NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(5/24付)掲載されたのは「妙好人(みょうこうにん)大和の清九郎 高取町の因光寺」、執筆されたのは広島県出身・生駒市在住の田原敏明さんである。
※トップ写真は因光寺(高取町)と大和清九郎像
こんなスゴイ人が大和にいたとは、驚きである。生類憐れみの令や赤穂浪士の討ち入りがあった時代の話である。まずは記事全文を紹介する。
近鉄吉野線葛駅ホーム案内板の「大和清九郎の墓 南東3.5㌔㍍」に好奇心をそそられ、何者だろう? と思案していると、地元の方が近くの因光寺(いんこうじ)に清九郎像があると教えてくれました。
1678(延宝6)年、清九郎は現在の高取町に生まれました。33才で妻を、42才で娘を失い仏法に深く帰依します。母を背負っての寺参りなど孝行心厚く、それを知った高取藩主からの褒美の米5俵も「子が親に孝行するのは当たり前」と辞退。代わりに領内の薪(まき)の伐採権を与えられました。
寺の境内には親鸞聖人の逮夜(たいや)の仏飯用の薪献上に上洛する清九郎像があります。清貧生活の中に、彼の徳を感じた盗賊も改心したそうです。清九郎の墓へは風薫る山道を歩きます。時折、ウグイスが「ホ~法華経」と念仏を唱えているようでした。
妙好人(みょうこうにん)とは、この世の栄達を無視して信条に生きる人のことです。清九郎像は、人の世の誠を語り続けていくことでしょう。
メモ:因光寺へは近鉄吉野線葛駅より徒歩5分。大和清九郎の墓へは因光寺より山道(標識あり)徒歩約40分(奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)。

この写真は大和清九郎の墓(高取町丹生谷)
インターネットで「大和清九郎」と検索してみると、いろんな情報が出てきた。
1.大淀町の公式ホームページ
妙好人清九郎
鉾立峰の奥に眠る「妙好人 清九郎」の墓(高取町丹生谷)には、いまだにその徳を慕っておとずれる人々が後を絶ちません。清九郎は延宝6年(1678年)、高市郡矢田村(今の高取町谷田)に生まれ、幼いときは同郡丹生谷村(今の高取町丹生谷)で、12歳の頃からは吉野郡鉾立村(今の大淀町鉾立)で青春の頃をすごしたと伝えます。
そのころの清九郎は、山を下って吉野川を渡り、下市の油屋さんに奉公へ出かけ、夕方鉾立へ行き母の面倒をみて、夜更けに奉公先へ戻り、冷たいご飯を食べる、という生活をくりかえしていました。23歳のとき父を失い、母のことも考えて奉公をやめ、きこりとなったようです。隣村から養子の久六をむかえた後は丹生谷に隠居し、寛延3年(1750年)の旧8月4日、72歳でこの世を去りました。
清九郎については、その人柄をさまざまな逸話が伝えています。その生き方を評して、後の人は彼を「妙好人(特に信心が厚く徳の高い人のこと)」と呼ぶようになりました。
2.高取町Nさんのホームページ
延宝六年(1678年)、谷田村に生まれ、幼少のころ両親とともに丹生谷村に移転、ここで生長した。「せいくろう」と仮名で書かれたものでも読めない無学文盲であったが、孝心深く母によく仕えた。
清九郎の親孝行が高取藩主の耳に入り、ほうびに米5俵を与えられるが、「子が親に仕えるのはあたりまえ」と言って辞退する。その志にうたれた藩主は再び清九郎を呼び、領内の山の木や柴を自由に刈り取ってよいという特権を与えた。清九郎に対する賞賛は真宗、心学の立場から高く評価され、色々な出版物が出された。
3.浄土真宗本願寺派 観念寺(大阪府南河内郡河南町)のホームページ
幼い頃は親孝行であった清九郎さんが、読み書きが出来ないため、丁稚奉公先でいじめられ落ち込み愚れる。そして博打・盗みなどの非行を繰り返し、人間的にトコトン落ちていった清九郎さんだが、やがて篤信の女性と結婚し一人娘に恵まれるが、その奥さんは苦労の連続で亡くなり、そこではじめて改心。やがて仏の清九郎と呼ばれるようになってゆく。…いかにも、ドラマチックな人生ではないか!?(でも、家族やまわりの人は大変やったやろうなぁ…)
4.「魂が震える話」ブログ
清九郎往生の前年の七月上旬、原谷村の祐安という同行のもとで法事があり、お参りしている留守中に盗賊が壁を壊して入り、筵の下に入れておいた銀札七匁を盗まれてしまいました。
人びとがそれを聞いて、「盗みに遭われてお気の毒なことでした」と言うと、清九郎は「盗みをするほどの者ならば、さぞかし不自由をしているであろうに、我が家に入っても何も盗るものがなく、さぞ残念であったであろうしかしながら、先日まで菜種を売った代金が銀札で十五匁あったものを八匁は春以来の洗濯料に支払ったので、残りの七匁しか盗って帰ることしかできませんでした。いつもであれば、この七匁もなかったのですから、よいときに入って来て、手を空しくさせず、わずかでも盗られるものがあって嬉しく思います」。
と言ったので、村人たちは興ざめして、「お金を盗まれてどうしてそんなに嬉しいのか」と尋ねると、「私も生まれつき凡夫で、盗人を兼ねているような性分ですが、今はお慈悲のおかげで盗む心も起こらず、かえって盗まれる身になったということは有り難いことです…。
