透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

芸術館の舞台裏の見学

2007-07-14 | A あれこれ

 まつもと市民芸術館を見学する機会を得ました。普段は立ち入ることの出来ない楽屋や搬出入口なども見せていただきました。

①主ホールの客席を舞台から望む
②客席の前に吊り下げられた天井
③楽屋

パンフレットによると主ホール(写真①)は最大客席数が1,800席とのことですが客席の天井を昇降させることによってホールの大きさを変えることができるんですね。今日はたまたま天井が4階のバルコニー席の前まで下げられていて中ホールスタイルになっていました(写真②)。

2階のホワイエ部分(主ホールへの出入口前)の真下の1階には楽屋が幾部屋も並んでいますが、写真③はゲストルーム付きの楽屋です。小沢征爾さんはおそらくこの部屋を利用するのでしょう。



この市民芸術館の敷地面積は約9,000㎡と決して広くはありませんが、そこに延床面積約17,700のボリュームを上手く収めたと思います。客席を前面道路側に向けて舞台を施設の中程に持ってくるというアイデア、プロポーザルの応募案では唯一この伊東案だけでした(このことはすでに書きましたが)。

そうすることによって施設の後方の住宅地に及ぼす圧迫感を軽減していますし、ホールの出入口からエントランスまでの動線を敢えて長くすることで催しの余韻に浸ることができるような計画です。また舞台への搬入口を施設のほぼ中央に確保することが出来ています。これはシビアな敷地の条件に対する優れた回答だと思います。

2階のシアターパークや屋上のトップガーデンは夜まで開放されています。かつてこの場所には市民会館がありました。その屋外公園に倣ってそうしている、と説明を受けました。芝生のきれいなトップガーデンがデートスポットとして定着しているのかどうかは知りません。


サッカーアジア杯観戦

2007-07-14 | A あれこれ
 サッカーのアジアカップ。

1次リーグ初戦のカタール戦は決定的なチャンスをものに出来ないいつもの日本のパターンだった。枠の中にキッチリと打て! 意味のない細かなパスなんかやめろ! いらいらしながらテレビを見た。残り時間あと数分での失点で引き分けじゃ情けない。

比して昨晩の試合、対UAE戦は初戦より速いパス廻しで前線までボールが繋がった。サイドチェンジも有効だった。でもまだ物足りない。サッカーは格闘技だ。もっと貪欲にゴールを狙わないと。観戦者は勝手なことを言う。高温多湿なコンディションで選手はよく動いたと誉めるべきかもしれない。

さて、次のベトナム戦はキッチリと無失点で勝って欲しい。でもカウンター攻撃を積極的に仕掛けてくるベトナムは日本にとって一番手ごわい相手かもしれない。

機能性と意匠性の合一

2007-07-13 | A あれこれ



 高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(バリアフリー新法)が昨年12月20日に施行され、それに伴って高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律(ハートビル法)が廃止された。 このことを実はごく最近まで知らなかった。不明を恥じるばかりだ。

移動ではなくて移動等となっているがその対象範囲はよく知らない。高齢者や障害者の移動等の円滑化を促すと聞いてまず思い浮かぶのは手すり。

今回は手すりについて何か書こうと思っていたので夕方松本駅の階段の手すりの写真を撮った(左)。

手すりは機能的に重要な役目を負っている。それと同時に空間の雰囲気を規定する意匠的に重要な要素でもある。

その機能は次のように大別できる。

〇 墜落防止(マンションのバルコニーなどの手すり)
〇 歩行補助(廊下や階段の手すり)
〇 動作補助(トイレや浴室の手すり)

特に階段の手すりのデザインに昔から建築家たちは心血を注いできた。たかが手すり、されど手すりなのだ。

意匠と機能とは本来不可分なのもだと思うが、階段や廊下の手すりに関して言えばこの関係を無視したものが多い。意匠的には優れているものの機能的ではない、あるいはその逆のデザインが案外多いのだ。

松本駅の階段の手すりは2段。下の手すりの方が細い。身長の小さな人(子ども)の利用を想定しているのだろう。機能的には問題なさそうだが、木の質感が空間の雰囲気に合っているとは思えない。

一方右の写真は雑誌に掲載されているある老人ホームの廊下の手すりだが、引き手やドア枠などと同材のパーチ合板が使われている。

手すりは丸いものという固定観念にとらわれるとこのような手すりは使いにくいと思ってしまう。だが、機能性を無視して見てくれだけを気にしたデザインだと結論付けるのは早計だ。

