透明タペストリー

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「場所」瀬戸内寂聴

2022-05-02 | A 読書日記

 えんぱーく(塩尻市図書館)で4月24日(日)の午後に開催された荒川洋治さんの講演「短編小説と世界」を聴いた。講演で紹介された何作かの短編小説の中に『場所』瀬戸内寂聴(新潮文庫2022年4刷)があった。荒川さんはこの私小説の最初の「南山」を取り上げて激賞、そう激賞していた。荒川さんの話芸にすっかり魅せられ、読んでみたいと思った作品の中の1作が「南山」だった。

先月28日、安曇野市豊科の平安堂で『場所』を買い求めて読み始め、昨日読み終えた。



70代後半になって、寂聴さんは思い出の地を訪ね歩き、当時の暮らしぶりや心境を思い起こす。エッセイ風に綴られた私小説。時系列に沿って描かれた半生記とも言える。

最初は父親の郷里を訪ねる「南山」。

**「(前略)この年になって、もうすぐこの世にさよならする時になって、今更、ルーツでもないけど、父がどんな所に生れ、十二の歳まで暮したか、その土地を踏んで見たくなってるんです。自分の足でそこを歩き、その場所に立ちますとね、土地の記憶が足の裏からじかに体に伝わってくるような気がするんですよ。一種のまじないかな」**(29頁)

**田んぼの中から背をのばした夫婦連れらしい農家の人が私を見て、首の手拭いを外し、
「これはこれは、ようお出(い)でなさあんせ」
と声をかけてくれた。私はその二人にお辞儀を返してから、二人の背の彼方にある山を指して訊いた。
「あの山は何という山ですか」
幼い父が朝に夕に仰いだであろう山である。
男は仰いだ視線を戻し、おだやかな声で告げた。
「へえ、あれは南山と申しとります」**(33頁)

この後、寂聴さんは波乱に富んだ人生をトレースするように各地を訪ね、記憶に符合する場所を探す。最後は出家する前に過ごした「本郷壱岐坂」。表現力豊かに綴られた文章は魅力的だ。

通読してやはり初めの「南山」が一番好いと思った。「へえ、あれは南山と申しとります」 最後、この終わらせ方が実に好い。

いままで瀬戸内寂聴の小説を読んだことはなかった。代表作とされる『夏の終り』も。夫の教え子の青年と不倫、夫と幼い子を棄て、家を出たことなどから、この作家に良い印象がなかったことがその理由。でも『場所』でその経緯を知り、他の作品を読んでみようかな、と今は思っている。まあ、作家、それも昭和の作家に恋愛スキャンダルは付き物か・・・。