のないかすれた声でしたが「ありがとう、ありがとう」と、頭を下げてくれました。どうしても風呂に入れようと頑張ってくれた義兄は、もし何かあったらあかんので、その時お風呂の外で見守ってくれていたそうです。義兄はお風呂の中で夫の「ありがとう、ありがとう」という言葉と私の「お父さん、よかったなぁ!お風呂に入れて良かったなぁ!」という言葉を聞いて男泣きしていたそうです。後で姉から聞きました。

皆で力を合わせ頑張ったのですけども、夫の身体は日増しに弱っていき、そして小樽から父と母が来てくれました。きっと、眼が窪んで行相の変わったわが息子を見て、きっとびっくりするだろうと思っていたのですが、1人子供を亡くしている父と母は凄かったです。何もなかったかのような顔をして「おい!圭介、お父さんたち来たぞ!元気になれぇ!」と言ってくれました。

そして1週間一緒に過ごしたのですけども、その間に父は髭の伸びた息子の髭を剃ってくれました。その時、夫は耳の遠い父親に一生懸命話しかけました。かすれた声でしたが「親父!俺、1つだけ心残りがあるんだぁ、一度で良いから親父と2人で魚釣りに行きたかったぁ…」。父親は、当時忙しくて息子と2人で魚釣りに行ったことがなかったのだそうです。「圭介!元気になったら、白浜でもどこでも連れて行ってやるよ!」と、泣きながら髭を剃ってくれました。母は母で、夫の冷え切った手を撫で続けてくれました。

亡くなる前の人というのは体温がグンと低くなります。「順子さん、見てごらん、こうやって撫でてると圭介の手、温かくなるわ!」と、なかなか普段は触れない息子の手を触れる母は、ちょっと嬉しそうにも見えました。ところが、最後近くになると30分間撫で続けても、夫の手は温かくなりませんでした。

そして何十分か経った時に、母は私にこう言いました。「もう、圭介は、何の治療も何の方法も必要としていないのかもしれないね。圭介は今、子供たちが自分のいるここにいる、それだけで幸せなのかもしれないね。圭介、幸せな子だぁ…」って、言ったんです。もうガリガリになって動くこともできない息子に対して「幸せな子だぁ」と言わないといけない母って、どれだけ辛い思いをしたんだろうなぁと思いました。

今日は、男性の方が多いです。お母さまの手、触られたのはいつでしょうか?小さな頃はいつもお母さんの手の温かみを感じていましたけども、だんだん大きくなって中学とか高校になったら、母親の手を触る機会なんてなくなりますよね、次にお母さまの手を触る時は、お母さまが認知症になられた時や、ご病気になられた時とか亡くなられた時であったりするのではないかと思います。

そうして皆で力を合わせたのですけども、11月20日の朝早くに夫は亡くなってしまいました。
子供たちははじめ、夫の横に近づいてくることはできませんでした。「お母さんは、お父さんがよう頑張ったなぁ、といってお父さんの顔を撫でたげるでぇ…」と、言って夫の顔を触ったのですけども、子供たちは全員正座をして、しくしく泣きながらうなだれて、まったく顔を上げることができませんでした。

時間が流れたと思うのですが、私にははっきりとある場面が思い出されました。それは、夫が亡くなる1週間ほど前「雨戸開けてくれ、雨戸開けてくれ、」と言うので、雨戸を開けました。「もうお父さん行くんやて、お父さんにありがとうって言おうなぁ」と、言って皆で泣きながら送ろうとしました。ところが、夫は自分で自分の心臓を止めることはできませんでした。

これって当たり前のことですが、でもこの時はじめて気付いたことがあるんです。私はかつて自殺をしようと思った人間です。だからよけいに心に響きました。夫はまだ幼くて小さな子供のためにも生きていてやらないかん、年老いた両親のためには死んだらあかん、1日でもたとえ1分でもええから生きてないといかんのや」と思っていたに違いありません。

生きようと思っても生きれない。もう十分生きたので死のうと思っても死ねない。その姿を見た時に、めちゃくちゃ大きいことに気が付きました。人が生きているのと違う…生かされてたんや!!自分は、そんな命を自分で絶とうとしてたんやなぁ…。

いつか仏さまが傍らに来てくれて「もう、ええよ、こっちにおいでぇ…」と、すっと息を引き取って連れて行ってくれる。人は最後のひと息まで、どんな姿になっても、どんなことがあっても「生きているということに意味がある」ということを教えてもらいました。生きるとか死ぬとか、治るとか治らないとか、そういう世界を超えた、向こう側の生死を超えた世界を垣間見せていただいたような気がしました。

その時、頭で思ったとか、心で感じたとかいう、そんな感じではありませんでした。何かにたとえろと言われても、こう…、今もおしゃべりしながらでも鳥肌が立ちますけども、頭からバケツでバサーッと水をかけられたようにして「生かされてたんやぁ!!」と気付きました。その場面を思い出しました。そしたら自然にこんなことをしてしまっていました。

前には、動かない夫がいる。横にはうつむき、泣いている子供がいる。このままやったら、この子たちはお父さんが死んだという悲しい、傷ついた記憶になるんやろうなと思うと、私は夫に被せてあるお布団をめっくっていました。「お父さんと遊んだげるかぁ?」と言ったんです。なぜ遊ぶという言葉が出てきたのか、いまだにわかりません。

