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田中利典師の決定版!仏教入門書/扶桑社新書『よく生き、よく死ぬための仏教入門』田中利典著

2018年05月06日 | 田中利典師曰く
このたび金峯山寺長臈(ちょうろう)・種智院大学客員教授の田中利典師の新著が刊行された。タイトルは『よく生き、よく死ぬための仏教入門 「神仏和合」の修験道ならではの智恵』(扶桑社新書)。Amazonの「内容紹介」には、

終活を自分でなんとかするという思い込み、じつはそこに落とし穴があるのです。葬儀や弔いの〝意味〟を知らないまま「終活」を行うと、遺された家族はもちろん、自分自身にも〝重荷〟を強いることになりかねない?

檀家制度が成り立たなくなりつつあるいま、「うちの葬儀のやり方」が機能しなくなり、家族葬、樹木葬、散骨……選択肢ばかり増え、たくさんの人を迷わせています。「家族のために」と行った終活がかえって家族に迷惑をかけてしまう……。そんな悲劇を招かないために必要な仏教にまつわる、そして弔いに関する知識を説いていきます。

本書は日本独自の「神仏和合」=修験道の僧侶が、日本ならではの死生観、弔いのこころ、そして仏教の基本的なことを説いた本です。思索で仏教を理解したうえに、修行で仏教を体得した著者の解説は私たち日本人の魂に響き、古来、綿々と続く死生観に関してストンと腑に落ちるものがあります。まさによく生き、良く死ぬための道標となる書です。


利典師ご自身はFacebookで《かなり誇大広告とも思えるかもしれない標題ですし、仏教の入門書ということで、辛辣なレビューとか書かれるのではないかと思うと、怖いです。『修験道入門』(集英社新書)などに続く、単著としては4冊目となりました。みなさんのおかげです。まあ、こういう形で仏教を語るのもありだと思っていただいて、よろしくお願いいたします》と謙遜されているが、本書はとても分かりやすく書かれた仏教の入門書であり、自信を持ってお薦めしたい。本書を世に出した師の意図は、「あとがき」によく現れている。

 よく生き、よく死ぬための仏教入門
 田中利典
 扶桑社新書

あとがき
「仏教の入門書」などというような大それたものを書くような資格はもち合わせていません。そこはわかっています。わかっていますが、わかっていながら、なぜこのような本を書くことになったかというと、あまりに世間の皆さんが仏教や、仏さまの教えを知らなさすぎるのに唖然としたからです。

職責上、新聞、雑誌、ラジオ、テレビとマスコミの取材を山ほど受けましたが、その取材においでになる皆さんは、お寺に来ているにもかかわらず、修験道のことはもちろんのこと、神仏や仏さまの教えについてさえ、ほとんどなにも知らないのです。取材の皆さんは高学歴で、優秀な方ばかりなはずなのですが……。そう思うと、世間の多くの皆さんも彼ら同様に神仏や仏教の教えについて知らないのでないかと思うようになりました。

とりわけ現今は「終活」という、人生の終焉をどう迎えるかという問題に、いままでのような檀家制度の下で、定まった形に委ねていれば安心できるという時代ではありません。私たちはそれぞれにお弔いや宗教との関わりをどう選択するか、それが問われる時代を生きています。

そんななかで、宗教のこと、仏教の教えなど、なにも知らんと開き直るのは決してよいことではないと私は思っています。少なくとも、仏教者として仏縁を得た以上は、浅はかで、微力ながらも、私なりになにかをせずにはいられないという思いがわき上がってきて、本書を世に出すことになりました。

私の信条は大寺の大僧正、大和上と言われたりするのが目標ではなく、失敗やしくじりを何度も繰り返しながらも、市井にあって、同じ失敗や苦しみにあえぐ人々とともに生きることです。これは父から受けた修験の教えで「山の行より里の行」という精神を受け継いでいるせいかもしれません。もちろん、もともと大僧正といわれるような品格も備わっていないのですが………。
 