丸い手すりはきちんと握ることを前提としているので、握力の弱い老人には不向きだ。むしろ手すりの上面に掌を置くことが出来るような断面形状の方が好ましい。図面によると上面の幅は36ミリ、そのくらいの厚さの本で試してみると思いの外使いやすい。機能的にも意匠的にも優れた手すりの好例だと思う。


 


ガラスのコーンの補稿

2007-07-12 | A あれこれ

 前々稿で「建築ジャーナル」という月刊誌に黒川さんがコーン(円錐形)が好き、だから使うとインタビューに答えている記事を見つけたと書きました。発注者を納得させるのにはなぜコーンなのか理由をきちんと説明する必要があります。

なんとなくコーンが好きですから・・・などという説明では発注者はその採用を渋るかもしれません。採用するデザインにいかにもっともらしい理屈を後からつけるか、建築に限らず広くデザインにかかわる人たちに必要な能力、といってもいいでしょう。そう、はじめに理屈、理念、コンセプト(どの言葉でもいいですが)ありきではなく、それはあくまでも後から考えだすものなのです。結果(デザイン)から川を遡って源流の理念、コンセプトに到達するんです。

黒川さんは「共生」をキーワードに、採用するデザインの「必然性」を説明してきました。 国立新美術館の曲面の外壁とコーンの組み合わせ。幾何学的な形状は近代建築の特徴。近代と未来の共生。

いくらでもある幾何学的な形状のなかでコーンを近代建築の象徴として採用するのはなぜか。 

**天文学者は天動説から地動説へ、そして円形軌道から楕円軌道であることを発見した。円錐は水平に切ると円形、でも斜めに切ると楕円形になる。この特徴に歴史的、宇宙的な魅力を感じる。**

前々稿ではこの部分を引用し落としました。こういうことを説明されるとコーンに確かに魅力を感じます。発注者はその採用をOKするでしょう。



昨日東京の表参道に在るこのコーンの前を通りました。この記事を読んだからでしょうか、コーンが魅力的に見えました。黒川さん、このコーンは自分の作品に印すサインなんですと説明しても発注者は了承すると思いますけど。


晴れ男効果でしょうか

2007-07-11 | A あれこれ

 ひと月に35日雨の降るところと屋久島を評したのは作家の林芙美子でしたっけ。その屋久島へ私が出かけたのは学生のときでした。

宮之浦岳と永田岳に登るのが目的でした(宮之浦岳は九州の最高峰)。確か島に3(4?)日間滞在したと思いますが、その間好天が続きました。私は晴れ男、旅行に出かけて雨に遭ったという記憶がほとんどありません。

今日は所用で東京へ出かけてきました。今朝の予報では確か東京は曇りときどき雨。荷物で両手がふさがっていました。ときどき小雨がしとしと降ったものの傘を差さずに目的地に到着できました。「晴れ男効果」でしょう、きっと。 



例によって往復の電車で読書。但し前回ほど読書に集中できずにこの文庫の上巻を読了できませんでした。 上巻の残りは明日読みます。

村上春樹の世界を巡る旅も終盤です。


 


ガラスのコーンの意味

2007-07-10 | A あれこれ

 建築でコーンというと黒川紀章氏の作品。ガラスのコーンが何を意味しているのか、氏の説明文を目にしたことがないので分からない。昨年の12月21日にこう書きました。



黒川さんの作品に頻出するガラスのコーン。とうとう黒川さんの説明文を見つけました。「建築ジャーナル」という月刊誌の7月号に載っていました。

**エントランス部分にコーンを使う理由は何かあるのでしょうか**黒川さんの設計事務所にかつて在籍していたある建築家がインタビューしています。

**もともとコーンの形状が好きだという個人的な理由はあった。(中略)コーンは同底面積の円柱よりも経済的ということもある。仮に円柱の形状にしたら柱梁だけでは剛性が確保できずにブレースを入れなければならないが、コーンはブレースなど必要ない。(中略)カーテンウォールはもちろんフラクタル曲線である。それに宇宙的形状のコーンを溶け込ませることで共生を表現している。** 黒川さんはこのように答えています。

近代建築の特徴である幾何学的な形状のコーンと曲面で構成されている近未来的な外壁との共生、過去と未来の共生。理屈を敢えてつければこのようになるのでしょうが、黒川さんはコーンが好きなんですね。