「遊ぶ」という私の言葉を聞いた小学2年生の漁次だけが、とことことこと前に進み出て、死んだ父親の顔を触りました。生まれてはじめて対面する自分の死んだ父親の顔です。「冷たいやんかよぉ!」「カチカチやんかよぉ!」と、声をあげて大きく泣きました。それでも子供の力って凄いですね。顔を触って泣きながらでも次にはパジャマをめくり上げてお腹辺りを触ったんです。

「お母さん、お兄ちゃん、早く!ふき子も、お父さんのお腹触ってみ!お父さん、生きてるみたいよ!早く!早く!」と言いました。小学校5年生になっていた朝蔵も父親の顔に触りました。「ほんまやなぁ、冷たいなぁ…。」わぁーと声を上げて泣きました。でもその後、漁次と同じようにお腹に触り「生きてるみたいなぁ!死んだらだんだん冷たくなってカチカチになっていくんやなぁ…。」

私はその光景を黙って見ていました。夫はこの体の中には居なくて、ずっと上から、自分の遺体の上で子供たちが遊んでいるところを見ているような気がしました。「お前たちとは、俺はもう体が無いから、お前たちと一緒に飯食ったり、一緒に風呂に入ったり、時には叱ってやったり、褒めてやったり、そんな事できないけども、今しっかり遊べよ!」と、遊んでくれた時間だったのかなと、そう思っています。

子供たちは、父親が退院してきた日には、父親の好きな音楽をかけ、皆で千羽鶴を折って首飾りにして父親の首にかけておりましたことを思い出しておりました。そして亡くなった父親の横に寝転んだり、顔をくっつけたりして遊んでいましたが、そのうち嘘みたいのですが、漁次が父親の遺体の上に馬乗りになって遊びはじめました。そんなことが、我が家であったのです…。

それを後々新聞の方とかテレビの方、ラジオの方が取り上げてくださり、子供たちがその時どんな気持ちやったのか子供たちに聞いてくださいました。「父親が死んだ時には、僕らも死ぬかと思うぐらい悲しかった。でもお腹の上で遊んでいる時に、死んだらだんだん冷たくなっていくんやなと思いました。」その時に触った感触、その時に聞いた音、その時に匂った匂いで、「命」というものを感じさせてもらったのかなと思っております。

(お話の終盤に、次男の漁次君の書いた作文の紹介をされました。)
おそうしき いわさき りょうじ
ぼくは、おそうしきのとき、とってもかなしかった。おとうさんが、朝、6時ごろねむりながらしんでいた。おでことか 顔がつめたかった。でも、おなかだけが生きているみたいにあったかかった。時間がどんどんたつにつれて、どんどんカチカチになってきた。おそうしきのとき、おとうさんのしゃしんが しあわせなかおになってくるのを感じた。ぼくはもうあんまりかなしくなかった。そして、もうてんごくで なかよくあそんでいるとおもった。おぼうさんも ごくらくのてんごくで、とってもすてきなてんごくにいっているよといった。ぼくは、あんしんした。

それから月日が経ちました。「あんたらは私1人が育てたんやない、いろいろな人に育ててもろうたんや、人の縁で育ててもらったんやで、いつかそれを誰かに返していくようにしてよ!」と常日頃、子供らに言っております。最後に、すみません!40分を過ぎてしまいました。でもあと3分だけお時間をください。(そして彼女はお話の最後に、自らがご持参されたミニグロッケンを演奏され、その1分半の時間を、私たち会場に居る会員にリクエストをされました。)

お母さまのことを思い出していただいてよろしいでしょうか? なんで?と思われるかもしれませんが、皆様方と私には共通点がございます。いつか、この世を去って行きます。それが、1つの共通点。

そしてもう1つは、何十年か前を思い出して下さい。お母さんが命をかけて生んでくれました。そして、誰かがお乳をくれて、誰かが抱っこしてくれて、誰かが学校へやってくれて、教えてくれて、誰かが働いて服を買ってくれて、家に住まわせてくれたんだ。そんなイメージをしてください。大人になったら、自分1人で生きてきたと思ってしまいますけども、母親や周りの人がいなかったら、ここにこうして座ってらっしゃらなかったと思います。

命の根源であるお母様のことを感じていただけたらと思います。亡くなられた方はそのお母様を生きておられる方はそのお母様を思い浮かべて1分半、私の演奏を聴いていただいてもよろしいでしょうか?それでは目を閉じてくださいませ。1分半「家路」という曲を叩かしていただきます。(ドボルザーク「新世界より」家路)

目を開けてください。それぞれの方がそれぞれのお母様を思い浮かべられたと思います。お母様は亡くなっても子供を見守ってくれているんだと思います。親孝行は親が亡くなってもできるそうです。周りの方に親切にすることが親孝行なんだそうです。

そして仏様も、どんな場所でもどんな時でも優しく見守ってくれているのだと思います。今日は、こうやってご縁をいただいたこと、心より感謝しております。日頃は講演時間は守る自信があるのですが、今日は特別な皆様の前なので、仏様のご縁を心の中で感じてしまいましたので、ついつい時間がオーバーしてしまいました、お許しください、お詫びします。ご縁に感謝します。ありがとうございました。


入力しながら、また泣いてしまった。3人の子どもたちは、すべて菩薩さまだったのだ。幸い、私の母は健在である。久しぶりに顔を見せようかと思っている。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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