千日回峰行のように前人未踏の大苦行をしないと悟れないとか、2年も3年もただ座禅三昧の生活をしないと仏の教えが理解できないとかいうのなら、誰も仏さまの教えに触れたいなんて思わないかもしれません。

市井にあって、子どもたちと日が暮れるまで戯れ遊んだ良寛さんのようには至らなくても、人々とともにあって、一緒に懊悩(おうのう)し合うなかで、仏教の教え、神仏の教えに触れることができればと私は思っています。そういうりてんさんでありたいと願っているのです。
                             
本書はその「りてんさんの仏教入門」です。そして優婆塞宗教、在家仏教のすすめという密かな思いも込めて書きました。しゃっちょこばらずに、気楽にゆるく読み進めていただけたとしたらこのうえない喜びです。



啓林堂書店奈良店(5/3)でも、こんなに平積み(面陳列)されていた、ざっと40冊!

本書は師が塾頭を務める東京の「誇り塾」で開催した4回の「りてんさんの仏教講座」(2016~17年)がベースになっている。そこにゲストとして登場された宗教学者・正木晃(まさき・あきら)氏、葬祭カウンセラー・勝桂子(すぐれ・けいこ)氏との対話などがベースになっているので、修験道について書き下ろされた前著『修験道入門』とは、相当趣が異なっている。

そもそも仏教とはどういう教えか、終活や葬儀をどう考えたらよいのか、などなど幅広いテーマのお話が満載である。では以下に、本書の中で私が思わず膝を打ったところを掲載順に抜粋(=青字)してみる。少し長くなるが、最後までお付き合いをお願いしたい。

はじめに
弔いや祈りを行うのは「死」に目覚めた人間だけなのです。ところが現代の日本社会は、そういうことをやめてきているように思います。弔いや祈りを蔑(ないがし)ろにするということは、人間が人間の本質的な行為をやめてしまうようなものではないかと案じています。

第1章葬式仏教のどこが悪い?
よく生きることを学ぶのが葬式

仏教には「授戒」があります。本来、仏門に入る者に、師である僧侶が戒律を授けることを表します。お釈迦さまはお亡くなりになるとき、弟子たちに、「私の入滅後(死後)は戒法を敬い
尊ぶ生き方をしなさい。そうすれば心豊かに暮らせる」と示されました。戒めには次の五つがあります。


五戒とは、①不殺生戒…生き物を殺さない②不偸盗戒…他人のものを盗まない③不邪淫戒…みだらなことをしない④不妄語戒…嘘をつかない⑤不飲酒戒…お酒におぼれない の5つである。

逆にいうと、この五つの戒めを守らないままにしていると、毎日の生活で自ら地獄の苦しみを生んでしまうのです。そして、仏教における葬式は、一部の宗派を除いてこの「授戒」を前提に行われています。得度授戒といいますが、仏教徒になるということであります。
                                           
既述したように「仏になる」のが仏教の教えです。本来であれば生きているうちに発心(発菩提心=悟りを求めようと決心すること)を起こして戒を受けるものなのですが、なかなか生きているうちに、直接僧侶から戒を授かるという機会はないでしょう。それで戒を受けることなく、亡くなってしまった故人を死後に授戒させて、仏教徒として葬るのが仏式葬儀の基本です。

戒名というと高額の戒名料などと悪い話題になったりしますが、もともとは戒律を授かった人がいただくブッディスト(=仏教徒)・ネームなのです。またこの故人の葬儀を機縁に、葬儀に参列している人が自分の生活のありようを見つめ直し懺悔し、仏縁を得さしめるということも葬儀の重要な意味でもあります。

大事なことは、お釈迦さまは生き方を説かれた、それが形を変えたとしてもその教えが葬儀に残っているということです。ですから「仏教」のことを理解しないままに終活を行うことには、少々問題があるのです。