以前も書いたことの繰り返しになりますが、建築家は好きな形をデザインに採りいれます。好きな形に収斂させる、そのためにスケッチしているようなものです。それにもっともらしい理屈を後から付け加えるんです。

黒川さん、インタビューに素直にコーンが好きだと告白していました。これでスッキリしました。


 


楽しみな夏の公開講座

2007-07-09 | A あれこれ



● 東京土建技術研修センター主催の公開講座の受講券が届いた。昨年に引き続き今年も受講する予定。

今回の講師は富山市在住の棟梁島崎英雄氏。東京の友人が送ってくれたパンフレットによると、島崎氏は古民家に伝統的な建築技術を学び、その技術を生かした家造りに取り組んでおられる方だという。

在来木造住宅は依然として造られてはいるが、主要な構造部の柱や梁は今や工場の加工機械によってプレカットされることが多い。大工さんが加工場で墨付けをして刻む機会が激減してしまった。仕口や継手(部材相互のジョイント)が簡略化されて金物を使うことが多くなった。

伝統的な継ぎ手を用いれば金物を使わなくても部材は強度的に一体化するのだが、それを定量的に評価することは難しい。法規が金物を使う安易な構法の採用を規定している背景のこうした事情も分からないわけではないが、伝統的な木造技術というこの国固有の文化を守らなくてはならないという理念の欠如を指摘せざるを得ない。

石膏ボードで構造体を隠してしまってビニールクロスを貼って、ハイ、デキアガリ。これでは確かに手間のかかる仕口や継手を使うことを躊躇うことにもなるだろう。設計者としては優れた技を隠さずに見せるような設計を心がけなければならないだろう。

このような時代にあっても伝統的な構法にこだわっている大工さんもおられる。おそらく島崎氏もそのひとりだろう。

島崎氏は**家を百年もたせるには百年経った家を見ればいい**と説き、続けて**法規は建った今のことだけを言う。新築ばかり見てたんじゃだめだ**と指摘する。長年の経験に基づく言葉は重い。

公開講座は来月5日の午前10時から、当日は早起きして出かけよう。


人との出会いは偶然か

2007-07-08 | A あれこれ



『偶然と必然』J.モノー/みすず書房

この本について書こうというわけではありません。人と知り合いになるということ、それは偶然?それとも必然? 

クールに考えれば人との出会いは全くの偶然なんでしょう。そもそも人がこの世に存在するということが偶然ですし、出会いに必然性など考えようもありません。

でもこの考え方では割り切れないのも事実です。運命的な出会い、生まれる前から赤い糸で結ばれていた・・・。人との出会い、特に異性との出会いを必然だと捉えたい時にはこのような表現をすることがあります。

あの時、電車で隣り合わせなければ・・・、声をかけなければ・・・、メールアドレス交換しなければ・・・。いくつもの偶然が重なるとなんとなく必然のようにも思えます。

川は低い方に向かって流れています。来し方を振り返るとそれは川の流れのように必然だとも思えます。今までに出会った多くの人達、それぞれの出会いもなんとなく必然であったように思えます。

人との出会いを偶然などと割り切って考えるより必然だと考える方が、私は好きです。



 


村上春樹の短編を読む

2007-07-08 | A 読書日記



『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫を読み始めたが、文字が細かくて中年の目にはつらい。

昨日書店の文春文庫の棚でこの本を見つけた。新潮文庫や講談社文庫ほど目立たないが文春文庫にも村上春樹の作品が何点か収録されている。

短編を読むつもりはなかったが、**村上春樹は短編も凄い!**という帯のコピーに、つい読んでみようと買い求めた。今朝表題作の「レキシントンの幽霊」を読んだ。

ケンブリッジに住んでいた時に建築家のケイシーと知り合った僕。ある時彼の家の留守番を頼まれた僕は彼の家に泊まった最初の夜に「幽霊体験」をする。

半年後に二人は偶然再会してカフェテラスでコーヒーを飲む。ケイシーは「僕の母が死んだとき、僕はまだ十歳だった」と過去の話を切り出す。彼の父親は彼女のことをとても深く愛していて、葬儀が終ってから三週間も眠り続けたと語る。彼もまた愛していた父親が死んだとき二週間くらい眠り続けたという。

