紹介するのが遅くなった。5月14日(月)付の夕刊および15日(火)付の朝刊に、桜井市の纒向(まきむく)遺跡から出土した桃の種が卑弥呼の時代と一致した、という記事が出た。これで「邪馬台国畿内説」(纒向説)の信憑性が一層強まった! ということになり、奈良県民としては嬉しい話である。
桃の種は135~230年のものだった。『魏志倭人伝』には《卑弥呼は239年、魏に使いをおくり、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ、その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた》(『もういちど読む 山川日本史』)とあるからこの年代と符合する。箸墓古墳の築造時期(240~260年)にも近い。これで大型建物(桃の種が発見された纒向遺跡で建物跡が見つかっている)も、その頃(3世紀前半)だと推定できる。なお最近になって、大型建物の柱が復元されている。
桃の種は2,765個も出土している(2010年の調査)。これが発表されたとき「昔の人って、そんなにたくさん桃を食べたの?」という質問を受けたが、これは食用ではなく祭祀用、つまりお供えとかお呪(まじな)いに使われたのだ、というのが一般的な解釈である。古代の桃は、硬くて酸っぱくて小さくて、食用には向かなかったのだそうだ。
桃が食用として広まるのは明治以降、中国から輸入された桃を品種改良されたものだ。桃は「桃源郷」(異界)という文字に使われたり、おとぎ話「桃太郎」にも登場する。『古事記』では、黄泉の国から脱出したイザナギノミコトは、桃の実を投げつけて黄泉醜女(よもつしこめ)から逃れたと書かれている。霊力のある果物とされたのだろう。
ともあれ、これで「卑弥呼の生没年―桃の種・大型建物跡―箸墓古墳」が一直線でつながったということになるのだ!もっとも九州説の高島忠平さんは「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」(朝日新聞)と反論しているのだが…。では最後に朝日新聞夕刊(5/14付)の記事全文を紹介しておく。
卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石
女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135~230年とみられることがわかった。市纒向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物跡(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。
特集:纒向(まきむく)遺跡
センターによれば、桃の種は2010年に大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)の南約5メートルにある穴から約2800個みつかった。祭祀(さいし)で使われた後に捨てられた可能性などが指摘されている。
中村俊夫・名古屋大学名誉教授と、近藤玲(りょう)・徳島県教育委員会社会教育主事が、それぞれ加速器質量分析(AMS)による放射性炭素年代測定を実施し、測定結果を、18年の纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第6号」で発表した。中村さんは15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた12個について、135~230年と分析。近藤さんも桃の種2個で同様の結果が出たほか、土器に付着した炭化物やウリの種も分析し、100~250年の範囲に収まる可能性が高いとした。
邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。
大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。
市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的な分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。
一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する。
研究紀要は16日から、桜井市立埋蔵文化財センターで販売する。1冊千円。問い合わせは桜井市文化財協会(0744・42・6005)。(渡義人、田中祐也)
〈纒向遺跡〉 奈良盆地東南部の三輪山西側に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳など最古級の前方後円墳が点在し、ほぼ東西に方位をそろえて並ぶ神殿のような建物跡も出土。関東から九州まで各地の土器が出土し、運河が縦横に走るなど都市機能を備えていたとされる。
桃の種は135~230年のものだった。『魏志倭人伝』には《卑弥呼は239年、魏に使いをおくり、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ、その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた》(『もういちど読む 山川日本史』)とあるからこの年代と符合する。箸墓古墳の築造時期(240~260年)にも近い。これで大型建物(桃の種が発見された纒向遺跡で建物跡が見つかっている)も、その頃(3世紀前半)だと推定できる。なお最近になって、大型建物の柱が復元されている。
纒向遺跡 柱復元で建物の規模再現
桃の種は2,765個も出土している(2010年の調査)。これが発表されたとき「昔の人って、そんなにたくさん桃を食べたの?」という質問を受けたが、これは食用ではなく祭祀用、つまりお供えとかお呪(まじな)いに使われたのだ、というのが一般的な解釈である。古代の桃は、硬くて酸っぱくて小さくて、食用には向かなかったのだそうだ。
桃が食用として広まるのは明治以降、中国から輸入された桃を品種改良されたものだ。桃は「桃源郷」(異界)という文字に使われたり、おとぎ話「桃太郎」にも登場する。『古事記』では、黄泉の国から脱出したイザナギノミコトは、桃の実を投げつけて黄泉醜女(よもつしこめ)から逃れたと書かれている。霊力のある果物とされたのだろう。
ともあれ、これで「卑弥呼の生没年―桃の種・大型建物跡―箸墓古墳」が一直線でつながったということになるのだ!もっとも九州説の高島忠平さんは「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」(朝日新聞)と反論しているのだが…。では最後に朝日新聞夕刊(5/14付)の記事全文を紹介しておく。
卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石
女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135~230年とみられることがわかった。市纒向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物跡(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。
特集:纒向(まきむく)遺跡
センターによれば、桃の種は2010年に大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)の南約5メートルにある穴から約2800個みつかった。祭祀(さいし)で使われた後に捨てられた可能性などが指摘されている。
中村俊夫・名古屋大学名誉教授と、近藤玲(りょう)・徳島県教育委員会社会教育主事が、それぞれ加速器質量分析(AMS)による放射性炭素年代測定を実施し、測定結果を、18年の纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第6号」で発表した。中村さんは15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた12個について、135~230年と分析。近藤さんも桃の種2個で同様の結果が出たほか、土器に付着した炭化物やウリの種も分析し、100~250年の範囲に収まる可能性が高いとした。
邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。
大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。
市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的な分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。
一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する。
研究紀要は16日から、桜井市立埋蔵文化財センターで販売する。1冊千円。問い合わせは桜井市文化財協会(0744・42・6005)。(渡義人、田中祐也)
〈纒向遺跡〉 奈良盆地東南部の三輪山西側に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳など最古級の前方後円墳が点在し、ほぼ東西に方位をそろえて並ぶ神殿のような建物跡も出土。関東から九州まで各地の土器が出土し、運河が縦横に走るなど都市機能を備えていたとされる。