お葬式のときの「戒名」(Buddhist Name)の意味は知っていたが「参列している人が自分の生活のありようを見つめ直し懺悔し、仏縁を得さしめる」というもう1つの意味があったとは、初めて知った。この点からしても、やはりお葬式は大切なのだ。

吊(つ)り革のようにいざというとき手にすれば倒れない
「お寺(仏教)は吊り革です」こう言うと、「なにそれ?」と戸惑われる方も多いかもしれませんが、じつは「宗教吊り革論」という言葉があります。これは私の大恩師である龍谷大学名誉教授の淺田正博(あさだまさひろ)先生からご教示を受けたことなのですが、電車に乗っていて、急に電車が止まったり、カーブで曲がったりしたとき、人は吊り革をとっさにつかんで、倒れないようにしますね。

宗教も同じで、人生のなかではいろいろなことが起こります。いろいろな落とし穴があり、悩み、苦しみ、もがきます。そういったときに、常にそばに宗教を置いていると、吊り革をつかむがごとく、倒れずに済むことがあります。ですから、普段から宗教に接していることはたいへん大事だということです。

席に座っているときは必要がないですし、立っていてもつかむときがあればそうでないときもあります。身近なところにあるけれど、普段はあまり深く意識することはありません。でもイザというときにつかめば、自分だけでなく、周囲も守ってくれる存在にもなります。宗教が支えになるよう、常日ごろから親しまれておくといいでしょう。

まずは、人にはよりよく生きていく力があると信じて、ご自分の暮らし方を整え、ほかの人のことを思いやり、過ごしていかれるといいと思います。「どんなお墓にするか」や「どんな戒名にするか」などだけにとらわれることなく、日々を丁寧に生きていくことが、結局はよりよい人生を全うする手立てとなり、自分自身にとっても家族にとっても、よい「終活」となるでしょう。

もちろん、死に至るまでのプロセスには、いろいろと思いがけないことが起こるでしょうが、そのようなときのためにも、宗教という「吊り革」を是非そばに置いてください。皆さんの「終活」が、その「吊り革」を携えたものであってほしいと思います。葬式をやめるとか、単なる無供養、脱墓に走るのではなく、もう一度、祈りと弔いを取り戻すことが人問を幸せに生かすことであるし、人間が幸せに死ぬことにつながると私は思っています。


「宗教吊り革論」とは、言い得て妙である。「信心は転ばぬ先の杖」という言葉もあるが、子や孫には、このように仏教のことを説明してあげたい。

第2章仏教とはなに?
「信解(しんげ)」の姿勢が大切

仏さまの教えを学ぶときの大事な姿勢が「信解」です。まさに読んで字のごとく、まずは信じる。そして理解に努めることです。盲信、あるいは妄信という言葉もありますが、信解はこのようになんでもかんでもやみくもに理屈抜きで信じることではなく、信じたあとに自分で理解する努力をするのです。「信仰」とはいくつもの疑問を解いて乗り越えていくものでもありましょう。日々、小さな問いかけをし、答えを模索しながら自分を磨き高める、あるいは悟りを目指すものです。

しかし、その一方で、大きな疑いをもってはいけない、根源的な疑問をもってはいけないというのが「信解」でもあるのです。たとえば「お釈迦さまはほんとうにおられたのでしょうか」「この仏の教えはほんとうに正しいのでしょうか」などといった大きな疑問をもってしまうと仏教を理解することはできないというのです。

「ほんとうにお釈迦さまはいたのか?」と聞かれたときに、その時代にタイムスリップして会ってくるわけにはまいりません。科学的に証明する手立てはありません。これはほかの宗教でも同じです。

キリスト教であればイエス・キリストが神の子、もしくは神そのものであって、十字架に磔(はりつけ)にされたのに、三日目に死者のうちから復活したということを信じないかぎり、キリスト教は成り立ちません。