**そのときには、眠りの世界が僕にとって本当の世界で、現実の世界はむなしい仮初めの世界に過ぎなかった。(中略)つまりある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ。**

40ページに満たない作品だが、村上春樹の世界のモチーフが凝縮されてる。80日間で彼の世界を巡る予定だが、ときどき路地にも入り込まなくては旅の魅力が充分味わえないのかもしれない・・・。


 


五重塔について書こう

2007-07-07 | A 読書日記



 1957年(昭和32年)の7月6日未明、幸田露伴の『五重塔』のモデルになった谷中の五重塔が焼失した、ということをNHKのラジオ番組で知った。不倫関係の清算のために放火心中をしたことが原因だという。

ということで、今回は五重塔をとり上げようと思う。

手元に『五重塔はなぜ倒れないか』新潮社 があるが、ずっとBモードで来たので、急にAモードにはならない・・・。



● ならば、こちらの話題はどうか・・・。幸田露伴の娘が幸田文、孫が青木玉、ひ孫が青木奈緒と四代も文人が続く。青木奈緒のエッセイ集『うさぎの聞き耳』があるはずだが、書棚を探しても見つからなかった。 

青木玉の落ち着いた文章が好きで何冊か読んだがこのところ読んでいない。雨にうたれる紫陽花を見ながら読むといいのだが・・・。

阿川弘之は露伴に師事した。娘の阿川佐和子は小学校に入学するとき露伴からランドセルを贈ってもらった、と確か彼女のエッセイで読んだような気がする。おっと、これは間違い。阿川弘之が師事したのは志賀直哉だった。彼女は志賀尚哉から入学祝いにランドセルをプレゼントされたのだ。

そのことを確認しようと文庫本を何冊かあたってみたが見つからなかった。

● NHKのテレビ番組「美の壺」でも五重塔がとり上げられた。五重塔は古代インドのストゥーパ、即ち仏舎利を収めた墓が姿を変えたものだという。

で、番組によると五重塔の観賞マニュアルは

その一 軒の曲線に木の技を見よ
その二 層が刻むリズムを味わえ
その三 塔に込められた祈りを感じよ  

だそうだ。

奈良、京都には五重塔がよく似合う。今のように高層ビルがなかった時代には五重塔は遠くからもよく見えるランドマークだっただろう。

紅葉の季節に出掛けたい。


七夕の夜に願うことは

2007-07-07 | A あれこれ


 昨晩書いたブログの誤りに今朝通勤途中で気がついた。阿川弘之が師事したのは幸田露伴ではなくて志賀直哉だ。幸田露伴と志賀直哉を間違えるなんて・・・。昔から人の名前をよく間違えるが、これはひどい。アルツハイムに引っ越さなくては。

露伴が亡くなってもう60年になる。阿川佐和子さんは今年53歳。だから彼女のランドセルを露伴が贈るということはあり得ないじゃないか。



そう、阿川佐和子さんは志賀直哉からランドセルを贈ってもらったのだ。そのことはここにある本のどこかに書いてあると思うのだが、さがせない。

さて、前稿を書き直そう。

村上春樹の多層な世界

2007-07-04 | A 読書日記

 今夜も村上春樹。

『スプートニクの恋人』の大半は昨日電車の中で読んだ。『ダンス・ダンス・ダンス』と同様の精神世界を描いているのだろうが、その広がりをあまり感じることなく、今日読み終えた。

物語は表面上シンプル。主な登場人物も三人と少ない。国立に住んでいるぼくは小学校の教師をしている(余談だが僕も昔国立に住んでいた)。すみれはぼくが好意を寄せる女性。そしてミュウはすみれが恋してしまった年上の女性。さらにもう二人挙げれば、ぼくの教え子のにんじんとその母親。この二人も読み様によっては重要な役割を負っている。すみれはミュウと仕事の関係でヨーロッパに出かけてギリシャで失踪してしまう。失踪したというより消えたというべきか。

**すみれはあちら側に行ったのだ。**

**すみれがぼくにとってどれほど大事な、かけがいのない存在であったかということが、あらためて理解できた。すみれは彼女にしかできないやりかたで、ぼくをこの世界につなぎ止めていたのだ。**

**ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった。**

喪失感、孤立感を味わうぼく。

**ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。ぼくは、それを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。** 

自己回復、自己再生の兆しを示して『ダンス・ダンス・ダンス』と同様にこの物語は終る。小説の完成度という点では『ダンス・ダンス・ダンス』の方がかなり高いのではないか。