とまあ、たくさんのエピソードが出てくる。「清九郎に対する賞賛は真宗、心学の立場から高く評価され、色々な出版物が出された」というのもうなづける。私も因光寺やお墓にお参りし、清九郎さんにあやかりたいものだ。合掌。
※トップ写真は因光寺(高取町)と大和清九郎像
こんなスゴイ人が大和にいたとは、驚きである。生類憐れみの令や赤穂浪士の討ち入りがあった時代の話である。まずは記事全文を紹介する。
近鉄吉野線葛駅ホーム案内板の「大和清九郎の墓 南東3.5㌔㍍」に好奇心をそそられ、何者だろう? と思案していると、地元の方が近くの因光寺(いんこうじ)に清九郎像があると教えてくれました。
1678(延宝6)年、清九郎は現在の高取町に生まれました。33才で妻を、42才で娘を失い仏法に深く帰依します。母を背負っての寺参りなど孝行心厚く、それを知った高取藩主からの褒美の米5俵も「子が親に孝行するのは当たり前」と辞退。代わりに領内の薪(まき)の伐採権を与えられました。
寺の境内には親鸞聖人の逮夜(たいや)の仏飯用の薪献上に上洛する清九郎像があります。清貧生活の中に、彼の徳を感じた盗賊も改心したそうです。清九郎の墓へは風薫る山道を歩きます。時折、ウグイスが「ホ~法華経」と念仏を唱えているようでした。
妙好人(みょうこうにん)とは、この世の栄達を無視して信条に生きる人のことです。清九郎像は、人の世の誠を語り続けていくことでしょう。
メモ:因光寺へは近鉄吉野線葛駅より徒歩5分。大和清九郎の墓へは因光寺より山道(標識あり)徒歩約40分(奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)。

この写真は大和清九郎の墓(高取町丹生谷)
インターネットで「大和清九郎」と検索してみると、いろんな情報が出てきた。
1.大淀町の公式ホームページ
妙好人清九郎
鉾立峰の奥に眠る「妙好人 清九郎」の墓(高取町丹生谷)には、いまだにその徳を慕っておとずれる人々が後を絶ちません。清九郎は延宝6年(1678年)、高市郡矢田村(今の高取町谷田)に生まれ、幼いときは同郡丹生谷村(今の高取町丹生谷)で、12歳の頃からは吉野郡鉾立村(今の大淀町鉾立)で青春の頃をすごしたと伝えます。
そのころの清九郎は、山を下って吉野川を渡り、下市の油屋さんに奉公へ出かけ、夕方鉾立へ行き母の面倒をみて、夜更けに奉公先へ戻り、冷たいご飯を食べる、という生活をくりかえしていました。23歳のとき父を失い、母のことも考えて奉公をやめ、きこりとなったようです。隣村から養子の久六をむかえた後は丹生谷に隠居し、寛延3年(1750年)の旧8月4日、72歳でこの世を去りました。
清九郎については、その人柄をさまざまな逸話が伝えています。その生き方を評して、後の人は彼を「妙好人(特に信心が厚く徳の高い人のこと)」と呼ぶようになりました。
2.高取町Nさんのホームページ
延宝六年(1678年)、谷田村に生まれ、幼少のころ両親とともに丹生谷村に移転、ここで生長した。「せいくろう」と仮名で書かれたものでも読めない無学文盲であったが、孝心深く母によく仕えた。
清九郎の親孝行が高取藩主の耳に入り、ほうびに米5俵を与えられるが、「子が親に仕えるのはあたりまえ」と言って辞退する。その志にうたれた藩主は再び清九郎を呼び、領内の山の木や柴を自由に刈り取ってよいという特権を与えた。清九郎に対する賞賛は真宗、心学の立場から高く評価され、色々な出版物が出された。
3.浄土真宗本願寺派 観念寺(大阪府南河内郡河南町)のホームページ
幼い頃は親孝行であった清九郎さんが、読み書きが出来ないため、丁稚奉公先でいじめられ落ち込み愚れる。そして博打・盗みなどの非行を繰り返し、人間的にトコトン落ちていった清九郎さんだが、やがて篤信の女性と結婚し一人娘に恵まれるが、その奥さんは苦労の連続で亡くなり、そこではじめて改心。やがて仏の清九郎と呼ばれるようになってゆく。…いかにも、ドラマチックな人生ではないか!?(でも、家族やまわりの人は大変やったやろうなぁ…)
4.「魂が震える話」ブログ
清九郎往生の前年の七月上旬、原谷村の祐安という同行のもとで法事があり、お参りしている留守中に盗賊が壁を壊して入り、筵の下に入れておいた銀札七匁を盗まれてしまいました。
人びとがそれを聞いて、「盗みに遭われてお気の毒なことでした」と言うと、清九郎は「盗みをするほどの者ならば、さぞかし不自由をしているであろうに、我が家に入っても何も盗るものがなく、さぞ残念であったであろうしかしながら、先日まで菜種を売った代金が銀札で十五匁あったものを八匁は春以来の洗濯料に支払ったので、残りの七匁しか盗って帰ることしかできませんでした。いつもであれば、この七匁もなかったのですから、よいときに入って来て、手を空しくさせず、わずかでも盗られるものがあって嬉しく思います」。
と言ったので、村人たちは興ざめして、「お金を盗まれてどうしてそんなに嬉しいのか」と尋ねると、「私も生まれつき凡夫で、盗人を兼ねているような性分ですが、今はお慈悲のおかげで盗む心も起こらず、かえって盗まれる身になったということは有り難いことです…。
とまあ、たくさんのエピソードが出てくる。「清九郎に対する賞賛は真宗、心学の立場から高く評価され、色々な出版物が出された」というのもうなづける。私も因光寺やお墓にお参りし、清九郎さんにあやかりたいものだ。合掌。