イスラム教の場合はムハンマドという方が、アッラーという最高全知全能の神から神の言葉を授かった―これがコーランですが―それを信じないかぎりは成立しません。教えがあって行いがあってそれらに対する信仰する人があるから、証(あかし)もあるのです。


「信解(しんげ)」という言葉を私は初めて知った。確かにお釈迦さまを信じないと、そもそも「宗教」ではなく、単なる「哲学」や「思想」になってしまう。信解こそが宗教の宗教たる由縁なのだ。

「自分が仏になる」、それが仏教の特徴
「仏教とはなんぞや」に話を戻しましょう。既に第1章で説明していますが、何度繰り返してもいいぐらいに大事な点は「私が仏になる教え」ということです。仏教をシンプルに表すなら「仏(お釈迦さま)の教え」「仏が説いた教え」「自分自身が仏になることを説いた教え」の3点で表せますが、とくにこの3番目の「自分が仏になる」というのが、まさに仏教の本質です。じつはこういう宗教は少ないのです。
 
個人のための宗教か、それとも集団のためか
正木(晃)先生をゲストに招いてお話を伺ったときの講演録からさらに抜粋してご紹介します。
―仏教は、本来は徹底的に個人のための宗教です。個人の精神的な救済のために仏陀という方が悟りを開いてそれを広めたということです。一方で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は集団のための宗教です。個人のための精神的救済というのは二の次。少し硬い言葉でいえば、個人の精神的な救済を求めるのか、社会的な規範を提供するのかという問題です。

そういった意味では仏教は、本来は徹底的に個人の精神的救済だけを求めています。一神教のほうは、個人の救済はさておいて、集団のための社会的な規範の提供に専念したわけです。いまでもユダヤ教はほとんどそうですし、イスラム教は徹底的にそうです。

たぶん私たちが知っているキリスト教は欧米化したタイプのキリスト教ですから、結構個人的な問題も入ってきますけれど、本来はあくまでも集団のための宗教です。

日本人にとっては集団のための宗教というのは馴染みがないかもしれませんが、やや小規模な形式ですが、それでも家々の宗教というのがあります。どこの家にもだいたい菩提寺があって、そこにお墓があるわけですから、小さいながらも、一族や一家の宗教は存在します。先祖代々同じお寺でお世話になっている家が多く、その寺に連なる檀家として、檀家同士の横のつながりや地域のつながりなどがあるので、現在でもお寺さんを変えることは結構面倒くさい話になるわけです。

ある意味で「集団のための宗教」的な部分が日本の仏教のなかにあるから、こうしたことが起こるわけです。しかし、急速に檀家の数が減ってきて、社会における寺の影響力か弱くなってきている昨今の状況においては、21世紀の宗教は「個人の精神的な救済」と「社会的な規範の提供」の両方を満たさないかぎり、意味をなさなくなるでしょう。―

第3章日本の仏教
仏知見を悟らしめる

「凡(およ)そ仏法を説くは衆生(しゅじょう)をして仏知見を悟らしめんが為なり」。これは『法華経(ほけきょう)』の内容をまとめた「欲令衆(よくりょうしゅう)」や弘法大師空海作と伝えられる「雑問答(ぞうもんどう)」などに出てくる言葉です。

仏法を説くというのはじつは衆生、すなわち一般の人々に、仏知見を以てあらゆるものに対峙せよということ。やさしくいえば、仏さまのような知恵、仏さまのような見方(仏知見)で物事に向き合えるように悟りましょう、ということです。

第1章、第2章で「私が仏になる」、それが仏教の本義であると書きました。再度の繰り返しになりますが、自分自身が仏になる……そこがキリスト教やイスラム教、ユダヤ教とまったく違うところで、一神教の宗教は人が仏になったり神になったりできないのですが、「私が、あなたが、仏知見を開いて仏になる」という教えが仏教の本来的なものです。