ところでこの小説にはこんなくだりがある。**ミュウはスイスの小さな町の遊園地で、一晩観覧車の中に閉じ込められ、双眼鏡で自分の部屋の中にいるもう一人の自己の姿を見る。ドッペルゲンガーだ。(中略)彼女は一枚の鏡を隔てて分割されてしまったわけだ。**

これは『アフターダーク』のマリと姉のエリの関係に似ているというか同じだ。エリはマリが乖離した半分と見ることができるだろう。

つまり『アフターダーク』は乖離してしまった自己の再統合のプロセスを描いた物語という理解も可能だろう。このテーマをすでに先に引用した部分に見出すことができると気がついた。

どうやら全ての小説を統合することで浮かび上がる意味や構造があるようだ・・・。

『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険』
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『国境の南、太陽の西』
『ねじまき鳥クロニクル』
『スプートニクの恋人』
『海辺のカフカ』

『アフターダーク』



さて、次はこれ。




現実と幻想を隔てる壁

2007-07-03 | A 読書日記



 所用で東京へ 『ダンス・ダンス・ダンス』の下巻を新宿までの電車の中で読み終えた。電車の中は最適の読書空間だ。何故か読書に集中できる。ときどき窓外を流れる景色に目をやる。そしてまた読書に戻る。

僕がハワイのダウンタウンで偶然見かけたキキ、彼女が僕に見せたのは死の世界。**風化した六体の白骨。それは何を意味するのだろう?(中略)キキは僕にいったい何を伝えようとしているのだ?** 

六体の白骨に符合するように死体が増える。鼠、メイ、ディック・ノース、キキ、五反田君。そして・・・。

僕は日本に帰ってきて再び札幌の「いるかホテル」にユミヨシさんを訪ねる。現実と幻想を隔てるなんとも危うい壁。その壁のこちら側から向こう側へ消えた彼女。僕はこちら側へ引き戻した彼女と生きていく決心をする・・。

『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険』

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『国境の南、太陽の西』

『ねじまき鳥クロニクル』
『スプートニクの恋人』
『海辺のカフカ』

『アフターダーク』

新宿、小田急デパートの10階の書店で『スプートニクの恋人』を買い求めた。帰りのあずさで読み出したが『ダンス・ダンス・ダンス』ほどには集中できなかった。


 


村上春樹に戻ってきた

2007-07-02 | A 読書日記



 少し寄り道したが村上春樹に戻った。

『羊をめぐる冒険』の続編の『ダンス・ダンス・ダンス』上巻を読了した。「いるかホテル」を再訪した僕、フロント係のユミヨシさんと知り合い、ホテル内の不思議な空間で羊男と再会し、有名な写真家の娘ユキ(中学生)と知り合い、ふたりは東京に一緒に帰ってくる。彼女の父親のすすめでふたりはハワイに出かけていく・・・。

さて下巻ではどんな展開をみせるんだろう。それにしても初期3部作とそれにつづくこの物語、どうも表層をなぞっているだけでその奥底に漂っている「何か」を読み取っていないような気がする。一通り読んだらまたこれらの作品に戻ってこよう。

『ノルウェイの森』を読んだのはいつのことだったか、ストーリーを忘れてしまった。いつか再読しよう。

『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』

『羊をめぐる冒険』
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』

『国境の南、太陽の西』
『ねじまき鳥クロニクル』
『スプートニクの恋人』
『海辺のカフカ』
『アフターダーク』


 


ブルームーンの色は?

2007-07-01 | A あれこれ



 先日書きましたが、6月は満月が2回ありました。昨晩は空一面厚い雲に覆われていて観月はなりませんでしたが。その月2回目の満月のことをブルームーンということを東京の友人のブログで知りました。

次のブルームーンはいつ? ネットで調べてみました。2010年1月、3月。

 ♪ 月がとってもあおいから、遠まわりしてかえろ って この場合は意味が違うんでしょうね。青い月が出ているわけではないんでしょう。 

火山の噴火の後などには大気の塵の影響で本当に月が青く見えることがあるそうです。仮に昨晩そのような月を観ることが出来たとしたら青い月のブルームーンだったって、何だかややこしい。どんな色でしょう・・・ やや紫がかっている?緑っぽい? それともこの紫陽花のような青?