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空にいるような軽い気分で・・・

宗教と葬式と遺言と(その2)

2008年05月04日 11時16分36秒 | 随筆或いはエッセイ
無宗教だと伝えると反感を買ってしまうことがあると聞いた。イスラム信者に宗教は何かと聞かれたときには、法事でしか縁がなくても日本人なら自分はBuddhist(仏教徒)だと応えた方が無難だそうだ。勿論他の宗教でもいいのだが、イスラム教徒には無宗教者(無神論者)というのは一番のならず者に見えるらしいから。

随分前のことだが、砂漠の民ベドウィンにとって葬式は死者を悼むことではなく、残された者たちの生きている事への感謝の祭りなのだという記事を読んだことがある。その民はまだそのようにして伝統的な遊牧生活をしているか、それとも豊富なオイルマネーでかりそめの裕福な生を謳歌しているかどうかは知らない。

韓国映画の『祝祭』や故伊丹十三の監督デビュー作『お葬式』は興味深く観た。残された者の戸惑いがとてもリアルに滑稽に描かれていた。葬儀は結婚式より何よりも優先されることだ。

よく言われる事だが喪主および式を仕切る遺族は、葬儀を遺漏なくこなすことで気が張っていて嘆く暇もない。悲しみは事後にひたひたと押し寄せてくる。対照的にあまりのショックから葬儀どころではなく心神喪失の喪主もいる。

だいぶ弱ってはいても自力で病院通いもしていた私の父が突然の脳溢血で死んだ時の葬儀で、母は遠方から続々やってくる親戚たちにニコニコと愛想を振りまいていたらしい。それを私のきょうだいは訝しい思いで見ていたのだそうだ。「あの頃からもう始まっていたんじゃないか?」と兄は母の死後に述懐したが、一時的に精神のバランスを崩して躁状態になることだってあるのだと思う。

葬式に関わって強く感じたことがある。葬式は遺族のためのものだという事。さらに言うなら遺体さえも遺族のというより喪主のモノだという事だ。よほど生前にしっかり意思伝達をしておかなければ、死者が生前に言っていたことなどは、無視されるし曲解もされる。

ベトナムに旅行した時、ホーチミンの永久保存処理をされた遺体を見た。ホーチミンは自分が死んだら必ず火葬にするようにと遺言していた。ロシアのレーニンのように神格化されて、ガラス張りの柩で公開保存されることを望まなかったからだ。しかし国家的政治判断によってレーニンと同じようにされた。全く遺言とは逆のかたちで。

死んでからのことなど私はどうでもよいと考えているし、遺族の好きなように、世間体があるならそれなりの良いようにしたらいいとも思っている。残せる遺産という程のものがない気楽さのせいもあるけれど・・・。しかし身近には遺産問題もあった。いや今も続いている。子は夫婦のカスガイと言うけれど、親は子供達のカスガイだ。親が死んだら全くの他人になるきょうだいは多いのではないだろうか?

わたしの周りには宗教の信者が多い。いい感じの人だなと思いながら付き合いをしていると、新興宗教であったりキリスト教であったりの信者だということがかなりある。わたしは宗教を否定するつもりはない。むしろ宗教的倫理観の欠如を多くの場面に感じて嘆かわしいと思うことがある。

宗教心とは何か。倫理観とは何か。自分の中の矜持とは何か。などと何か問題がある度に考えてはいるのだが、未だにこれだなという結論に至っていない。結論など出ようはずもないのだろうし振れもブレも伴いながらいきなりの急カーブだってありそうだ。と予防線を張っておこう。
      (つづく)

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