そのもとを開いたのがお釈迦さまで、これまでも述べたように、お釈迦さまは人に応じて説き方を変えていました。「対機説法(たいきせっぽう)」とか「応病与薬(おうびょうよらく)」といわれるのですが、病によって薬を変えて与えるのと同じように、人々の状況を見てその人に合う形でさまざまな説き方をされていました。そのため仏教というものは「八万四千の法門」といわれる膨大な数の教えに広がっていきましたし、それ自体が仏教の仏教らしいところであります。

「私が仏になる」ことは仏教の本義でありますが、いまの多くの日本人にはあまりピンとこないかもしれません。「私が仏になる」よりも「死んだ人を仏にする」のが仏教ではないかという理解があろうかと思います。たとえば、亡くなった親族を供養したり、仏前にお供えをしたりするので、亡くなった人が仏になるのだと思っている方も多いでしょう。

でもこれは仏教の本義からすると少々違っているのです。「仏」は亡くなった人を指すだけの言葉でなく、「供養」は亡くなった人に供物を供えることだけを意味する言葉ではないのです。

祈り、唱えることで仏教と出合う
「はじめに」で述べたように、人問というのは、犬や猫と違うことをするところに人間らしい生き方があるのです。人間しかしない行為がある。いろいろなことがあるとは思いますが、その究極が「弔い」と「祈り」だと私は思っています。 

人間だけが、死者に対してお弔いの行為をするわけであります。最近の直葬なぞは、じつは犬や猫に近づいているのではないかと危惧します。お弔いが非常に希薄になりつつある。これは現代人がじつは犬や猫化していて、人問生活をやめつつあるのではないかと心配をしています。また、人間というものは人の幸せを祈ったり、自分の幸せを祈ったりします。犬や猫が祈るのを見たことはありません。
                     
人間というのはじつに厄介(やっかい)なもので、昨日のことをクヨクヨする。10年前のこともクヨクヨする。明日のことも心配をする。1年先、10年先のことも恐れたり心配したりする。隣の家の心配もする。

心配をするけれども、ふと気がつくと、この大宇宙にひとりで生きているということに気づいてしまうのも人間であります。限りある命を生きているということに気づいてしまうのも人間です。「死」に目覚めてしまったのが人間です。人間というのはいかにはかなくて、いかに心細いかを知ってしまう存在です。


かつて手話(アメリカ手話言語)で人間と話せるゴリラに、「死の概念」を教えた学者がいた。ゴリラの友達だった猫が死んだことを伝えられると、ゴリラは涙を流して泣き「悲しい、残念、大好き、話したくない」と伝えた。「死ぬとどうなるのか」と問うと「苦労のない 穴に さようなら」と答えたという。類人猿も死の概念を理解すると、自分がはかない存在だということに気がつくのだ。

であるからして、自分を超えたものとの出合い、「サムシング・グレート」といいますか、自分を超えた不変なるもの、永遠なるものへの願い、思い、祈り……そういったものをもつのが当然なことであり、だから人類は大昔から宗教をもってきたのです。自分を超えたものを拝むことによって、じつは初めて人問が人間らしくなるのではないか、犬や猫ではない人間としての生活、心をもつのではないかと私は思っています。

抜粋は以上である。人間は1人で生まれてきて1人で死ぬ。それではあまりに寂しい。だから「Something Great」なものを拝み、祈る。これはとても自然なことである。

私も年老いた母親を見るにつけ、これまでいろいろと仏教の解説書を読んだり、Eテレの「こころの時代」を視聴したり、利典師のブログ(山人のあるがままに)やFacebookを愛読して、自分なりに仏教や霊魂のことを考えてきた。

本書は、私がこれまで読んできた数々の仏教入門書のなかのBESTであるだけではなく、終活や直葬など、タイムリーな話題も盛り込まれている。文章も、とてもこなれていて読みやすい。皆さん、ぜひお買い求めいただき「しゃっちょこばらずに、気楽にゆるく読み進め」てください!
コメント (2)
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